・悪い予感がしたので、
「読み書きは心配ないそうだな」
夕食のテーブルを囲みながら、その晩戻ってきた殿下は満足そうな笑みをわたしに向けてくれた。
改めて勉強をしなくていいのは嬉しいけど、殿下に教えてもらえるチャンスはフイにしてしまった。
それがなんだか残念。
「あとは乗馬か…… 」
殿下は一息吐く。
「そうだな……
一人で乗れるようになったら一緒に遠乗りにでも行くか」
暫く口をつぐんで考えた後殿下は言う。
「本当? 」
昨日の今日ですでに逃げられている。
殿下の言っていることは正直あんまりあてにしないほうがいいんじゃないかって思いが頭を掠める。
「信用なくしたか」
殿下は困ったように息を吐く。
「これから先の時間は充分ある。
いつかはいけると思うが? 」
「それって、約束じゃないじゃない」
わたしは少しむくれて殿下の顔を見上げた。
「まあ、そう言うな」
わたしがむくれている傍らで食事を終えた男達が席を立つ。
部屋を出てゆくのと入れ替えに見たことのない顔の男が入ってきた。
「殿下、王都からの火急のお呼び出しです」
耳元で囁いて手にしていた書状を差し出した。
受け取った書状を開いて殿下の表情が変わる。
「わかった、すぐ行く」
男に囁いてお茶を飲み干すと立ち上がる。
次いでキューヴが慌てて立ち上がると、慌てた様子で一足先に部屋を出てゆく。
「あの…… 今から? 」
その表情に何か嫌なものを感じて、側を通る殿下の顔を見上げてわたしは声を掛ける。
「いつものことだ。
ただの王都からの呼び出しだ」
険しかった表情を優しい笑みに変え、殿下はわたしの頭をくしゃりと撫ぜる。
「いってらっしゃい…… 」
釣られてわたしはあたりまえの言葉を口にした。
「ああ、直ぐに戻る」
言うと大またでホールを横切り出て行った。
「ん、いい出来…… 」
オーブンからクッキーを引っ張り出し、わたしは呟く。
初めて見た薪オーブンの使い方にも結構慣れた。
「いい匂いだね」
料理人のおばさんがわたしの手元を覗き込んでくる。
「どうぞ、焼き立てでまだやわらかいけど」
わたしは取り出したばかりのクッキーを差し出した。
「あら、これもおいしい…… 」
おばさんが誉めてくれる。
「レシピ、また教えるね」
わたしはそれに気をよくして笑みを浮かべた。
「本当に珊瑚ちゃんは料理上手だね」
「料理っていうか、簡単なお菓子くらいしか出来ないんだけどね」
フルーツケーキにマフィン、クッキー。
子供の頃ママにくっついてお手伝いした時に覚えた。
最近じゃほとんどお手伝いすることなんてなかったからすっかり忘れているかと思えば、覚えているものである。
ただし、温度調節やタイマーのないオーブンの扱いにはかなり苦戦したけど。覚えてしまえば造作ない。
「珊瑚様はまたこちらですか? 」
クッキーが冷めるのを待っているとキューヴが顔を出す。
「キューヴ、帰ってきたの? 殿下は? 」
無意識にわたしの顔が綻ぶ。
「ご一緒ですよ。
本当に…… どれだけキッチンがお好きなんですか? 」
半ば呆れたように息を吐きながらキューブは言う。
「だって、一人でいるの退屈なんだもん…… 」
少なくともここで手を動かしている間は気がまぎれるし、いつも忙しい料理人のおばさんとかアゲートともここでなら話が出来る。
「来てください。お呼びです」
キッチンのドアを開け放したままキューヴが言った。
「じゃ、おばさん。悪いんだけど、それ冷めたら缶に入れておいてくれる? 」
わたしはキューヴの側に駆け寄った。
……ホールに向かいながらわたしは周囲を見渡す。
何故だろう? 空気がいつもと違う気がする。
まず中庭に引き込まれた馬の数がいつもより多い。
つけられた馬具もいつものものとは違って無骨な気がする。
馬同様人の数も、いつもの殿下の帰城時より多い気がする。
それもなんだか気が立っているというのか、ぴりぴりした空気が肌を包む。
何かいつもと違ったことが起こっていることだけは何を言われなくても理解できた。
「またキッチンに居たそうだな」
ホールに入ると同時にキューヴが耳元で囁いたのを受けて殿下は思いっきり嫌そうな顔をした。
やはり気が立っているのか言葉の端がきつい。
「その、何度も言いたくはないんだが、魔力の方は…… 」
眉間に皺を寄せながら訊いてくる。
「う…… 」
正直できてたらキッチンに入り浸ってなんかいないと思う。
答えに詰まったわたしが唸っている間に、部屋の中には人員が増えていた。
二十代前半から四十代位の年齢の男ばかり六人。
皆、殿下ほどではないけれどそれなりに良い身なりをしている。
どこか厳しい顔つきから多分みんな軍人だって予想はつく。
「そちらが殿下の魔女殿ですかな? 」
六人の中で一番年かさの男がわたしの顔をみるなり口にした。
この人だってもうちょい若ければわたし好みのいい男って、言いたいところなんだけど……
わたしを見据えるその目があまりに厳しくて、そんな暢気なこと言っていられない思いがする。
そう、まるでわたしを値踏みするかのような鋭い視線。
「ああ、まだ召還したばかりでここには慣れておらぬが、今後のこともある。同席させるぞ」
「では、今度の進軍には? 」
「連れてはゆかぬし、ここからの援護もさせぬ」
……は?
