なぜ異世界物、あるいは転生物が流行るのか
思い浮かぶに任せて書いてしまったため、中には不愉快な表現もあるかと思いますが、そこはどうかご了承ください。
かるーくゆるーく考えてみる。
まずは時代背景とか設定しやすい、と書いている人間に思われていることが強いだろう。オリジナルな世界観を作り上げてしまえば、そこに実在の歴史から生じる齟齬なども生まれにくいからだ。
中世の世界観がよく用いられてる作品が多いと思うが、実際の亜細亜の中世と欧米の中世はかなり様式が違う。
世界観を作り出す中で色々な国の要素がごちゃ混ぜになっている作品も多く、書いている人間の知識のあやふやさを補強してくれる面もあるのだろう。いわば中世、というものが一種の舞台装置として働いているともいえる。
更に考えうるのは、現実逃避と憧れが根底にあるのかもしれない。ということ。
今という現実から少しでも遠い場所に逃げたい、こんな自分ではない自分になりたい、こんな俺は違う、本気を出せばもっと頑張れるはずだ。
それが逃避。
死ぬことによって新しい人間に生まれ変わる、などとはまさにそれそのもので、今ある己の否定と書き綴られた偶像である自分自身の崇拝の他ならない。
そして逃げ続けるものは今ある現実から思考に逃げ、立ち向かうべき困難に手をつけようとはしない。
そして、その逃げ道として本を読む。あるいは何かしらの娯楽に手を伸ばす。何もすることがなく、手持ちぶたさとなってしまう状況に陥らないように。
小説を書くような人間は想像力に富んでいるものが多い。そのせいで空いた時間で無駄に様々なことを考え、後悔に苛まれたり、虚無感に打ちのめされることを防止するためだ。
無職で働く気も無い者は、開き直ってそんなことは無い、俺は後悔などするわけが無い。そういう身の毛もよだつ開き直りをするかもしれない。
そんな寝言をほざく輩ははまず今表示されているウィンドウを閉じ、直ちにパソコンを自治体の指示に従って処分しろ。話はそれからだ。
求める娯楽として読むものは漫画でもラノベでも良い。総合小説の類でも良い。あるいは映画やドラマなどの映像媒体でもいい。
そして思う。
「自分も、こうなりたい」
これが憧れ。
本の中のただの文章で書き写され、インクで表現されているに過ぎない人物に対して、しっかりと三次元の構造を持っている人間がそう思うのだ。
実際問題、これを書いている身でも、そう思ったことは少なくない。
だからこそ、自己弁護も一緒にさせていただこう。
憧れも逃避も、決して悪い物ではない。
このことを言わせていただきたい。
逃避でも、同一視であれ、それを制作意欲に転化している時点で、寧ろそれは昇華といえるだろう。
昇華というのは、社会的に不可能な欲求を別の目標に移し変える防衛機制のことだ。
しかし、その昇華をしているということは、その欲求を不可能と思っているのだ。
俗に中二病と呼ばれる、痛々しい行動を公衆の面前に晒す者たちは、それを不可能と思いたくないのだろう。今いる自分たちもあの憧れの者達になれると。
しかし深層意識の奥では、恐らくはそれを分かっているのだろう。
それが逃避であると。
だからこそ昇華に達したとき、ともすればメアリー・スーと言いたくもなる物語を平然と書き上げる。あるいは自己を殺して新しい己を作り上げる。
現実ではないからこそ思い通りの現実をそこに作り上げるため、架空の人物達は一心不乱に暴れ周り、ハーレムを形成したりする。
成長していきやがて強力な力を手に入れる、などというストーリーならばまだしも、最初から最強に値する力をもち、近くの女キャラたちはほぼ無条件といっていいレベルで主人公を好きになる。
そして圧倒的な力で悪を見下し、あらゆるキャラに尊敬の念を抱かれる。
このような正直設定だけでお腹いっぱいな物はまさしくそれだ。
俺ツエーなキャラクターに自分を投影し、優越感に浸るのだ。
己は他者より強いと。他者は己の脇役でしかないと。
なぜならば、架空でしかその事柄は不可能だからだ。
悲しいかな、現実では不可能だからだ。
今の自分では女性に好かれることや、人に尊敬されるようなことを行なう事は不可能だから、架空で作り上げたくなるのだ。
だからこそ、こういう持論を持っている筆者としては、日常物、と言われる物を見るたびに、なんともいえない、哀しさや憂いを憶える。
それを架空の世界で作り上げてしまうということは、今、あるいは過去に実現できていないことだからだ。
日常物が筆者にとっての非日常なのだ。
故に、まだ異世界に没頭している物は平和なのだ。あくまで二次元に対する憧れなのだから。
哀しいのは自分が存在している三次元に憧れを向けるもの。女子達がきゃっきゃうふふと笑っているだけの物語を書く者。
……本当に、何もいえなくなる。
だからこそ、昇華に達したものが素晴らしいものを書き上げることで、逃避によってそれに目を落とした人物がさらに昇華に至る。
このようなループが出来上がっているのではないか、そう思う。
簡単に言ってしまえば、皆誰もが非日常を味わいたいのだ。
否定する者もいるかもしれない。
ならば、一番身近でこれを象徴するものをあげようか。
遊園地だ。
道交法で規制されている中では考えられない速度で走りぬけ、快感と恐怖をもたらす絶叫系のマシーン。
現実ではありえないとは思いつつも、それでも憧れからいるかもしれないと思い、それを体感してみたいとついつい足を運ぶお化け屋敷。
日常とは違う視点を与えられる観覧車。
そして閑散とした日常の雰囲気とはまるで違う、和気藹々とした弾むようなあの空気。
なぜこのような日常とかけ離れたものが繁盛するのか。
簡単なことだろう?
そう、前述の通り、人は非日常を疑似体験したいのだ。
破滅願望、とでもいうべきだろうか。
とはいえあくまでそれは擬似、を求めるものである。事故が起きれば請求が起こるという時点で、それは明らかだろう。
極論、読んだり、執筆するものそうだ。
その物語の中で読むものは非日常を主人公に感情移入することにより体験し、書くものは自分が作り出す物語の中でその刺激を味わっている。
話の中でやれやれ、といってる主人公も、それを動かしているものにしては歓喜で震えがとまらない出来事なのである。ツンデレである。
結局のところ、全ての物語は日常から発生している、ということだ。
非日常という物は、日常の定義が自分の中ではっきりしていなければ表れるわけもない
良い小説を書きたいのならば、人と交流を持ち、よく学ぶことだ。
努力すればしただけ、まだ到達しえないことが出来たときの不満は巨大となる。
逃避したくなる。
その欲求が大きい分、昇華に至るエネルギーも増す、というものだ。
小説だけにしても、それだけでは成り立たないのだ。
全ては足元。
決しておろそかにしてはいけない。
現実という自分だけのノンフィクションが、今にも紡がれているのだから。
精々、同一化をされるような現実を描きたいものだ。
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