わからされたメスガキ
むか~しむかさない、今の今。
あるところに、おじいさんとメスガキが住んでいました。
おじいさんは、剱岳を踏破しに。
メスガキは、街へお気に入りのお兄さんを罵倒しに出掛けました。
メスガキが今日も元気に、お気に入りのお兄さんに向かって、「ざぁ~こ♡ ざぁ~こ♡」と煽り散らしていると、いつものようにお兄さんが落ち込み始めました。
「この前書類を送った会社、多分またサイレントお祈りだ……。僕は不採用の通知すら送る必要のない人間だと思われているのかもしれない……」
「クスクスッ。ざぁ~こ♡」
「せめて、ますますのご活躍をお祈りしてくれよ……」
「だっさぁ~♡ ほ~んといつ見ても辛気臭い顔♡」
「ひんっ……」
お兄さんは、就職活動がうまくいかず、たいそう苦しんでいました。
ブランコに座ってゆらゆらと揺れているお兄さんが放つ負のオーラはすさまじく、ハトは逃げ、虫は死に、遊んでいた子供たちはみな空気を読んで別の公園へ行ってしまう程でした。
「不採用の通知なんてもう見たくないと思っていたらこの有り様だ……。まさか、僕が経営理念に共感した会社は、この世から消え去ってしまう仕組みなのか!?」
「そんなわけないでしょ、ばぁ~か♡ あんたって、ほ~んと御社♡」
「ひんっ……」
本当に御社、という言葉の意味は、メスガキ自身もよく分かっていませんでした。しかし、それはお兄さんのメンタルをいたずらに攻撃するには充分すぎるものでした。まさしく、「効果は抜群だ」というやつで、お兄さんの負のオーラは、ますます色濃いものとなっていきました。
「こんな僕とお話してくれるのは、お嬢ちゃんだけだよ……。いつも本当にありがとう……」
「よわよわじゃ~ん♡ もっとしっかりしなさいよ、ばぁ~か♡」
「うん、そうだよね。もっと頑張らないとね。僕、もう少しだけこの街で就職活動頑張ってみるよ」
「ふふんっ。まぁ、またダメだと思うけどね♡」
「ひんっ……。そのときはまたここに来て、ちょっとだけ泣くことにするよ……」
「ほ~んと私がいないとダメなんだから♡ ざぁこざぁこ♡」
こうしてメスガキは満足し、お兄さんも明日への活力を取り戻して帰るような日々でした。
加えて、女児を狙う不審者ではないかと疑われ、ごくまれに警察の鋭い睨みを頂戴するような日々でもありました。
そんなある日。
特にお兄さんと待ち合わせなどもしていない公園に、メスガキがやってきました。
公園の中をキョロキョロして、ハトがおらず、虫が死んでおり、誰一人として子供たちの姿が見えないことを確認すると、彼女はパッと表情を明るくして一目散にブランコのところへ急ぎました。
やはりそこには、うつむいて地面をぼんやりと眺めながら、陰々滅々としたオーラを放っているお兄さんの姿がありました。
「あ~、あんた、まぁ~た就職に失敗したの~? よっわ♡ よっわ♡ ざっこ♡」
メスガキはお兄さんを元気づけてやろうと、早速いつものように弄り始めました。
しかし、どうしたことか。
お兄さんからのリアクションがありません。
「どうしたの?」
「……」
「ねぇ、どうしたのよ……」
「……」
「ねぇってば……」
「……」
「大丈夫? お腹痛いの?」
すると、お兄さんが勢いよく顔を上げました。
「ひっ……」
お兄さんの顔は、見たことのない程の絶望の表情でした。
「僕、この街から離れることになったんだ……」
「え……? 離れる……? どういうこと?」
「地元に帰らなくてはいけなくなってしまったんだ……」
「嘘……。じゃあ私とは……」
「うん……。お嬢ちゃんとも、もうお別れなんだ……」
「そんな……」
メスガキは頭の中が真っ白になってしまいました。
今、自分がどうしたいのか。
お兄さんにどんな言葉を伝えればいいのか。
自分はこれからどうなってしまうのか。
何もわからなくなってしまいました。
突然告げられた別れの言葉に混乱してしまっていたのです。
メスガキは気持ちの整理がつかず、ずっと黙っていました。
すると、お兄さんが――
「じゃあ、またね……。いつかまた、どこかで……」
ブランコから立ち上がり、猫背のまま公園から去ってしまいました。
夕方の公園に、メスガキだけがポツンと残されました。
「私は……。私はもう……」
メスガキは言いようのない喪失感に包まれました。
幼くして両親を亡くしたこと。
親戚中をたらい回しにされ、最終的に、山に人生を賭けていたおじいさんに育ててもらった過去。
イジメられてはいないものの、うまく人間関係を築けない学校生活。
家に帰っても誰もおらず、小学校でも疎外感を覚える毎日。
そんなとき、公園で出会ったお兄さん。
いつもブランコの上で、死にそうな顔をしているお兄さん。
自分より何歳も年下の女の子に愚痴を吐きまくるお兄さん。
逆に、罵られると情けなく声を漏らすお兄さん。
職質に合い、うろたえ、とまどい、必死に弁明するお兄さん。
それでも最後には必ず、「もう少し頑張ることにするよ」と、笑顔でそう言うお兄さん。
「お兄さん……」
その思い出の一つ一つに、メスガキはわからされました。
自分は寂しかったんだと。本当はただ、お兄さんに必要とされていたかっただけなんだと。
秋風がメスガキの頬を撫でていきましたが、彼女の涙までは拭ってくれませんでした。
