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My Tale  作者: 氷滝 流冬
7/12

6 近くて遠い場所

 甲板で、動くスピードに合わせて吹き抜ける爽やかな風を感じながら、希咲は手摺から身を乗り出すように朝焼けに染まっていく景色を遠く眺めている。 

 乗っている船は豪華客船とまではいかないけれど割と立派なもので、日本だと一般人の希咲が乗る事は決してないだろうと思えるほどだった。

「結局、リュウセイに助けてもらっちゃったなぁ」

 手摺に体重を預け、右手首で太陽の光を反射してキラキラと輝いている星屑のような石を見る。

 そう、それは数十分前の事。天橋立を目指す為に船に乗ろうと思っていた希咲だったのだが、お金を持っていない事に気が付いたのは受付らしい場所に辿り着いてからだった。途端に若干の不安を覚えた希咲に、受付の女性はこう言ったのだ。

「テイマーの方はご自由にお乗りください」

 ニコリと営業スマイルを浮かべるその女性が一瞬何を言っているのか理解できなかったけれど、受付の女性が示したのは希咲が身に着けていたブレスレットで、そこで初めて、ブレスレットに使われている石がテイマーコアだという事を知った。よく見てみれば紋も刻まれていて、ウルの紋が刻まれていたのでウルズサークルで保管していた皇心で造られたものという事も判明した。

 てっきり、リュウセイが露店か何かで見つけて買ったものだとばかり思っていたのだが、テイマーコアとなるとそうはいかない。何故なら、テイマーコアがアクセサリーとして売りに出される事はないからだ。つまり、このブレスレットは誰かが実際に使っていたものだという事になる。

 けれど、リュウセイが他人の皇心を希咲に渡す理由がどこにあるというのだろうか。

「……ま、助かったし嬉しかったからいっか」

 考えていても判らないのだし、今はのんびりと優雅な船旅を静かに味わおうと思っていた。雄大な景色を眺めながら、まったりと。

「なっ! キサキ!? 何故、貴女がここにいるのですか!!」

 そんな騒々しい声を聞くまでは。

 左側からの大声にそちらを見れば、そこには開いた口が塞がらないといった表情のハルトと苦笑気味のスオウが立っている。

 しかし希咲は平然と。

「やっ」

 手を挙げて軽く挨拶を返しただけだった。希咲の返しにハルトの手がわなわなと震え始める。怒りと呆れの入り混じった何とも言えない表情に変わり、どちらかと言えば怒りの方が強いかもしれないその顔は、せっかくの美形が台無しになるほど酷いものだった。

「『やっ』ではありません! どうしてそう平然としていられるのですか! 貴女、今の状況が判っているのですか?!」

「ハルト、声大きい。近所迷惑」

「近所には何もありません!!」

「じゃあ、あたしが迷惑」

「っ貴女! 誰のせいだと思って……!」

 物凄い剣幕で希咲に詰め寄ろうと一歩踏み出したハルトだったが、隣にいたスオウに顔を押さえつけられた事で言葉が途切れ、動きも止められる。

「はいはい、流石に本気で迷惑になってきたから、ハルトは黙ってて」

 周りにいる乗客の冷たい視線を苦笑しながら受け、スオウはハルトから手を離してやった。

「それで? キサキは本当にどうしてここにいるの?」

 スオウに顔を抑えられた事でずれてしまった眼鏡を直しているハルトを眺めつつ、希咲はキョトンとして数回瞬きをする。

 それから首を捻り。

「えーっと、理由、理由……あ! 逢いたい人を捜す、為?」

「……そこ、疑問形で言われても。それに、今考えたね、それ」

「うん。理由考えるの忘れてて」

 あっけらかんと答える希咲に、信じられないという様子で呆れ返るハルト。スオウですら溜め息が漏れている。

 しかし希咲は一切気にする事もなく平然と、手摺から地平線を遠望しながら話を続ける。

「ずっとラフェスタにいたって逢えるか判らないし、家に帰る方法だって探さなきゃでしょ。ラフェスタには戻ればいいだけなんだし。んで、都市を回ろうと思ったわけ」

「ついでに言うと、キサキ、昨日のテツとの会話、聞いてたね」

「あ、バレてたんだ。盗み聞きするつもりはなかったけど、なりゆきでね」

「それで、このタイミングでここにいる、と」

「そういうこと」

 スオウがリビングに希咲がいた事を知っていたのは驚きだったけれど、おかげで話が早くて助かった。何とか納得もしてくれたようだ。ずっと不機嫌そうな顔をしている男に、希咲はにへらと笑いながらひらひらと手を振る。

「まぁ、楽しい船旅にしようよ」

「……船ではありませんがねっ」

 何だか刺々しい物言いのハルト。迷惑と言われた事がそんなに気に障ったのか、希咲がここにいるのがそんなに気に入らないのか。それがなくとも、ハルトは常に希咲に対して言葉の端々に嫌味のようなものを若干含めているというのに、不機嫌でそれが増しているように思う。

 ハルトの《船ではない》という言葉に、希咲は小説を思い出す。

 今、希咲達が乗っている乗り物。見た目は日本でいう船と全く変わらないのだが、実際には船ではない。何故なら、この船が走っているのは水上ではなく陸地なのだから。現在は広大な草原を走行中である。

 陸羽艇リクウテイと言う、都市間を移動する際の主要の乗り物だ。

「ハルト。いい加減、機嫌直したら? ここまで来てしまったものは仕方ないさ」

「そうそう。もう戻れないし、だったら一緒の方が安全だよ」

「……それ、キサキが言うんだ」

 ここまでくると最早怒る気が失せてしまったのか、いつまでも怒っているのが馬鹿らしくなってしまったのか、何を言っても聞かないだろうという事を理解したのか、肺の中の空気を全て吐き出すかのような盛大な溜め息をついた。

「……判りました。判りましたよ。その代わり、絶対に勝手な行動は慎んで下さい! いいですね!」

「ほーい」

 本当に判っているのかと疑いたくなるような軽すぎる返事に頭を抱えるハルトを余所に、希咲は再び広大な大地を遠く遠く眺めるのだった。

 地面から少しだけ浮いた状態で走行する陸羽艇は初めての感覚がする。飛んでいるという感じはしなく、けれど揺れる事もないので地を走っているようでもない。そんな不思議な感覚を覚えつつ、スオウとハルトと共に丸一日になる陸旅をのんびりと楽しんでいた。

 陸羽艇の前方の甲板に佇んで代わり映えのしない景色を眺めながら、希咲は小説を思い出していた。

 ハルトがラフェスタに戻って来て、他の都市でもテイマーコアの暴走があったと報告して見回りをした後、ラフェスタは壊滅する筈だった。けれども昨日は、ただテイマーコアが一つ暴走しただけだった。そしてその理由を探るという為に、ハルトとスオウはラフェスタを出た。時系列が滅茶苦茶だ。

