・妙な数字を見つけたので、
手元に広げていた書類から顔を上げると、わたしはすぐ側にある殿下の顔を見上げる。
「あのね。ここ…… 」
わたしは書き付けてある数字の一部を指差した。
それに気付いて殿下がわたしの手元の書類を肩越しに覗き込む。
その整った横顔が触れそうなほど近くに来て思わず鼓動が高鳴った。
「どうした? 」
「数字の流れが変なの。
単なる計算ミスじゃないみたいなんだけど」
昨日夜遅く戻った殿下は、持ち込んだ一抱えはあろうかと言う書類の束に一枚づつ目を通していた。
少しはわかるかななんて思って覗き込んで見つけてしまった不自然な数字。
一見計算ミスなんだけど、そのミスを直しても計算が一致しない。
別の部分のミスを直すと、あからさまに妙な数字が出てくる仕掛け。
「ここまで来ると単なる計算ミスじゃないような気がするんだけど…… 」
わたしは首を傾げた。
ミスと、言うか何かしらの隠蔽、もしくは横領? とにかく不正。
それにしてはわたしにわかるってことはあまりに稚拙で、やっぱり何かのミスなのかなとか思ってしまう。
「確かに…… 」
殿下の手がすっと伸びてわたしの持つ書類を取り上げる。
「キューヴ、至急確認を」
振り返ると部屋の隅で他の書類に目を通していたキューヴに声を掛け、書類を手渡した。
「これは、サウスノートンの荘園のものですね」
受け取った書類を目にキューヴが言う。
「わかりました、至急手配します」
キューヴが何かを書き付けはじめた。
「さすがは、私の魔女だな」
耳元で殿下が囁く。
その声だけでわたしは頬を紅潮させた。
「疲れてない? お茶にしない」
何でもないことで紅く染まってしまった顔を殿下に見られるのが恥ずかしくて、わたしは慌てて立ち上がると返事を待たずにドアに向かった。
火照ってしまった頬の熱を冷ますように足早に螺旋階段を降りると二階のホールを突っ切る。
暗いアーチの通路を抜けると、薄闇に慣れたわたしの視界が白く染まる。
ほんっとに、何て採光効率の悪い建物なんだろう。
こうして出入りするたびにいつも思う。
さすがに明かりといえば蝋燭の炎くらいしかなくて、夜はともかく昼間は何本焚いても照明にすらならない薄闇の部屋の中で、殿下は難なく毎日書類を見つめている。
視力、大丈夫なんだろうか?
なんて、心配にもなる。
目をしばたかせてようやく周囲の光に目が慣れたところでわたしは外階段を降りていった。
中庭の井戸の脇を抜け、キッチンへ急ぐ。
「あ、珊瑚ちゃん! 」
キッチンのドアを開けると料理人のおばさんが慌てたような大きな声をあげた。
視界の端で若いキッチンメイドが何かをテーブルの下に押し込む。
「今日はなんだい? 」
何故かおばさんは少し慌てたように言う。
「ん、殿下がお茶を欲しいって…… 」
首を傾げながらわたしは用件を告げた。
「それから昨日焼いた何とかシードのマフィンまだ残ってる? 」
殿下が戻るって聞いて、甘いものが少し苦手だって言う殿下のために、昨日キャラウェイシードによく似たハーブを使ったマフィンを焼いておいた。
「ああ、あるよ。
甘くなくて食べいいって、男共が全部平らげそうな勢いだったから、少し取り分けて避難させておいたんだ」
言いながらおばさんは炉に掛かっていた鍋を下ろしてお湯を掛ける。
次いでキッチンの片隅まで行くと、卵を入れた籠の隣に置かれたナフキンの掛かった籠からマフィンを取り出し皿に入れる。
「すぐに届けさせるから…… 」
忙しそうに動きながらおばさんは言った。
「うん。でも、どうせ戻るからわたしが…… 」
「そういうのはキューヴや誰かの仕事だよ。
大体そのドレスでどうやってこのお盆を持ったまま階段を登ろうって言うんだい?
