16 決戦の日3
「……酷い事を今から言いますよ」
「ああ」
「私は、澪ちゃんを助けてほしいです。でも、それはあの子がどうっていう話じゃなくて」
己の醜い部分を晒すように。
表情を歪めながらシャーリーは言う。
「令さんが仁の側に居て欲しくない」
シャーリーが仁に真正面から見せたそれは嫉妬の感情。
「だって令さんが居たら仁はずっと彼女だけを見ている。側に居ない今だってずっとずっとそっち見てるんですよ? 側に来られたら、私に勝ち目、無いじゃないですか」
「シャーリー……」
ああ、まただと仁は思う。
自分が令を振り切れないから、ここにも一人傷ついている人が居る。
でも、忘れられないのだ。
ずっとずっと、心の中に悔いが残っている。
その象徴が今も己の胸元にある。
溶けて歪んだ婚約指輪。渡すことの出来なかった、幸福への切符。
渡せたからと言って何かが変わるわけでもないだろう。
指輪一つが有ったところで令の終わりは覆せない。
澪の成長を側で感じながら。
同時に仁は己の時が止まっていることを強く意識させられていた。
振り切れたと思っていた。
だけど何も振り切れていなかった。
確かに仁の中で、新しい日々を受け入れ変化した部分はあった。
だけど芯の部分は何も分かっていない。
本質的なところで仁はずっと、あの日に立ち止まったままなのだ。
「ねえ、仁にとって私はなんですか? 友人ですか? 都合の良い女ですか? 澪ちゃんの親代わりですか?」
今になって、或いは今だからこそ。八年間の思いをシャーリーはぶつける。
「別に今はどれだって構いませんよ。でも教えてください。それが変わる日は、来るんですか?」
この八年間、良好な関係を築いてきた。
言い換えれば、それだけだ。
八年前の段階で良好に戻っていた関係から何も変わっていない。
シャーリーは言った。
十年かけてでも振り切らせてやると。
だが八年目にして、改めて突きつけられてしまった。
仁の根っこは何も変わっていない。
十年前から時を凍りつかせたままなのだと。
「ううん……私との関係が変わらなくても良いんです」
シャーリーの瞳は仁の瞳を覗き込んでいた。
そこに揺れる色は、ひたすらに仁を案じていた。
「仁は変わることが出来るの?」
生きているだけで多かれ少なかれ変化する。
だが頑なに、過去から変わろうとしないのならばそれは死んでいるのと同じではないだろうか。
この世界で真に不変の物は、終焉を迎えた物しか無いのだから。
仁は数年前から気付いていた。
東郷仁の物語はもう、十年前に終わってしまったのだと。
結末は無惨に焼き切られた。
今は残った灰でしかない。
「……きっと出来ないだろうな」
変われない。
いや、変わりたくない。
今となってはただ一つ、かつて居た人と繋がっていられる物なのだ。
今の自分は令の影響を大きく受けている。
出会う前と出会った後では間違いなく違う人間だ。
そんな自分が変わってしまったら自分の中からも令が消えてしまうような気がして。
だから変わりたくないのだと。
そう自覚してしまったら余計に仁の中の時は進むのを拒否するようになってしまった。
「……バカ」
シャーリーが涙を零す。
自分の思いが届かなかったからではない。
本当に仁が死ぬまで令を抱えたままで、それ以外を緩やかに拒絶していくつもりだということがわかったからだ。
そんな孤独を抱え続けるのだとわかったからだ。
「やっぱり、私じゃ仁は変えられないんですね」
「すまない……」
「謝ることじゃないです。私が悔しいだけです」
でも、とシャーリーは涙を拭う。
「諦めませんよ。諦めるのはもう八年前に飽き飽きしたんです」
「俺が言うのもなんだが……」
いや、本当に仁が言う事ではないというか仁だけは絶対に言っちゃいけないだろうという言葉なのだが。
「俺のどこがそんなに良かったんだ?」
「さあ? 色んなところですかね」
思いの外曖昧な言葉が返ってきて仁は少しばかり困惑する。
だが次に返された言葉で納得した。
「仁だって令さんの好きなところ上げろって言われたらぱっと出てきます?」
「……そうだな。お前の言う通りだ」
確かに色んな所だ。
そしてそれは。
「俺も」
「はい?」
「お前の好きなところを挙げろって言われたら色んなところって答える」
別に仁は、シャーリーが嫌いなわけじゃない。
いや、むしろ間違いなく仁にとっての一番だった時代が有ったのだ。
公私ともに支えてくれている相棒を嫌いになんてなれるはずがない。