 ラフェスタでのテイマーコアの暴走→平常を取り戻す世界→ハルトの帰郷→ハルトが他の地域の調査に出かける→ハルトが再び帰郷→天空都市エスクードと技術都市フォルティスで起きたテイマーコアの暴走の報告→ラフェスタの見回り→ラフェスタ壊滅→騎士の判明→旅に出る。

 これが正しい時系列。しかし今は。

 ラフェスタでのテイマーコアの暴走→ハルトの帰郷→エスクードとフォルティスで起きたテイマーコアの暴走の報告→ラフェスタの見回り→ハルトが他の地域の調査に出かける、というもの。

 つまり、時間が早まったと思っていたのは勘違いで、巻数かページが入れ替わったかのような事態になっているという事だ。

 ラフェスタが壊滅しなかった事は心から良かったと思うけれど、これはこれで問題があるような気がした。けれども内容は本当に小説を沿っているから、本当のところは判らない。異常なのか、異常ではないのか。

 そして希咲はここから先の物語を知らない。もう一度ハルトがラフェスタに戻ってラフェスタを崩壊させるのか、ユウイ達が先に旅に出るのか。それすらも、今の希咲には判らなかった。

 けれど、きっとハルトと一緒にいれば、いずれリュウセイ達とは会え、結末を変えられる筈だ。

「キサキ」

 そんな事を考えていると不意に名前を呼ばれた直後、隣にすっと立った人物を見上げた。

 声から判っていたけれどそれはスオウで、目がかち合った。

「昨日の会話を聞いていたからまさかとは思っていたけど、わざわざ追いかけて来てくれるなんて嬉しいよ」

 笑みを浮かべられるけれど、希咲はすぐに視線を逸らした。

「そういうわけじゃないんだけど」

 別にスオウを追ってきた訳ではない。ハルトを追って来たのだ。それは口が裂けても言えないけれど。

 素っ気ない態度を取ったにもかかわらず、スオウの顔から笑みが消える事はなく、手摺に腕を乗せて身を屈めている。

「それでも、嬉しいよ。こうしてキサキの傍にいられることが」

「そ、そう……」

 どうしてだろう。スオウはハルトと三人でいる時には普通なのに、こうして二人きりになると何故かそんな事を口走る。

 言ってしまえば、希咲にとってスオウはクラスメイトの一人と同じような存在だというのに、そんな事を言われても困るというもの。しかし、スオウはそんな希咲の心情などおかまいなしといった様子で、正直二人きりにはあまりなりたくなかった。

「スオウはさ、好きな人とかいないの? 尊敬する人とか」

 何とか自分から話題を逸らしたくて口から出た言葉に、墓穴を掘ったような気がしたけれど他に良い言葉が見つからなかった為に訂正する事はない。

「いるよ。小さい頃からずっと」

 何だかドキリとする。小さい頃からずっと、やはり墓穴を掘っただろうか。

「誰……?」

「皇帝」

「え、皇帝?」

 思わず訊き返してしまった。まさかその名が出てくるなど思ってもいなかったのだから。表情も、まさかと思っているのがそのまま出ていて、そんな希咲を見るとスオウはすっと目を伏せた。

「テイマーの魂には、皇帝や女皇や騎士の話が刻み込まれている。誰に説明されなくても判るのさ。皇帝は統治する者、女皇は平和を保つ者、騎士は負を撒き散らす者。僕はずっと、自分が皇帝だったらと思ってる。皇帝として目覚める日を待っている。物心ついた頃からずっと」

「そう、なんだ……」

 曖昧な返事をする事しか、希咲には出来なかった。

 エンドレステイマーの、現在の皇帝はユウイだからそれは決して叶う事のない夢。けれどそれは本人達には判らない。

 知らないからこその残酷な現実。

 こういう事を目の当たりにすると、皆が未来を知っていた方が良かったのではないかと思ってしまう。知っていれば、早々に諦める事は出来た。他に幾らでも夢を見つけられたのではないかと。

 だが、スオウに言える筈がない。騎士として覚醒したハルトによって邪影者化させられてしまう事も、言える筈がない。兄弟のように育ってきた親友に手にかけられるなど、そんな残酷な事を知りたがる人間などいる筈がない。

 そうならないように、希咲がどうにかすればいいだけの話だ。

 言うのは簡単だけれど、とても難しい事。それでも、ここまで来たからにはやり遂げたい。


 夜が明けて陽が昇り、そろそろ西日になろうかという頃、甲板からそれは見えてきた。

「あれがエスクードかぁ」

 まだ相当な距離がある筈なのに、大きいと思える巨大な浮遊都市。地面ごと空に浮いた島という訳ではなく、全てが人工的に造られた建造物。昔建てられた神殿の周りの重力が歪み浮き上がったそこに、橋やら道やら建物やらを増築していった結果できあがった都市、それが天空都市エスクード。

「凄い、ラフェスタもおっきいと思ったけど、エスクードはもっとおっきいなぁ

「エスクードは縦に伸びている都市ですからね。横に伸びているよりも大きく見えるのは当然です」

 刺々しい物言いのハルトはいつの間にやら背後に来ていて、その隣にはスオウの姿もあった。

 どうやらそろそろ着くからと希咲を捜しに来たらしい。

 そんな彼らを見、それから視線をエスクードへと戻す。

 そのエスクードの周りに、光の縦の輪が下方から上方へエスクードをぐるりと囲むように等間隔に並んでいる。それは一本の道のように連なっていて、下方の輪はエスクードよりも手前にある岩山から伸びている。

 その輪の連なりを、天橋立と呼んでいる。エスクードの周りは重力が不安定で、《重力制御円》と呼ばれる輪で道を造り、その中を飛行艇と呼ばれる専用の乗り物で通る事でエスクードへ行く事が出来る。

 今、向かっているのは、その天橋立のターミナル。

 けれどそのターミナルに近付くにつれ、希咲の目が眇められていく。

「ね、エスクードってそんなに人気あるの?」

「え? 何故?」

「だってほら、何か人がいっぱいいるみたい」

 陸羽艇から身を乗り出すように前方を指さす希咲の後ろからスオウも目を凝らして見てみれば、確かに人だかりのようなものがターミナル入口に出来ているのが判った。

 数分もせずに陸羽艇の駅に着き、陸羽艇を降りると眼前にはすでに人が溢れていて、今まで何度も天橋立を利用している彼らもこんな光景は初めてだと目を丸くしている。

「すみません、通して下さい」

 黙って突っ立っていても状況は判らない。ざわめく人々の間を縫って先頭へ辿り着くと入り口は封鎖されていて、両脇には二人の厳つい顔の中年男性が立っていた。

 何とかスオウ達からはぐれないように人垣に呑み込まれないように希咲も辿り着くと、左側に立っている男性へ近付いているスオウ達に続いた。

「すみません。私達はラフェスタのテイマーなのですが、一体何の騒ぎですか」

「ああ、今メンテナンス中だ」

「メンテナンス? 何故」

「テイマーなら知ってるだろう? エスクードの周辺は重力が安定してない。だから重力を調整する為に重力制御円が置かれてるんだが、その重力制御円がどうも安定しないんだ。見ててご覧」