それでなくたって珊瑚ちゃん、何もないところでさえよく転びそうになるのに…… 」
「ぐっ…… 」
おばさんの言葉にわたしは改めて自分の足元を見る。
先日アゲート達にあつらえてもらった踝丈のスカートはそれでも捌き方によっては慣れないわたしの脚に絡みつく。
当然階段は両手で裾を上げて登らないといけなくて手が開かない。
殿下のいるホールは三階。
どう考えても手が四本ないとお茶の入ったポットを載せたお盆を運ぶのは無理らしい。
「ほら、早く行った。
殿下はここにいる間は珊瑚ちゃんが側にいないと機嫌が悪くなるんだからね」
言っておばさんは追い出すかのようにわたしの背中を押しキッチンから押し出した。
……どうなっているんだろう?
いつもなら、なんだかんだいっても、追い出されるようなことはなかったのに。
何か違和感を覚えて、閉まってしまったキッチンのドアを振り返りわたしは首を傾げながらも、仕方なくホールに戻る。
「……珊瑚様もですか? 」
螺旋階段を上がった先でキューヴの声が響いてきた。
「ああ、つれてゆきたいと思うのだが…… 」
「お気持ちはわかりますけどね、アゲートの話に先日、体調を崩されてまだ回復したばかりだと言うことですから。
今回は見合わせたほうがいいかと」
殿下の言葉にキューヴが言う。
「大体無理をさせすぎなんですよ。
一度に三人もの家庭教師を送り込むなんて、無茶ですよ……
それでなくても珊瑚様はまだここの生活に完全になれていませんのに」
キューヴの声は少し非難がこもっていた。
「それは私の責任では……
そこまで徹底しろとは言わなかったのだが」
キューヴに詰め寄られ対する殿下の声は明らかに困惑していた。
「……確かに珊瑚様の覚えのよさに、面白がって詰め込んだのは教授たちですけどね。
教授達が言ってました。
珊瑚様はこの国の水準では比較にならないほど高度な教育を受けてきた可能性があると。
読み書きどころか計算もかなりの難易度のものを簡単にやってのけたそうですよ、殿下。
ですから、それほどお急ぎにならなくても…… 」
……あれ?
足を止めその会話を聞くともなく耳に入れていると妙な感覚が頭を占める。
同じ会話を先日どこかできいた気がする。
確か、夢で……
もしかして、あれは夢じゃなくて、予知?
以前、殿下の怪我の前例もあるし、ありえないって言えないところが……
ただ、前は光景で、今度は言葉っていうのが、自分でも理解できないところ。
きっとキューヴなら「まだ能力が安定していない」とか言ってくれるところなんだろうけど。
「魔女様? 」
立ち尽くしたまま考えていると、螺旋階段をお茶の盆をもってあがってきた給仕の少年に声をかけられた。
「お茶をお持ちしました、けど…… 」
「うん、ありがとう。
あとはわたしが…… 」
礼を言ってホールの入り口で盆を受け取ると中へ入った。
「それは給仕の仕事だ」
わたしの姿を目に殿下は立ち上がりながら、あからさまにため息をつく。
「どうも、お前はよくわからないのだが。
ドレスの裾も捌けないと思えば、教育だけは最高水準を受けている。
どう育ったのか問えば『普通』と言うのが…… 」
そう言うと殿下は笑いながらわたしの腰を抱き寄せて額にキスを落とす。
「まあ、そこが面白いのだが」
次いで耳元で囁くように言う。
それがくすぐったくて、これじゃさっきホールを出た時に戻ってしまう。
「どこか、行くの? 」
殿下の唇が額に触れた瞬間、目蓋の裏に映った光景にわたしは呟く。
……まただ。
嫌な感覚はないけれど、見たこともない場所で、見たことのない人々と交渉している殿下の姿。
それにさっきの殿下の『連れてゆく』とか言う言葉。
「私の魔女に隠し事はできないようだな」
殿下が目を細めた。
「ちょっと、サウスノートンの荘園……
さっき珊瑚様が不正を見つけた書類を作成した荘園主の処ですが。
このままにはしておけませんので、行ってきますね。
大丈夫です、収穫祭までには帰れますから。
お約束しますよ」
殿下が何か言う前にキューヴが代わって説明してくれた。
「この、マフィン、もしかしてまた珊瑚様のお手製ですか? 」
わたしが動く前にキューヴが盆の上のものを広げ、カップにポットを傾けながら言う。
「うん。
男の人の中には甘いもの苦手な人もいるでしょ?
