2 エミリアの日常世界
ベルクール辺境伯爵領の朽ち果てた古城で、エミリア・ド・ベルクールは薪を割る手を止めた。十八歳の彼女の手は、貴族の娘とは思えないほど働き者の証拠で満ちている。
「今月の支払いが……金貨千枚……」
台所の古いテーブルに広げられた家計簿を見つめながら、エミリアは深いため息をついた。父親が負った借金の明細書には、見るだけで気が遠くなるような数字が並んでいる。金貨一万枚という金額は、この没落した伯爵家には到底用意できない途方もない額だった。
「エミリア? 今日も新しいスープね」
奥の部屋から母親の弱々しい声が聞こえてくる。エミリアは慌てて家計簿を隠し、いつものように明るい表情を作った。
「はい、お母様。今日は薬草をたっぷり使ったスープですよ」
鍋の前に立つと、不思議なことが起こった。エミリアの脳裏に、見たことのないキッチンの光景がよぎる。ステンレスの調理台、色とりどりのスパイス、そして自分が白いコック帽を被っている姿……。
「菜月……菜月ちゃん、このケーキ最高!」
誰かの声が聞こえたような気がして、エミリアは首を振った。また例の、妙な記憶の断片だった。生まれてこの方、菜月という名前で呼ばれたことなど一度もないのに。
「あら、また新しいレシピね。エミリアは本当に料理が上手」
病床の母親が優しく微笑む。三か月前から床に臥せっている母親の顔は青白く、頬もこけてしまっているが、娘の手料理を食べるときだけは幸せそうな表情を見せた。
「お母様、少しでも元気になってくださいね」
エミリアは母親の枕元にスープを運ぶ。香草の優しい香りが部屋に広がり、母親の表情が少し和らいだ。
暖炉の上には、行方不明になった二人の兄たちの肖像画が飾られている。長兄のロベールは三年前に戦争で行方不明に、次兄のアンリは借金から逃れるために家を出たきり音信不通だった。
「私がしっかりしないと……」
夜中、一人で帳簿と向き合いながら、エミリアは涙をこらえていた。十八歳の少女が一人で家族を支える重圧は、想像を絶するほど重い。それでも翌朝には、いつものように明るい笑顔で家族の朝食を準備する。
「エミリア様……また支払いが……」
村の商人が借金の催促にやってきた。エミリアは深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。もう少しお時間をいただけませんでしょうか」
屈辱的な謝罪を繰り返しながらも、エミリアは決して心を折らなかった。
「エミリア」母親が娘の手を握る。「あなたは私たちの希望の光よ。どんなに辛くても、あなたがいてくれるだけで私たちは幸せなの」
夜空を見上げながら、エミリアは小さく呟いた。
「きっと何か道があるはず……私は諦めない」