 言葉に促され重力制御円を見上げていると、不意にその中の一つが数メートル下がったのを目にした。まるで重力に引っ張られているかのような状態だ。

「重力を制御しきれていない証拠さ。それも、あの一つだけじゃない。こんな状態での航行なんてとてもじゃないができないからね、フォルティスの技工師が原因究明と修復をしてるんだ。復旧まで二,三日はかかるだろうな」

 事情が判り、説明してくれた中年男性に礼を言うと再び人の間を縫うように人だかりの後方へと脱出した。

「さて、これからどうしようか」

「どうするって、復旧までに時間がかかるなら先に他の都市に行くのが得策でしょう」

「そうだね。確か、さっき乗ってた陸羽艇が……」

 スオウの言葉を遮るように、アナウンスが流れ出した。

『間もなく、フォルティス行きが出艇致します。ご乗艇になる方はお急ぎください』

 次の便を待っているほど悠長にしていられる時ではない。タラップの脇にいる女性に皇心を見せて陸羽艇へ再び乗り込み、借りた一室へ真っ直ぐに向かった。甲板から中へ入り、二階へ上った奥に指定された部屋はある。一般的な部屋よりもドアの装飾が豪華なその部屋は、右手にベッドが二つ、左手に四人掛けのソファ、奥には大きな窓があり、ちょっとしたバルコニーになっているようだ。ホテルのスイートルームと言われても通用するかもしれない内装だ。


 希咲は真っ直ぐ奥のベッドへ向かうなり寝転がってしまい、呆れたような顔のハルトの肩に手をぽんと置いてからスオウは手前のベッドに腰掛け、一度息をついてからハルトはソファに腰を下ろした。

 ハルトの方を向いて座っているスオウは、膝の上に肘を乗せて手を組み、思案するように目を細める。

「……どう思う?」

「偶然とは考えにくいですね。邪影者の変貌に重力制御円の異変。しかし、関連があるようには思えない組み合わせなのですが」

「そう。一見関係がない。けど、繋がりがないわけでもないさ。繋がりは一つ、エルグランドだ」

 聞いた瞬間、驚いたように目を丸くしたハルトだったけれど、すぐに訝るように眉を顰める。納得がいかないという表情だ。

「……確かに、どちらもエルグランドに関係はしています。しかし、些か強引すぎではありませんか。重力はエルグランドの核からの力ですが、邪影者は皇心の力を源としています」

「じゃあ、その皇心はどうかな。皇心はマテリアの結晶といえるもので、マテリアには自然の力も付与される。自然はエルグランドが生み出すもの。とすれば、筋は通るんじゃないかい?」

「そうなれば今回の騒動、テイマーだけの問題ではなくなりますね」


 難しい顔を突き合わせて深刻な話が進められている中、希咲はうつ伏せに寝転がりながら両手で頬杖をついて足をばたばたと動かしている。

 何度も何度も読んで知っていた話。けれども、今耳にしているのは全く知らない話。話は確実に進んでいるけれど、見ていた話は全てリュウセイ達が主体のもの。そもそも、ハルト達が多く登場するのはハルトが騎士だと発覚してからで、それまでは各都市を廻っている為に殆ど物語に出てこない。

 知らない話はとても面白い。だがそれと同時に、とても遠くに感じてしまう。

 面白いけれど淋しい。

 そんな、とても不思議な気分。

 複雑で、日本で生活していては感じる事のないだろう胸のもやもや。バタバタと動かしていた足は次第に止まり、頬杖をついていた腕もいつの間にか折り畳まれていて、深刻な話をBGMに希咲は深い眠りについていった。



 結局、希咲が目を覚ましたのは翌日の事。陸羽艇に乗ってから二度目の朝を迎えた頃だった。

 起こされた時にはすでに目的地に到着していたらしく、どれだけ爆睡していたのだろうと珍しく思った希咲だったが、陸羽艇から降りて広がる光景を目にした瞬間から眠気など一気に吹き飛んでしまっていた。

「ふわ~、すっご~い!」

 街の出入口には空中に浮いている電光掲示板。それも駅にあるような荒々しいものではなく、3DかCG映像のように鮮明で綺麗なもの。書いてあるのは、英字でWelcome to フォルティスという簡単なものだけれど、デザインと技術からそれだけで圧倒されるようだ。

 街の中では、見た事もないような機械がそこかしこで稼働していて、忙しなく動き回っている者達がやたらと目につく。

 技術都市と言うからには茶色で埋め尽くされているような印象が強かったが、フォルティスには、ラフェスタとは別の華やかさがあった。

 路には、立体映像なのだろう矢印が二つ逆向きに描かれていて、動かずして道の向こうまで連れていってくれる動く歩道のような仕組みになっている。入口付近にあるポールに触れれば、宙空に浮かび上がる案内図。ホバークラフトのように地面から少し浮いた状態で走行する、スケートボードの車輪なし、若しくはスノーボードの板の形をしたものに乗っている者まで見受けられる。

 その他にも、触れても中に入っても濡れないけれど水を感じる事のできる大きな噴水や、筒丈の細いエレベーター型をしていて中に入って反対側から出るとフォルティス内の行きたい場所に移動できる装置、十メートルはあるのではないかというほど大きな振り子など、様々なものがそこかしこに溢れている。

 ここは、遊園地と科学館を合わせたような、有名なアミューズメントパークでさえも凌駕する場所。子どもの希咲が興奮しない理由がない。

「技術都市なのに、工場みたいなとこはないんだね」

「フォルティスの掲げるモットーは、『技術の向上と娯楽の提供』だからさ」

 それを聞いて、希咲は納得した。

 ここには見た限り、三種類の人間がいる。

 アミューズメントパークの係員のような制服を着た者、研究員らしいローブのようなものを着た者、エルグランドでは一般的な服を着ている者。

 営職師、技工師、一般客のようだ。

 初めて見るものばかりで目をキラキラと輝かせている希咲。文字だけでは判らない、伝わらない世界が目の前に広がっているという事はとても魅力的だ。

「フェオ、ウィン、アンスール……どこから行く?」

「やはりフェオではないですか。フォルティスの運営をしているのは彼らです。先ずフェオに話を通してからというのが筋でしょう」

「だね。キサキ、いろいろ見て回りたいのは判るけど、先にフェオズサークルに行っていいよね」

「あ……うん」

 名残惜しそうな返事をする希咲。後ろ髪を引かれる思いだと、辺りを見ながら歩いている事や足取りの重さから容易に想像できるだろう。フォルティスに初めて来た者なら誰でもこのような反応になってしまうのは仕方ない事だと思いつつも、スオウは希咲の手を引いて道の奥の方へ向かっている矢印の上に乗ると自動的に道が動き出した。