だからあまり甘くないの焼いてみたんだけど、どうかな? 」
「本当に、珊瑚様は…… 」
キューヴが手渡してくれたカップには薄桃色のお茶が揺れている。
立ち上る柑橘系に香辛料の混じったような独特の甘い匂い。
でも口に入れるとすっきりしていて……
わたしにしたら、こっちの方が不思議だった。
「そうだ。これをお前に預ける」
思い出したように言って、殿下はテーブルの端に置いてあった物を手に取るとわたしに差し出した。
「何? 」
受け取ったのは複数の鍵がリングについた束。
「パントリーとバッテリー、それと倉庫の鍵だ」
「鍵は見ればわかるんだけど? 」
何のことだか解らなくてわたしは首を傾げる。
殿下、留守が多いから使用人に不便がないように、預かっていろってことなのかな?
「物資の管理は女主人の仕事だからな。
任せたぞ」
「はい? 」
わたしの声が裏返る。
「ちょっと待って、殿下。
わたし、そんな…… 」
倉庫の鍵を預けるってことは中に入っている物全部わたしの自由にしていいってことじゃないのかな?
……そんなに、信用しちゃっていいの?
「何をそんなに驚いている? 」
殿下がおかしそうに笑みを向ける。
「だって…… そんな大事な物……
どうやっていいのかよくわからないし……
それに女主人って…… 」
次第にわたしの声が小さくなる。
「ここの主人はお前以外に誰がいる?
それにお前に任せておけば大丈夫だと私が踏んだ。
なんの不満がある? 」
殿下は首を傾げる。
先日アゲートもそんなことを言っていた。
ここの主人はわたしなんだって。
殿下はそれを代行してくれているに過ぎないって。
その殿下がわたしに倉庫の鍵を預けてくれるってことは、よっぽど信頼してくれたってことなんだろうな。
だったら、その期待に少しでも応えたい。
「わかりました。お預かりします」
わたしは手の中の鍵を見つめる。
「頼んだぞ」
殿下の大きな手がわたしの頭を軽く撫でてくれた。
翌朝、殿下を送り出したわたしはその足でキッチンへ向かう。
教授達も帰り、殿下もいなくなってしまい、久しぶりにわたしは暇を持て余していた。
この間の、料理人のおばさんの妙に慌てた態度も気になる。
何か気に障ることでもしてしまったのなら謝っておかないと……
「あ、珊瑚ちゃん。
いいところに来てくれたね」
キッチンのドアを開けると一緒におばさんが息をついて言う。
「悪いんだけど、手が空いていたらパン生地を捏ねてくれるかね。
粉はここにあるから」
傍らにあったエプロンをわたしに手渡し次いで、小麦粉の大きな袋を指差した。
「うん」
二つ返事でキッチンの中へ足を踏み入れる。
良かった……
この間の違和感はきっとわたしの勘違いだ。
内心でほっと息を吐きながらわたしは言われたままにパン生地を捏ねるのに没頭した。
「珊瑚さま起きてください」
「ん…… 」
アゲートの声にわたしはうっすらと目を開ける。
窓の外からはいつもと違うざわめきが響いてくる。
どこか遠くから陽気な音楽まで聞こえてきた。
「わ、なぁに。アゲート。
おしゃれして。
すっごく可愛いんですけど…… 」
ベッドから起き上がりながらわたしは声をあげる。
傍らに立つアゲートの今日のドレスは見慣れたいつもの雀茶色ではなかった。
スカートはくるぶしまでの丈でビロードのような光沢を放つ黒。裾には赤や黄色、緑といった華やかな色で刺繍が施してある。上着の真っ白なブラウスにも同じ刺繍が施され、かけられた純白のエプロンには上品なレースが縫い付けられていた。
まるでどこかの国の民族衣装みたいでとにかく凄く可愛い。
「ありがとうございます」
わたしの言葉にアゲートは嬉しそうに顔をほころばせた。
「これ、母から子へと何代も受け渡していくこの地方の民族衣装なんですよ。
祭りの衣装なんです」
「お祭り用の衣装って…… 」
そういえば、この間から誰の口からも『収穫祭』と言う言葉が出ていた。