わたしは今みょーな言葉を聞いたような気がするんですけど?
問い質したいところだったけど、言えるような雰囲気じゃなかった。
「では、魔女殿抜きでの陣形を考えなければなりませんね」
殿下を入れて七人で目の前のテーブルに地図らしき物を広げると頭を突き合わせてあーでもない、こーでもないといろいろ言い合っている。
正直わたしにはさぁっぱりわからない専門用語で……
「はふぅ…… 」
いつもの席に座ったまま、思わずでそうになったあくびを押し殺したわたしの前に、白磁のティーカップが差し出された。
「どうぞ、一休みなさってください」
言ってキューヴが笑いかけてくれた。
なんてベストなタイミング!
わたしは頷いてそのカップを受け取る。
「眠気の覚める少し辛いハーブティを淹れてきましたから」
こっそりと耳元でささやかれた。
……みられていたんだ。
ちょっとバツが悪いけど、助かったことには変わりない。
「ありがと」
周りのいかついおじさんたちに聞こえないようにできるだけちいさな声でわたしはキューヴに囁いた。
話は食事をはさんでも続けられ、結局開放されたのは夕方近くになってからだった。
「疲れただろう? 」
いかついおじさんたちが消えたところで殿下はわたしに顔を向け微笑みながら訊いてくれた。
うん、やっぱりこの顔。
みているだけで幸せになる。
それがわたしにだけ向けられていると思うと、さっきまでの張り詰めた空気の中で縮こまっていた苦労も全部消し飛んでしまう思いだ。
って、にやけて幸せに浸っている暇はなかった。
今日の話の端々に出てきた妙な会話……
わたしはそれに対して絶対訊いておかなくちゃならないことがある。
「あのね、少し訊いておきたいことがあるんだけど…… 」
わたしはともすれば緩んでしまいそうな顔を引き締めた。
「なんだ? 」
やっぱりおじさんたちの前では少しは気が張っていたのだろうか、さっきとは違ってくつろいだ感じの態度で殿下は答える。
「国王につく魔女の仕事って、何? 」
「知らなかったのか? 」
わたしは頷く。
だってここにきてからそんなこと誰も教えてくれなかったし、誰かに訊く機会もなかった。
魔女なんて城の一角の塔にでも篭って難しい薬でもこねくり回していればいいような気がしていた。
「国の運営にかかわること全部だ」
……なんともアバウトな返事。
「もちろん、使える魔術によって後方支援に廻ってもらったり直接前に出てもらうこともある。
たとえば、そうだな……
今回みたいな国境での隣国との小競り合いの場合、戦闘系の魔術が得意なら前線に出てもらうし、治癒魔法や魔法薬に長けていれば後方で怪我人の手当てにあたってもらう。あと、守護系の魔法しか持たねば有効範囲からの祈祷と言うことになる」
……まった。
専門用語過ぎて何がなんだか……
目が廻りそうだ。
「戦闘系」とか「守護系」って何?
意味はなんとなくわかるんだけど。
それってRPGの世界の話じゃないの?
って感じ。
実際現物のわたしがここにいて、現実に使ってみろみたいなこと言われても無理だよねぇ……
道端から草を毟ってきて薬を作れって言われるほうがまだ現実的だ。
……もちろんそんな知識わたしにはないけどね。
わたしのできるのはいいとこ道端の草でイーストを起こすことくらいだ。
「まぁ、お前はまだ魔力のかけらにさえも目覚めていないようだからな。
この先どんな魔法が使えるようになるか未知数だが、とりあえず今後このような場合には必ずわたしの背後にいてもらうことになる」
言って殿下は息をつく。
持った魔力によっては国王と共に戦の最前線にも立つ、要は国王の片腕とでも思えばいいんだろうか?