紛れもない本心。
「そうやって、偶に餌をあげるから困るんですよ……」
そう言いながらシャーリーは仁の頬を掴んで己の唇を重ねた。
十数年ぶりのその感触をたっぷりと味わうように。数十秒はそのままで。
避けることは出来た。
引き剥がすことは出来た。
だが仁はそのどちらも選ばず。
だけどやっぱり、自分の芯に変化がなかった事を仁は自覚していた。
本当に分からないのだ。
仁は何時だって、失ってからその存在の大きさに気付く。
今のシャーリーが自分にとってどれくらいの存在なのか。
それを自分で知る事が出来ない。
それが分かって尚、シャーリーは言葉を投げかける。
「これは重しです」
今の行為をシャーリーはそう言った。
「仁が揺れている時、少しでもこっち側に引き戻せるように。羽一枚分の重さでも、傾かせられるように」
未だ澪と令との間で揺れる仁の決断を少しでも後押し出来るようにと。
シャーリーはそう言った。
「重し、か」
ああ、そうだと。これまた今更ながらに仁は自覚した。
天秤に乗っているのは令と澪だけではない。
あり得たかもしれない令との十年と、今までの十年も天秤に乗っているのだ。
そしてその中には今のシャーリーとの関係も含まれている。
「そうですよ。重しです。知りませんでした? 私、重い女なんですよ」
冗談めかした表情で、涙で瞳を濡らしながらシャーリーはそう言う。
その彼女に仁は言葉を返せない。
否、返すことが出来ない。
未だ結論を出せない仁がかけられる言葉なんて何もない。
「それでも。仁が令さんを選ぶというのなら……お願いします。そうなっても私に声をかけてください。きっと、ずっと泣いていると思うので」
その言葉は、仁によく効いた。
令を選べば、間違いなくシャーリーとの関係は破綻するのだと理解させられてしまった。
言う資格が無いと分かっても、何かを言いかけた仁の言葉を塞ぐように再度シャーリーは唇を合わせる。
「もしも」
唇を離してシャーリーは呟く。
「あの日に私が別れを切り出さなかったら、今私達はどうなってましたかね」
「……どうなっていただろうな」
ちょっと想像がつかないと言うのが仁の本音で、シャーリーもそれはきっと同じだ。
あのまま恋人関係を続けていたら。
結婚していたのだろうか。
その時は事故なんて起こらずに、平穏に……?
その時、仁は戦う理由を見出だせただろうかと疑問に思う。
だけどもしかしたら。
そのまま子供が生まれて。
自分の背後に守りたい存在でも出来たらその時にこそ仁は変わったのかもしれない。
「そんなもしもを叶えるのがハロルド兄さんの計画……もしも今勧誘されたら乗ってしまいそうです」
「アイツを心から否定できるのは、己の人生に何の悔いもないやつだけだろうよ」
今ライテラ計画を潰そうとしている理由だって、その過去改変がハロルド主導によるものだからだ。
もしも自分が主導できるのならば喜び勇んで計画に参加する人間は間違いなく居る。
いや、もしかしたらこの戦いはそんな争奪戦の前哨戦なのかもしれない。
「でも人間って慣れますから。とても大きな後悔を一つだけ変えるって思っていてもきっと際限がなくなります」
段々と、些細な事でも過去をやり直すようになるだろう。酷い時にはただの好奇心でやり直すかもしれない。犯罪行為を無かったことにするかもしれない。
将来的に普及した場合は想像するも恐ろしい。
各々が持つ欲望を実現しようと、好き勝手に世界を変えていく。
そんな状態で、まともな社会が維持できるとは思えなかった。
故に、技術は秘匿される。
限られた人間が世界を導くようになる。
「令さんの事を抜きにしても、私はハロルド兄さんの計画には反対です。それだけは覚えておいてください」
「俺、は。いや、俺も頭ではそう思っている。だけどーー」
仁だってその未来図は描ける。
やはり、人が手にするべき技術ではないと思えるのだ。
ある意味で、最も効率よく知性体の文明を終焉に導く装置と言えるだろう。
自ら袋小路へと進んで、滅ぶべくして滅ぶのだ。
ただ最初の一歩を後押しするだけ。
その最初の一歩は誰もが持っている願いというのが本当に質が悪い。
一回だけという免罪符はまるで麻薬の様に人を縛るというのが容易に想像できて、今仁自身が縛られているものだ。
「……行ってくるよ」
答えは未だ出ないまま。
迷いを抱いたまま仁は戦場に身を踊らせる。
その先に待つのは破滅しか無いと理解しながら。