「もしかして収穫祭って今日? 」
ベッドを降りながらわたしは訊く。
「そうですよ。
村の麦の収穫が全部終わった後の最初の一つ満月の日が、毎年祭りの日なんです。
こちらをお召しになってくださいね」
満面の笑顔でアゲートがいつもとは違った衣類を差し出した。
「これ、わたし、の? 」
受け取ったブラウスを手にわたしはアゲートを見上げる。
真っ白なブラウスの前立てには白と銀の混ざった糸で丁寧に野の花が刺繍してある。
「はい。
キッチンのおばさんや皆と話したんです。
珊瑚さまももうこの村の一員ですから、お祭りの衣装を着ていただこうって」
次いで差し出されたスカートもアゲートとお揃いでビロード色の光沢を放つ黒にブラウスと同じ花が、こちらは色とりどりのはっきりした色で刺繍されている。
「このスカートもともとは真っ黒で、花の刺繍は代々受け継がれてゆく間に着た本人が毎年一輪ずつ刺繍して、少しずつ増やしていくものなんですが……
珊瑚さまのこちらは皆で一輪ずつ刺繍しました」
アゲートが言う。
「じゃ、もしかしてこの間からキッチンとかで皆が何かしていたのって? 」
「まぁ…… そんなところです」
「なんか、いいのかな、わたしが着させてもらって…… 」
口ではそう言ってみるけどもう、頭の中はわくわくで占められている。
「ちょっとじっとしていて下さいね」
アゲートはわたしを鏡の前に座らせると手際よく髪を三つ編みに編んでゆくとそれを器用に丸め頭にピンで留めつけてゆく。
「はい、終了です」
最後にレースのエプロンの紐を腰の後ろで結びアゲートはわたしの背中を軽く叩いた。
「ね、おかしくない? 」
鏡に向かい、くるぶし丈のスカートを軽く揺らし横の姿や後ろ姿を確認しながらわたしはアゲートに訊いた。
「よくお似合いです。
まるで生まれた時からここで育った娘さんみたい」
アゲートは満足そうに微笑んでくれた。
「ほんっとに、ありがと! 」
わたしは笑顔を返すとアゲートに抱きついた。
もう、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
言葉だけじゃ何て言っていいかわからなくて、混乱してしまった。
「そこまで喜んでいただけると、わたしたちも用意したかいがあります。
今日は無礼講なんですよ。
楽しみましょうね」
そういうアゲートも嬉しくて仕方がないという表情をしている。
そういえば、祭りまでに帰るって言っていた殿下とキューヴの姿がまだないけど……
わたしはふと思う。
「どうされました? 」
アゲートが訊いてくる。
「ううん、なんでもない」
わたしは慌てて首を横に振った。
……口にしないほうがいいよね。
せっかくのお祭りなのに、水を差しちゃ申し訳ない。
それに、あの時キスしてもらった時に浮かんだ光景は何の問題もなかった。
心配しなくても大丈夫。
わたしは自分に言い聞かせる。
部屋を出ようとしたとき、ドアの脇に控えたアゲートのスカートの刺繍に目が止まる。
「アゲート、それは? 」
たくさんの花模様の中に一つだけ、ユニコーンの姿がある。
「これですか?
おばあちゃんが『聖なる乙女』を務めた年の刺繍なんですよ」
「聖なる乙女? 」
「祭りが終わってから次の祭りまでにユニコーンに出会えた娘が勤めるんですよ」
「ユニコーンって、想像上の生き物じゃないの? 」
「いいえ、確かに珍しい生き物ですけど、ここは聖域が近いからかたまには姿をみられるんです。
何故か若い女の子に限られるんですけど。
そうですね……
毎年二、三人はいますよ」
ゆっくりと螺旋階段を降りながらアゲートは説明してくれた。
中庭に出ると、みたことのない顔の人々が忙しそうに立ち働いていた。
だけど、どの顔も嬉しそうに綻んでいる。
城壁の中門の向こうからは更に大きなどよめきが上がっている。
「行きましょう、珊瑚様」
アゲートがわたしの手を引いた。