 フォルティスはラフェスタとはまた違った賑やかさがある。人の声というよりは、音の賑やかさ。けれどもそれは工場のように機械が動いている音で煩く感じるものではなく、音楽だ。

「何か、綺麗な音がいっぱい。これ何の音?」

「これは機械の音さ」

「機械の? でも、機械っていうより楽器っぽい音な気がするんだけど」

 見た目はどうでも、もしかしたらある種の楽器なのだろうかと一瞬考えたけれど、すぐに首を横に振った。そんな話を聞いた事はなく、そもそも楽器なら楽器だと答えるだろう。しかし、スオウは確かに機械だと言い切った。

 すると左隣から咳払いが聞こえてきて、視線を向ければ眼鏡を直したハルトが口を開く。

「フォルティスで造られたものの大多数は音で制御されています」

 簡単に説明をされたけれどそれだけではよく判らずに首を傾げると、何か教えるのに適しているものはないかと辺りを見回したハルトの視界に、丁度いいものが映り込んだ。

 それはボードに乗っている少年で、ハルトはボードを指差した。

「あれはエアボードと云うのですが、彼の周りにある鍵盤が視認できますか」

 言われて見れば確かに、緑色の光で出来たような半透明のキーボードの鍵盤が体を取り巻くように宙に浮いているのが判る。

「鍵盤に触れる事で音が奏でられ、それが制御装置となっています。簡単な操作は一音のみでできますが、旋律や音楽となれば複雑な動きもできるようになります。エアボードは鍵盤ですが、弦や音が出るパネル、声などで作動するものもありますね」

 音の種類は様々で、シンセサイザーのような電子音、弦楽器、管楽器、打楽器、トライアングルやウッドブロック、尺八にウィンドチャイムなどもあり、オーケストラと言うよりは小学校の頃の演奏会のような気分になって、気持ちが高揚していくのを希咲は感じていた。

 立ったままの移動というのは、不思議を通り越して少しばかり奇妙なものだった。動く歩道という訳ではなく、方向を変えるように操作する事も横の道に移動する事もなく、ただ立っているだけで自動的に方向転換し、あっという間に目的地に着いてしまった。

 辿り着いた先に見える建物に、希咲は目を輝かせた。フェオズサークルは、ウルズサークルとは雰囲気も建物も全く違っていた。家というよりは公共施設のようで、あまり大きくないけれど公民館だと言われれば全く疑わないような代物だ。

 玄関先に立てば、ドアの前に五色の正方形のパネルが瞬間的に現れ、その直後、パネルに文字が浮かび上がる。アラビア語かロシア語か――とにかく希咲が見た事もないような文字で、それが何を意味しているのか理解できなかったけれど、スオウは迷う事無く青いパネルに触れ、直後、ドアが横に自動的に開いた。

 ドアの奥にいたのは、あどけなさを残した高校生くらいの少年。

「どうしたの? 至急に触れた人は初めて」

 どうやら、あのパネルには至急と書かれていたらしい。

「話がしたいんだけど、アヤタカいるかい?」

「リーダーは会議中。戻るのはまだ先かな。待ってる?」

「いや、他のサークルに長居はちょっと。オーベルジュにいるから連絡するよう言ってくれるかい? ウルのスオウとハルトで判るからさ」

「うむ」

 別れを告げてフェオズサークルを離れると、先程とは打って変わって自分の足でコツコツと歩き始めた。

 今度は動く歩道を使わないんだと思いつつ二人の後を歩きながら声を投げかけようとしたが、先に声を発したのはハルトだった。

「何だか、タイミングが悪いですね」

「天橋立といい、ね。こういうことって続くものだね」

「あまり続いてほしい事ではありませんがね」

 悪い事は続くものだと、誰が言っただろうか。しかし、結果として起きてしまっているのだから昔の言葉というのは無碍にはできないものだ。そんな事を思いながらも、これからどこに行くのかと気になっている希咲は、先程のスオウの言葉を思い出していた。

 《オーベルジュ》というのは、ホテルの事。フォルティスには観光客が多くいる為、宿泊施設が多数存在する。

 ホテルに向かっているという事は、そこでフェオズサークリのリーダーであるアヤタカからの連絡を待つつもりなのだろう。二人はフォルティスに観光をしに来たのでも遊びに来たのでもない。大事な話をしに来たのだから、寄り道をする筈がない。

「でもさ、ハルトが前に来た時にはすでに例の事件があった筈だよね。けど、フォルティスの様子は変わってない」

「あまり重視していないのか、将又、確証がないから放置しているのでしょうか」

「会議の内容、訊いておくべきだった?」

「いえ、いずれ判る事です。それに、私達と同じ理由かもしれませんからね」

「無用な混乱を避ける為、ね」

 再び深刻な顔で話し込み始めてしまった彼らには、浮ついた気持ちなどこれっぽっちもない。そんなものを持ち込んでいい状況だとは希咲とて思ってはいない。

 けれど、それでも。

 うずうずとした気持ちは段々と膨らんでいって抑えきれなくなる。どうしようもなくなって、声を出さずにはいられなくなる。

「あの、さ!」

 興奮気味の希咲の声に思わず振り返る二人。

「あたしも、そのオーベルジュに行かなきゃダメ?」

「え?」

 不思議そうに訊き返すスオウだが、すぐにその言葉の真意を察して納得したように頷いた。

「そうだね、キサキはいいかな。目的が違うわけだし」

 目的と言うよりは純粋な興味が強いというのが、少々後ろめたい理由なのだが黙っておく事にする。

 それからスオウは何かを考えるように顎に手を当てていたのだが、すぐにハルトの方を振り向き、ぽんとその肩に手を置いた。

「そういうことだから、キサキのことよろしく」

「はぁ!? 私が、何故!」

「連絡係は一人で充分。けど、一人で出歩かせることはできない」

 例え今がとても安全に見えていても、いつラフェスタのような事が起こるか判らない。そもそもそういう事件がなくとも、女の子に知らない街を一人でふらふらさせるわけにはいかない。

 そう言うスオウは目を細め。

「それとも、一緒に行けない理由でも?」

「……いえ」

 スッと視線を逸らす居心地の悪そうなハルトに、スオウはとても爽やかな笑顔を向ける。

「それじゃあ、よろしくね」

 今一度、肩をぽんぽんと叩くと、渋々と言った様子のハルトから大きな溜め息が漏れた。楽しい音楽が溢れる中での溜め息は何とも不似合で、けれども希咲がそんなハルトを気にする事はなかった。