「ん? どうした? 」
殿下がまたわたしの顔を覗き込む。
「え、だってあんまり重すぎて、そのわたし向きじゃないって言うか、わたしの手には余るっていうか。
やっぱり誰か他の人を召還しなおしたほうがいいんじゃないかとか…… 」
……もう頭のなかぐちゃぐちゃで何がなんだかわかんない。
「一度には難しすぎたな。
それに、今すぐの話ではない。
お前の魔力が覚醒して、お前がそれを完璧に使いこなせるようになってからの話だ」
殿下はまるでわたしを安心させようとでもするかのようにやさしい笑顔を向けてくれた。
わたしにだけ向けられるこの笑顔がこの上なく嬉しくて、思わずこっちの顔も綻んだ。
翌日。
砦の中は昨日にも増して人でごった返していた。
足早に螺旋階段を上り下りする人、誰かを探す声。
塀に囲まれた狭い中庭にも軽い鎧をまとった兵士が武器を手に何人もたむろす。
何が起きたかは昨日、会議に付き合わされていたから大体わかる。
先遣隊がどうとか陣形がどうとか武器がなんとか、そういった専門的なことこそ理解不明だったけど。
要はわたしが溺れたあのイチゴソーダの湖のある場所が実は聖域で、しかも国境近辺なのが災いして、隣国がその土地を狙って攻めてきているらしい。
何でもこの国を治める国王の片腕たる魔女が召還された時に降り立つのがあの場所だから、あの場所を抑えてしまえばこの国ごと乗っ取れるとか言う、きわめて大切な場所らしい。
「本当に、わたし行かなくていいの? 」
鎖帷子の上から鎧を着込むコーラル殿下の顔を見上げてわたしは訊く。
「お前はまだ、ああいう場所には慣れていないからな」
「でも。昨日の話の様子じゃ、世継ぎの殿下にまだ魔女がいないから、魔女を手に入れるのを阻止するために攻めてきたとかって。
だったら、わたしが行きさえすれば…… 」
「莫迦か、お前? 」
殿下が眉間に皺を寄せた。
「お前が、まだ何の魔力もない新米の魔女などと名乗って表に出てみろ。
格好の的だ。
却って足手まといだ」
「……うん」
わたしは顔をうつむかせると小さく頷く。
確かにそうかもしれない。
相手が恐れているのは国王の片腕たるベテランの魔女で、ひよっこ以下のわたしじゃ本当にお荷物以外の何者でもない。
そんなこともわからないなんて、ほんとにわたしって莫迦。
だけど、この戦の原因の一端はわたしが担っている。
わたしがここに来たときからきちんと魔力を持って魔術を使えていれば、今回のいざこざは起こらなかったはずだ。
そう思うと、暢気に城の中で守られているのはなんだかバツが悪い。
「それにだ…… 」
殿下はすっと目を細めた。
「お前はこういった戦など体験せずに育ったのではないか? 」
「わかるの? 」
じっと見据えられたその目を見返してわたしは言う。
「お前の言動を見ていれば大体の見当はつく。
そんな戦慣れしていない者を現場に連れ出せるとでも思ったのか? 」
そして、その手がわたしの頭部に伸びる。
「大丈夫だ。
向こうも本気で掛かってきているわけではない。単なる脅しだ」
ぽんっとわたしの頭に大きな手が乗せられる。
同時に妙な光景がわたしの脳裏に浮かびあがった。
……半ば折れた矢を左肩に受け、胸部を真っ赤に染めながら横たわる蒼白の顔の殿下。
「え? 」
嫌な予感に急に胸が締め付けられる。
「や…… 」
わたしは頭に乗せられた殿下の手をとると自分の胸に抱き寄せた。
「どうした? 」
急に不安に苛まれたわたしはそんな顔を隠せなかったんだろう。
まるでわたしを安心させようとするかのような、殿下のやさしいまなざしと、やさしい声。
「心配するな、すぐ戻る」
腕に絡むわたしの手を引き剥がすと殿下はキューヴをはじめとするその場にいた数人の男を従えて部屋を出て行った。
「心配ですか? 」
一人ホールに残されてそのまま立ち尽くしていると、背後からアゲートの声が掛かった。
「うん…… 正直こういうの慣れてなくて…… 」
わたしは顔を上げる。
命のが掛かった現場へ見知った人を送り出すなんて経験初めてだ。
こんなに苦しくて切ないものだなんて思わなかった。
見知った人……
ううん。少し違うかも知れない。
本当は気のせいだって思いたいんだけど……
何だろう?
殿下のことを考えると、胸の辺りがぎゅっと誰かに握られたような感覚になる。
そのせいだろうか、殿下と一緒に出かけていった小父さん達やキューヴの事じゃなく殿下のことばかりが頭に浮かぶ。
いやいやいやいや……
そんなはずない。
きっと出掛けにヘンな光景が頭に思い浮かんでしまったせいだ。
わたしは頭に浮かびかけたその妙な思いを振り払うように、乱暴に頭を振った。
「大丈夫ですよ。
国境での軽い小競り合いなんていつものことで、口喧嘩みたいなものですから、すぐに無傷でお帰りになられますよ」
わたしを励ますようにアゲートは言ってくれた。
それでもさっきの光景が頭から離れない。
ただの幻覚とかじゃなくてずいぶん生々しかった。
触れた蒼白の顔の体温まで感じ取れる程……
わたしはその光景をまた思い返して身震いする。
肌がいっせいに粟立つほどの恐怖に苛まれながら。
「先王陛下がお食事をご一緒にと仰っていました」
そんなわたしの気を引き立てようとするかのようにアゲートは告げた。