街灯が点き始めた薄暗い公園。
ブランコに座り、切なく揺れているのは、メスガキ一人でした。
そのとき、街灯と茜色の夕陽が作るメスガキの影の上に、筋骨隆々とした男の足が立ちました。
「すまない……。今、帰った……」
「おかえりなさい、おじいさん……」
「剱岳、完全踏破だ……」
「おめでとう……。やったね……」
全身傷だらけでボロボロのおじいさんに、メスガキは労いの言葉を掛けてあげました。
その一方で、おじいさんはメスガキの表情が暗いことに気が付きました。
「どうした。何かあったのか?」
「ううん、何もないよ。大丈夫。それよりも、次はどこへ行くつもりなの?」
「あぁ。次は北の大地、大雪山を攻めようと思う……」
「大雪山……?」
「北海道だ」
「そう……。次も頑張らなくちゃね……」
こうしてメスガキは、急遽、北海道へ引っ越すことになりました。
彼女はもう、お兄さんのいなくなったこの街に未練はありませんでした。
北の大地は、前の街と同様、メスガキを受け入れてはくれませんでした。
新しい小学校には中々馴染めず、晩秋の肌寒い空気がメスガキの心と体を冷やしました。
おじいさんが山へロマンを追い求めに行ってしまうと、またいつもの深い深い孤独が襲ってきました。
放課後。友達のいないメスガキは、ひとりぼっちで並木道を歩いていました。
もちろん家に帰っても誰もいないので、その足取りは重いものでした。
メスガキは背負っているランドセルの重さ以上の重みを感じていました。
「あれ……? きみは確か……」
すると、メスガキの耳に、聞き覚えのある男の声が聞こえてきました。
「まさか、きみは公園のお嬢ちゃんじゃないか!?」
「えっ!?」
その男は、地元に帰ると言っていた、あの公園のお兄さんでした。
メスガキの小さな身体に温かいものが流れ込んでくるようでした。
「こんなところで、本当に奇遇だね……。また会えて嬉しいよ……」
「あ~、どうせあんたのことだから、またここでも就職に失敗したんでしょ? ざぁこざぁこ♡」
メスガキはそう言うと、わくわくしてお兄さんの情けない声を待ちました。
そうして、彼に必要なのは自分だけだ、と安心したかったのです。
しかし、お兄さんの返答はメスガキの予想を裏切るものでした。
「聞いてくれ、お嬢ちゃん!! 僕、こっちで就職に成功したんだ!!」
嬉しそうなお兄さんの表情を見て、メスガキの心はチクリと痛みました。
嬉しいけれど、嬉しくない。そんな複雑な気持ちでした。
「そうなの……。やったわね……」
「うん!! めげずに頑張ってよかったよ!! これもお嬢ちゃんのおかげだね!!」
「そうね、私のおかげね……」
メスガキの目に涙が滲みました。
それでも心を奮い立たせ、あの公園で言えなかったお別れの言葉を、今度はちゃんとお兄さんに言ってあげようと決意しました。
「おめでとう、お兄さん。もうあのときのような、ざこざこのよわよわじゃないのね」
メスガキは顔を上げ、お兄さんの目をしっかりと見て、毅然とした態度でそう言いました。
しかし、どういうわけか、お兄さんの目まで潤んでいました。
「なっ、何よ。どうしたのよ、一体……」
「違うんだ……。僕はダメなんだ……。まだまだ、ざこざこのよわよわなんだ……」
「えっ?」
メスガキは拍子抜けしました。
「それがな、お嬢ちゃん……。聞いてくれよ……。ちょうどあそこに、いい感じの公園もあることだし……」
「ええっ?」
妙な流れで、あの街よりも広い公園のブランコに座ることになったお兄さんとメスガキがいました。
「どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉」
「いや、なんで走れメロス?」
「やれプラグマティック!! やれサスティナビリティ!! やれコアコンピタンス!! 挙句の果てに今日の社食はアマトリチャーナだ!! 北海道は……いいや、僕の会社は!! 知らない間に外資に侵食されてしまっていたというのか!!」
舶来の難解極まる言葉の数々に怯え、そう騒ぎ立てるお兄さん。
「どうしたの? っていうか、あんた昼間から飲んでない?」
「大丈夫、しらふだよ」
「なら余計に心配よ」
「それでね。僕の会社はね。ちょっと聞いて欲しいんだよ。全く酷いんだ」
そんな彼の愚痴をぶつけられたメスガキは、嫌な顔一つしませんでした。
むしろ何かを思い出したかのような表情をして、おもむろにブランコから立ち上がりました。
そして、そろりと彼のそばへ近づき、耳元に手を添えると……。
「あんたって、ほ~んと弊社♡」
静かに、そう呟きました。
お兄さんは、条件反射のごとく、「ひんっ……」と、泣きべそをかきました。
その情けない姿を見て、「全くもう……」と、メスガキは微笑みを浮かべました。
それからというもの、この並木道近くの公園では、たびたびハトが逃げ、虫が死に、遊んでいた子供たちが一斉にいなくなるといった不審な現象がみられるようになりました。
そんなときは、決まってブランコの方から、「ざぁ~こ♡ ざぁ~こ♡」という女の子の優しい声が聞こえてきましたとさ。
めでたし、めでたし。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
お楽しみいただけていたら幸いに存じます。