 ワクワクとする気持ちはどんどん高まっていくようで、高鳴る胸は焦燥感にも似ていた。

 行くとなれば行動の早いハルトは半ば自棄のようにずかずかと歩き始め、置いて行かれまいと歩を進めた希咲は途中で一度、スオウを振り返った。

「スオウ、ありがとう!」


 感謝の言葉。声からその嬉しさが滲み出ていて、スオウは返事をする代わりにニコッと笑ってやった。すぐに前に向き直る希咲と不機嫌オーラを出しながらも先導しているハルトの後ろ姿を、手を振りながら見送ってスオウはそっと口元に笑みを浮かべた。


 目的地があるわけでもないので徒歩での移動になる。宛てもなく、風の向くまま気の向くままの散策。

 溢れる音によって奏でられる旋律の中を歩くのは、まるで散歩しながら自分専用のオーケストラが演奏してくれているようで何だか贅沢な気分になる。滅多に味わう事のできない貴重な体験。今の内に存分に味わっておこう。

 そんな散歩をし始めて、気分的には三十分ほど過ぎた頃。先程とは打って変わって希咲の後をむすっとしたままくっついて歩いていた彼の額に、怒りが滲み出るように青筋が浮かび上がった。

「キサキ」

 妙にトーンの低い声。

「ん?」

「現状を理解していますよね」

「うん」

「では愚問だとは思いますが……」

 そこで一度区切りをつけ、大きく息を吐いたのを背中で感じるも希咲は一切振り返らずにハルトの次の言葉を待つ。

「貴女、遊んでいませんよね」

「……ん。あ、これ鉄琴だ。へぇ、発電もされるんだ。エコだ、エコ」

 地面にまばらに敷かれた、多彩色の光沢のある石を踏むと独特の音が鳴り響き、傍にある地面に埋められたライトが一つピカッと光った。傍に説明文の書かれたパネルが浮かび上がっていて、すぐに判るようにライトが光る仕組みになっているだけで、実際は発電されているとの事。その電力で動いている機械も多数あると書いてある。

 フォルティスには機械が沢山あり、電力の消費量も莫大な量になる。使い続けていれば資源というものはいずれ失われてしまう為、こうして自ら生み出して使用するというのは素晴らしいと言える。こういうものも、ある種の自家発電なのだろう。

 ふむふむと説明文を読みつつ、石の鉄琴を踏んで音を出す希咲。

 感心しているのか楽しんでいるのかよく判らない行動を視界に映しつつ、世界に優しいシステムを目の当たりにしても不機嫌の収まらない男はふるふると拳を震わせていた。

「今の間は何ですか。それに、明らかに楽しんでいるではないですか!」

「ハルト。遊園地に来た子どもに向かって、楽しむなって言っても無理な話だよ」

「は?」

 眉間の皺が深くなる。

 今すぐ大声で怒鳴り喚き散らしてもおかしくないような状態のハルト。火山が噴火する三秒前のように、沸騰寸前。血管が切れてしまいそうだ。否、胃に穴が開くかもしれない。

 希咲はふぅと息をつくとハルトを見た。

「ごめん、判ってるんだけどさ。あたしだって歳的にはまだまだ子どもだし、楽しい時は楽しみたいよ。ハルト達はテイマーだから切羽詰ってるけど、でもずっと気を張り詰めててもしょうがないでしょ。こういう時くらい、楽しんでもいいと思うけどな。連絡が来ないと動けないんだし」

 ずっと眉間に皺を寄せていても何も変わらない。気を抜ける時に抜かないで、もし何かあった時に気疲れしているような事があれば話にならないのだから。今は絶好の休息の時だと、希咲は言っている。そんなのは屁理屈だと一蹴されればそれで終わりだが、希咲は少なからず思っている。

 生まれながらにテイマーという使命を負った彼らには無理な事なのかもしれない。けれど、願わくは、邪影者と対峙する時以外は極普通の青年でいてもらいたい。

 しかし聞こえたのは、期待を裏切るような盛大な溜め息。やはりこの男は相当な堅物だったようだ。

「偶にはいいかもしれませんね」

「……え?」

 跳ねるようにハルトを見上げる。

 驚いたような怪訝のような目で見つれば眉間の皺が再び深くなりかけ、しかしすぐに皺は綺麗に消えていた。代わりにそっと目が細められた。

「散々、私を怒らせている貴女に言われるというのは癇に障りますが……一理あります。少しくらいなら、貴女の我が儘に付き合ってあげてもいいでしょう」

 初めて、ハルトの優しい顔を見た。笑顔とまではいかないけれど、微笑んだ優しい顔。嬉しかった。

 いろんな事を楽しんでほしい。楽しんで、好きになってほしい。エルグランドを、人を、世界を。好きになって、世界を闇で埋め尽くそうという心が色褪せてほしい。色褪せて、薄れて、小さくなって、騎士の心がハルトの中から消え去ってほしい。

 そんな淡い期待を胸に抱きながら――。

 静けさとは程遠いフォルティスの街中は、人通りは多いけれど溢れかえるほどではない。機械や機械仕掛けのオブジェや技術を駆使したアーティスティックな建物が大半を占めている分、技工師や営職師が機械の周囲にいる事が多い。いつでも状態を確認できるようにという事なのだろう。しかし、機械の中には半永久的に作動し続けるものやメンテナンスの不要なもの、遠隔操作で事足りるものなども多々存在する。そういった機械の周辺にはフォルティスの職員はおらず、いるのは観光客ばかりだ。

 ここも、そんな職員のいない区画だった。

 ちらほらと視界に映る人々の会話に溶け込む音達。いつの間にか希咲達の会話も紛れ込んでいた。

「ね、あれ何だろ。何か黒い渦みたいなものが空に……ハルト?」

 腰までの鉄柵に手を置いたまま、ふと隣に居る筈のハルトを見上げた希咲。しかし、そこにハルトの姿はなかった。

 驚いた直後、瞬時にハッとする。

 一緒に見て回るのが楽しくてすっかり安心しきっていたが、ハルトが騎士であるという事実は何ら変わってはいない。どんな状態だったとしても、決して目を離してはいけなかったというのに。

「捜さなきゃ……!」

 ずっと傍に居れば不自然な行動をするような事はないと思っていた。だから、勝手にいなくなるなど思いもよらなかった。

 走り回って捜し出せる保障など、どこにもない。数日過ごしたラフェスタのように知っている土地という訳でもない。どのくらい前にハルトが居なくなったのかも判らない。けれども捜さないといけない。自分が目を離したせいで、もし誰かが邪影者になってしまっていたら――。

 瞬間、ドクンと心臓が大きく脈打った。

 この感覚は。

 凝縮されていた莫大なエネルギーが徐々に膨れ上がっていく感覚。空気がビリビリと振動し、突然、重力が何倍にもなったようにずんと身体にのしかかり、膝がガクガクと震えるほどの恐怖。

 どれほどの距離にいるのかは希咲には判らないが、それでもフォルティスにいる誰かが邪影者化してしまった証拠。

 間に合わなかった。そう後悔する暇など、希咲には一瞬たりとも与えられはしなかった。何故なら恐怖の塊が背後にあるような気がして振り返った希咲の先に、黒い影で出来たライオンが猛然と立っていたから。

 蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げながら逃げて行く観光客。けれども希咲だけは石になったかのように動かない。動けない。

 まるで威嚇するような、喉を鳴らす唸り声がライオンから漏れる。

 背筋が凍りつき、ガタガタと体が震える。寒い。

 ゆっくりと一歩一歩近付いて来るライオン姿の邪影者。

 こわい……。

 じわりと目じりに涙が浮かぶ。

 こわい……!

