19 隠された陰謀の始動
料理バトルから三日後の深夜、ルシフェル大公の私室では密談が行われていた。
「やはり……あの娘は女神アフロディータの転生体でしたね」
ベラドンナが敗北の屈辱を噛み締めながら報告する。
「永遠愛の塩を使えるなど、普通の人間には不可能です」
ルシフェルの唇が邪悪に歪んだ。
「最初から知っていたよ。弟に呪いをかけたのも、すべては彼女を覚醒させるためだった」
「え……?」
ベラドンナが驚愕する。
「10年前、私が弟にかけた呪い……それは愛を封印するものだった」ルシフェルが立ち上がり、窓の外の夜空を見つめる。「しかし、真の目的は別にあった。女神の転生体を引き寄せるための餌だったのだ」
すべてが計算されていた陰謀だった。皇帝の冷酷さも、エミリアとの出会いも、料理バトルも……すべてルシフェルの手のひらの上で踊らされていたのだ。
「では、これからどうなさいますか?」
「彼女の神の力を完全に解放させる。そのためには……」
ルシフェルが振り返ると、その瞳には狂気の光が宿っていた。
「彼女の最も愛するものを奪えばよい」
翌朝、ベルクール辺境伯爵領に異変が起きていた。
城の周りを黒い甲冑に身を包んだ兵士たちが包囲している。ルシフェルの私兵たちだった。
「何事だ!」
エミリアの父、ベルクール伯爵が慌てて城から出てくる。しかし、兵士たちは無言で剣を構えた。
「お父様……」
病床の母親が窓から外を見て、青ざめる。
「エミリアは……エミリアは大丈夫なの?」
「心配ありません、奥様」
突然、執事のセバスチャンが部屋に入ってきた。しかし、その瞳は普段とは違う冷たい光を宿している。
「セバスチャン? どうしたの?」
母親が不審に思った瞬間、セバスチャンが懐から小瓶を取り出した。
「申し訳ございません。これもルシフェル大公様のご命令です」
小瓶から立ち上る紫の煙を吸い込んだ母親が、意識を失って倒れる。
そして駆けつけた伯爵も、同じように眠りの薬で眠らされてしまった。
一方、王都の宮廷では、エミリアが体調不良に苦しんでいた。
『永遠愛の塩』の副作用で、味覚が混乱している。料理を作ろうとしても、味がわからない。
「エミリア様、大丈夫ですか?」
侍女ルナが心配そうに声をかける。
「ありがとう、ルナ。少し休めば治ると思う」
しかし、エミリアの顔は青白く、明らかに普通の状態ではなかった。
その時、皇帝の使者が現れた。
「エミリア様、陛下がお呼びです」
謁見の間に向かうと、アドリアンが心配そうに待っていた。料理バトル以来、彼の中の愛情は確実に強くなっている。
「君の体調が悪いと聞いた。無理をしないでくれ」
「陛下……ありがとうございます」
エミリアの心が温かくなる。しかし、その幸せな時間は長く続かなかった。
突然、宮廷に緊急事態を告げる鐘が鳴り響いた。
「何事だ?」
皇帝が眉をひそめる。すると、ルシフェル大公が慌てたような演技をしながら入ってきた。
「弟よ、大変なことになった!」
「兄上……何があった?」
「ベルクール領が……何者かに攻撃されている!」
エミリアの血の気が引いた。
「そんな……お父様とお母様は……」
「残念ながら……詳細はわからない。しかし、相当危険な状況のようだ」
ルシフェルが偽りの心配を装いながら続ける。
「おそらく、君に恨みを持つ者の犯行だろう。平民出身の専属味覚師を快く思わない者たちが……」
「私のせい……」
エミリアが震え声で呟く。家族が危険にさらされているのは、自分が皇帝に近づいたせいだと思い込んでしまった。
「エミリア……」
アドリアンが彼女を慰めようとするが、ルシフェルが割って入る。
「弟よ、今は感情的になっている場合ではない。冷静に対処を……」
その時、宮廷に一羽の黒い鴉が飛び込んできた。足には小さな手紙が結ばれている。
アドリアンが手紙を読むと、顔色が変わった。
「何と書いてあるのですか?」
エミリアが震え声で尋ねる。
「『愛しい専属味覚師へ。君の家族は我々が預かった。彼らの命が惜しければ、神の力を解放せよ。場所は古い修道院の地下。一人で来ること。』」
エミリアの膝から力が抜けた。
「お父様……お母様……」
涙がとめどなく流れる。
「僕が軍を派遣する。君は宮廷にいてくれ」
アドリアンが決然と言うが、エミリアは首を振った。
「いえ……私が行きます。私のせいで巻き込んでしまったのですから」
「危険すぎる!」
「でも……家族を見殺しにはできません」
エミリアの瞳に、固い決意が宿る。
ルシフェル大公は内心でほくそ笑んでいた。すべては計画通り。エミリアは必ず罠にかかる。
「弟よ、あの娘の気持ちもわかる。しかし……」
「兄上は黙っていてください」
アドリアンが初めて兄に強い口調で言い返した。
「僕は彼女を守る。それが僕の役目だ」
「陛下……」
エミリアがアドリアンの手を握る。
「お気持ちは嬉しいのですが……これは私の問題です。私一人で解決しなければ」
夜になると、エミリアは密かに宮廷を抜け出す準備を始めた。
しかし、誰かが部屋をノックする。
「エミリア様?」
ルナの声だった。ドアを開けると、侍女が心配そうな表情で立っている。
「お一人で行かれるつもりですね?」
「ルナ……どうして……」
「お顔を見ればわかります。でも、危険すぎます!」
「でも……家族を助けるためには……」
エミリアが涙を拭う。
「それなら、せめてこれを」
ルナが小さな鈴を差し出した。
「緊急事態の時に鳴らしてください。きっと助けが来ます」
「ありがとう……本当にありがとう」
深夜、エミリアは宮廷を後にした。古い修道院へ向かう馬車の中で、彼女は家族の安否を祈っていた。
しかし、これこそがルシフェルの思う壺だった。
「ついに……女神の力を手に入れる時が来た」
大公の私室で、ルシフェルは勝利を確信していた。エミリアが神の力を解放すれば、その力を奪って世界を支配する。すべてはこの瞬間のための長い計画だった。
一方、皇帝アドリアンも密かに宮廷を出ていた。
「エミリア……必ず君を守る」
二人は同じ目的地へ向かっていたが、待ち受けているのはルシフェルが仕掛けた最後の罠だった。
愛する者を救うため、エミリアは自分でも知らない神の力と向き合うことになる。しかし、それは同時に、最愛の人との永遠の別れを意味するかもしれなかった。
古い修道院の鐘楼では、すべてを見守る黒い影がほくそ笑んでいた。長い計画の最終段階が、ついに始まろうとしていた。