 ――恐い?

 ドクン、と心臓が大きく脈打った。

 恐いのは誰? あたし?

 潤んだ瞳で眼前にいる影ライオンを見つめる。耳に届くのは、地鳴りのような唸り声。だが、その声はどこか――。

「違う……恐いのは、キミ……」

 もう一度、心臓が大きく脈打った。途端、頭の中に直接声が響いた。

【恐い……恐い……】

【音が聞こえるんだ】

【誰かに見られてる】

【恐い】

【恐いよ……】

 一歩、希咲が影ライオンに近付く。そっとその小さな手を影ライオンに伸ばして、その頬の辺りに優しく触れた。柔らかい毛並みの感触。毛なんてどこにも見当たらないのにその感触は本物で、生きている動物のものと全く変わらない。

 抱くように首に腕を回して。

「大丈夫。恐くない。ここには楽しい音がいっぱいだよ。楽しいこともいっぱい。だから恐くないよ」

 頬を擦り寄せ、目を瞑る。

「……ファイ・エリーダニ……」

 希咲の手首にかかっているブレスレットの皇心から光が溢れ、暖かい光が空から差し込み、辺り一面に色とりどりの花が咲き乱れる花畑が広がる。花びらが舞い散る、幻想的な光の花園。そこに伏せている影ライオンの顔はとても穏やかで、心地良い風が影ライオンの体を撫でると影だった体が、雪のように真っ白な艶のある毛並みのライオンへと変貌する。

 誰かが遠くで、笑ったような気がした。

 すっと目を開ければそこは元のフォルティスの一角で、唯一つ違うのは、目の前に居た筈の邪影者の姿はなくなっていて、視線を地面へと向けるとそこにいたのは――横たわっている少年だった。

「……あ、たし……」

 今し方、邪影者と対峙していた筈なのに邪影者はおらず、いるのは少年のみ。それも、一目でテイマーだと判るアクセサリーを身に着けた少年。

 思わず唇に触れる。無意識のうちに口をついて出た言葉。

 頭が働かない。真っ白で、何も考えられない。

 こわい。

 恐怖とは別のこわさ。判らない事のこわさ。

「これは……」

 違う人間の声に、ビクンと体が跳ね上がる。視線を前に向ければ、愕然とした様子のハルトが希咲を見ていた。

 捜していた、しかし、今一番会ってはいけない人物。

 ハルトは希咲を見、そしてその傍に倒れている少年を見、そしてもう一度希咲を見る。

「……なるほど、そういうことですか」

 言うなりツカツカと希咲に歩み寄り、狼狽えているような、脅えているような希咲の右手首を強く掴んだ。

「一緒に来て下さい」

「え、何……」

「いいから来なさい!」

 大きく強く放たれた言葉に一瞬怯んだ隙に、半ば引き摺られるようにフォルティスの奥の方へと強引に手を引かれて走らされる。

 右に左に、縫うように奥へ奥へ進んでいく。

「どこ行くの?」

「……」

「手、痛い」

「……」

「ハルト!」

 何を言っても一言も返ってこない。振り返りさえもしない。ただ、希咲の手を握っている指に力が込められるだけ。希咲が喋れば喋るほど、強く、きつく握り締められる。

 このまま行ってはいけないと、心臓が警鐘のようにドクンドクンと煩いくらいに鳴り響く。早く離れなければ。今の希咲がハルトを止める事は難しい。これだけの力の差があれば、止められないと言っていい。だったら助けを求めるしかない。テイマーであり、ハルトを良く知っていて今、止める事ができそうな人物――スオウに。

 その為には一刻も早くハルトから離れなければならない。

 それに邪影者と対峙した時のあの能力。記憶に間違いがないとすれば、あの能力は……。

「漸く、全て繋がりました」

 独り言のようにハルトから紡がれる言葉。

「貴女は絶対に渡しませんよ……《女皇-クイーン-》」

 目を丸くする希咲。

 見られていた。あの能力を。絶対に知られてはいけない人物に知られてしまった。けれど。

「違う、あたしはっ!」

 女皇じゃないと言いかけて、しかし最後まで続ける事は出来なかった。小さな小屋のドアを徐に開けたかと思うと、希咲は手を強く引っ張られ、そのまま小屋の中へ放り込まれた。勢いがついていた為、バランスを崩して座り込むがすぐにハルトを振り返った。

 いつものように不機嫌そうに眇められた目で見下ろされる。

「ここで大人しくしていて下さい。決して外に出てはいけませんよ」

 ハルトが建物から一歩外に出たのを見て、希咲は慌てて床を蹴って駆け出した。けれど無残にもドアは完全に閉められてしまい、一見壁のようなドアを力一杯ドンドンと叩く。

「待ってハルト! 開けて!」

 電子操作式のドアはどうやって開けたらいいのか判らなくて、ただ声を張り上げて抗議する事しか出来なくて、けれどハルトが希咲の声に耳を傾ける事はなくて、鳴り響く木琴の音が、ハルトが遠ざかっているという事を示していて。

 木琴の音が鳴らなくなって、ドアを叩く事に意味がないと悟ると希咲はすぐさま辺りを見回した。薄暗いこの建物はどうやら倉庫のようで、機械の部品やら木材やら配線やら木箱やらが乱雑に置かれている。ドア横の壁には何もなく、中から操作できないようになっているようだ。もしかしたら何か仕掛けがあるのかもしれないが、ウルズサークルの電気すら点ける事の出来なかった希咲だ、例えあったとしても探し当てられる気がしない。

 けれどここで黙っている気など更々なく、となるとドア以外の出口を探すしかないのだが。

 雑然とした建物内は割と広い造りになっているのだが、なにぶん物が散乱しているせいで狭く感じる。こういう時はひたすら触ってみるのが得策だと、通気口の傍の壁に手を当ててみる。軽くトントンと叩きながら移動していく。トントン。トントン。トントン。ポチッ。

 壁の一箇所が正方形型に窪んだ。直後、背後でプシューッと言う独特の音。

「開いた!」

 振り返れば希咲が入って来たドアが完全に開いていて、これで堂々と外に出られると、緊迫感で鼓動が早くなるのを感じながら、希咲は倉庫を後にした。

 出て最初に耳に届いたのは不協和音。繊細で涼やかな音だったのに、それがどんよりとした暗く沈んだ音になっている。まるで壊れたオルゴールのように、リズムも音程も何もかもが狂っている。

 それに、そこかしこにいた筈の人々がどこにもいない。その影すら見当たらない。

 おかしい。

 そして、胸に引っかかっているような苦しくなるような感覚。様々な感情が入り混じっているのが感じられて、希咲はその場所へ向かって走っている。

 近付いているのだと判る。

 段々と感覚が大きくなっていく。

 苦しい。

 心臓が握り潰されそうなほど苦しくなって、もうすぐだと感覚的に判って、曲がり角を曲がった先で目に飛び込んできたのは、黒い石が埋め込まれている短刀に腕を斬られるハルトの姿だった。

 飛び散る赤い血も、後方へ吹き飛んでいくハルトの体も、巻き起こる砂埃でさえもスローモーションのように見えて。

 大きく見開かれた希咲の瞳にハッキリとハルトが映り、しかし姿は徐々に消えていき、その姿が見えなくなると同時に強風が吹き荒れた事で、時間が一気に動き出す。

 吹き飛ばされたハルトは地面を滑り、二の腕から流れ出す血が地面を汚す。中央に橙色の楕円形の石――カーネリアンコアがあしらわれている黒い棒状の大きな十字架が、ハルトの傍に転がり落ちた。ハルトの武器の一つ。彼の背負うべき十字架。

 地面に倒れたハルトを見下ろしているのは、希咲がこれから助けを求める為に捜しに行こうと思っていたスオウで。

 呆然と立ち竦む希咲に、先に気が付いたのはスオウの方だった。

「キサキ、そんなところにいたんだ。捜したよ」

 その名に反応し、怪我をしていない方の腕で体を起こして希咲を見やるハルト。驚くように見開かれていた琥珀の目が苦々しげに細められ、眉が顰められる。

「決して出てはいけないと言ったのに、貴女という人は……」

「やっぱり、君が隠していたのか。何故、そんなことをしたんだい?」

「何故? 愚問ですね」

 血が滴る腕の傷を抑えながら立ち上がり、ハルトは倒れないように膝に力を込める。あちこち破れている服と擦り傷が、戦いが今始まった訳ではないという事を示している。

 膠着状態のまま睨み合うスオウとハルト。

 先に仕掛けたのは――ハルトだ。

 斜めに腰についているベルトにつけられたバックルの中央に埋め込まれているカーネリアンコアを左手でなぞれば、板状の白い十字架が指の間に現れ、握るように持つと白い板状の十字架をスオウの方へと投げつけた。数秒もかからぬ早業で繰り出された白い十字架はスピードも速く、希咲の方に注意が向いていたスオウが反応するのは数瞬遅く。

 舌打ちをすると短刀を振るえば、ぶつかった白い十字架は簡単に弾かれる。

 すぐにスオウはハルトの方に視線を向けたけれど、そこにハルトの姿はなかった。ハルトは希咲の前で、黒い棒状の十字架を手にしたハルトが希咲を後ろに庇い立てするように立っている。

 目の前にハルトがいる事で、希咲の焦燥感は募る。

 止めなきゃ、ハルトを止めなきゃ。

「スオウ、もうお止めなさい! このような馬鹿げたこと、何になるというのですか!」

「……どういう、こと……?」

 しかし希咲が止めるよりも早く出たハルトの言葉は予想もしていなかったもので、希咲の頭の中が真っ白になる。

 頭が回らない。思考が追いつかない。

 睨むようなハルトの視線を受けながら、スオウは憎々しげに目を細める。

「馬鹿げたことをしているのはハルトの方さ。これは大義なんだよ。大義の邪魔をする者は例えハルトでも容赦しない。いや、因子を継いでいる君だからこそ、容赦できない。皇帝として僕は、君を倒す!」

 短刀の刃をハルトへ向けるスオウ。

 ハルトの背中の向こうに捉えたスオウの姿。大きく見開かれ、揺れる希咲の瞳。混乱する頭はもう何も考えられない。ただ、脳も心も嘘だと叫び続けている。

 スオウが皇帝だなんて、そんな事は有り得ない。何故なら皇帝はスオウではなく、ユウイだから。エンドレステイマーの主人公であるユウイなのだから、他の者である筈がない。

 しかしハッキリと、スオウは皇帝だと名乗った。そしてハルトを、因子を継いだ者だと言った。ハルトが騎士であるという事は紛れもない事実。つまり、ユウイが皇帝だという事も事実になる。

 矛盾している。

「残念だけど、君にはここで退場してもらおう!」

「そうはいきません!」

 ほぼ同時に地面を蹴って飛び出した。

 振り下ろした短刀と振り上げた十字架がぶつかり合う。押し合い、弾き合い、距離を詰めては間合いを取り、間合いを取っては距離を詰める。

 下ろされた短刀を逆手の要領で持った十字架で止め、スオウが右拳を突き出せば首を傾けてハルトは避け、今度は脇腹目掛けて蹴り上げてきたスオウの足を、剣を弾いて自由になった十字架で再び止め、振り上げられた短刀を今度は身を翻してハルトが避ける。武器、拳、足。使えるものは全て使っての激しい攻防。場所を変え、位置を変え、攻防は繰り返される。

 つい何十分か前まで楽しく会話していたのが嘘のようだ。夢か幻か、そんな気さえしてくるような鬼気迫る息遣いに、息が詰まりそう。喧嘩なんかではない。これは、殺し合いだ。

 一般人が直面する事は決してない出来事。ドラマか映画でも観ているのではないか、そんな錯覚にさえ陥りそうになる。希咲の目と鼻の先で繰り広げられているというのに。

 繰り返されていた攻防に変化があったのは、止血をせずに扱っていた腕の傷に痛みが生じ、ハルトが目を眇めた一瞬の隙。真っ二つに切り裂くように一文字に斬りつけた短刀を十字架で防ぐ事は間に合わず、後方へと大きく飛び退いたハルト。地面に膝をつき、その間にスオウは短刀に意識を集中させ、光がオニキスコアへと収束していく。前に希咲が見た時よりもずっと小さな光。力を集めるには小さな方が断然早い。大鎌となった短刀を振るえば、そこから光の弾丸が乱射された。


 しかし、ハルトの行動は早かった。素早く体勢を立て直すとその場から右に飛び退き、けれども視界の端に捉えたそれに逸早く気が付くと、シュバルツクロワを右手に持ち直し着地した瞬間に逆方向へと体を向け、元いた場所へと飛び出した。飛んでいる最中に、最初に発射された光弾に十字架を弾かれ手放したけれど、構う事無くそのまま着地する。

 防ぐ間はなく、右肩に、左の太ももに、体に幾つもの光弾を浴び後方に吹き飛ばされながらも、ハルトはバックルのカーネリアンコアから出現させた四つの白い十字架をスオウ目掛けて投げつける。白い十字架はスオウを取り囲むように地面に突き刺さり、瞬間、スオウを閉じ込めるように巨大な純白の、立体的な十字架が作り上げられた。


 中を見る事の出来ないそれが結界だという事を知った時、ハルトが地面に背中を打ち付け血を吐き出した。遠く飛ばされた眼鏡が地面に落ち、レンズが砕け散る。

 彼がいるのは純白の十字架と希咲との直線状で、ハルトが何をしたのかを理解するのに、そう時間はかからなかった。

 一歩一歩、恐る恐るハルトへと近付く。

「……何で……何で助けたの……?」

 掠れ、震える声。

 薄っすらと開けた琥珀の目に映るのは、黒く塗り潰された世界。

「あのまま避けていて良かったのですか? 私はテイマーですよ。自分が助かる為に誰かを犠牲にするなど、屈辱以外の何ものでもありません」

 いつものハルトらしくない、弱々しい声音。

「でも、だって、テイマーでもハルトは、騎士なのに……っ」

「ああ、そうだったのですね。貴女はずっとそう思って私を見ていたのですね。探るような視線には気付いていました……けれど正しくは騎士ではありません」

「嘘っ。さっき因子を継いでるってスオウが!」

 ふぅっと呆れたようにつかれた息。けれどその顔には微笑が浮かんでいて、やはり、彼らしくない。

「騎士の因子が混ざり込んでいましてね、昔から他人よりも負の感情には敏感なのですよ」

 テイマーの中に存在している、騎士の意思。それはテイマーを巡る中で、テイマーの心である皇心に因子として滞留した。それが、ハルトのテイマーコアの中にも存在しているのだとハルトは言う。

「そのせいで黙って離れてしまい、それが引き金を引くきっかけになったのは失態でしたが、放っておく事もできませんからね」

 言いながら左手をポケットに入れ、すぐに握ったまま出された左手の方へ近付いてみれば手を開き、そこに乗っかっていたのは蝶をモチーフとした、恐らくはブローチだ。中央には、黒く靄がかかっている桃色の石。ウィンの紋が刻まれているのがハッキリと見て取れた事で、それがテイマーコアである事は明らかだ。

「そんなの、言えばいいのに」

「ヒトという生き物は理由を知りたがるものです。他のテイマーが気付かない事を何故、私だけ気付けるのか、それを告げる事は恐怖の対象になるという事です。この世界で騎士というのはそういう存在だと、貴女も知っているでしょう」

 全てを負で満たそうとする騎士。例え親友だったとしても、そんな存在になるのかもしれないと思ったら離れて行くに決まっている。それも世界を、人々を負から護るテイマーであれば巨悪の種は潰さねばならない。

 自らを皇帝だと称したスオウが取った行動は、正にそれだ。そうならないようにする為には隠すしかない。しかし、負が膨張している事に気付いた上で無視をする事は出来ずに不審な行動をとってしまう。そんなジレンマを抱えながら、これまでずっと、ハルトは過ごしてきたのか。

「それで貴女に完全な誤解をさせてしまった事はお詫びします。だからといって、自分を責めるような事はやめて下さいね。私自身が招いた結果なのですから」

 希咲から返事はなかった。声を出すのも躊躇っているような彼女の息遣い。反応はない。これは最早疑いようはなく、ハルトは一度目を閉じる。

 無理もない。希咲は普通の女の子だ。エルグランドに来るまでは、命の危険が伴うような恐い事など経験した事はなかっただろう。辛い事だって、心を抉るような程の事だって。

 動揺するのだって当たり前の事。はあっ……とハルトは大きく息を吐いた。

「キサキ……今、貴女は笑っていますか……?」

「……え……?」

「このような事になるのでしたら、もう一度、貴女をしっかり見ておくのでした……せめて、手を……」

 言って、ブローチを持った手を上に伸ばす。

 ハルトを見て、躊躇うように胸の前で手を重ねて、希咲は地面にぺたんと座り込んだ。

 ブローチを持っているハルトの左手を包み込むようにそっと両手を添えて、思わず、じわりと泪が目尻に浮かんだ。

 冷たい。自分の手もいつも冷たいけれど、それでもひんやりと感じる。冷たい。


「思ったよりも冷たいのですね。しかし、心の暖かさが伝わってきます……私はね、キサキ、貴女の事が嫌いではありませんでした。人をくったような性格も、能天気な笑顔も……ただ、それが妬ましく思う事もありました。何の苦労もなく、悩みもないのだろうと」

 そんな筈はないと判っているのに。

 異世界から来たという話が嘘ではない事は、希咲を見ていれば判る。飄々としていてとても素直とは言えないけれど、その瞳はとても綺麗で、強い意思を宿していて。今思えば、虚勢を張っていたのだろう。表面上にではなく、心に。

「ですが、貴女は私と同じものを抱えていました。そんな私から一言。隠し事というのはする方もされる方も辛いものです。貴女が真摯に伝えれば、判ってくれる人はいるでしょう。一人で抱え込んではいけませんよ」

「……ハルト……」

 ニコッと笑ってやって、自分の手を包んでいる小さな手にブローチを渡して、その手にしっかりと握らせるように、今度はハルトが希咲の手を包み込んでやる。

 それからすぐに真剣な表情に戻す。

「さ、そろそろお行きなさい。結界はいずれ壊れます。そうなる前にフォルティスを出てラフェスタへ戻りなさい」

「っハルトも、一緒に……」

「判るでしょう? もう二度と、私の目に世界が映ることはありません。先程、因子の欠片が消滅しました。魂の一部が消えたのと同じこと、程無くこの命も尽きるでしょう」


 気付かなかったけれど、じわりと地面に血だまりが出来ている。

 傷が深いという事を示していて、けれどそれ以上に深刻なのが、因子が消えた事だとハルトは言った。

 揺れる瞳に映るハルトの姿が、どんどん薄れていくような気がして。

 喉の奥が痛くて、目の奥が熱くて、声を絞り出そうと思っても音にはならなくて、言いたい事はいろいろあるのに伝えられなくて。覆っているハルトの手を、ブローチを持っている手とは逆の手で包み込んで、そっと頬を近づけた。

「キサキ、笑っていますか」

 震える手で、震える体で、希咲はコクンと頷いた。とても笑顔とは思えない顔をしているのに。俯いて、焦点の合わない眼で、呆然とどこでもない場所を見ているというのに。

 ハルトは、優しく笑んだ。

「良かったです……希望が咲く貴女の未来が明るく照らされる事を願っています。希咲……とても良い名ですね……」

 フッと力の抜けた手。重力に従って落ちようとしていて、希咲はその手をしっかりと、ぎゅっと握りしめる。

 微笑んだままの彼はとても幸せそうで、暖かな陽だまりの中にいるようなもので、天気の良い日に木陰で眠っているようで。

 つい今し方、話をしていたというのに。

 誰かが広場に足を踏み入れたような砂利を踏んだ音が聞こえていたけれど、反応する事はできず。

 呆然と見つめる先の、彼の目が開くことはもう二度となかった。


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