1 夢の現実
風が吹き、ザァーッと波打った草が音をたてる。
「え……?」
思わず声が漏れる。何が起こったのか理解できない。つい先程まで、自分は自室のベッドの上に寝転がって本を読んでいた筈だったのに、一瞬にして景色が一変していた。
手を地面について、左の高い位置でワンサイドアップにしている蜂蜜色の癖のあるセミロングの髪を揺らしながら上半身を起こし、座り込んで辺りを見てみる。だが、横たわっていた時と風景はさほど変わらない。
視界を埋め尽くすのは、高く伸びる木々たち。鬱蒼と生い茂った葉っぱは幾重にも重なっていて、数メートル先すら見えない程だ。見上げてみると、青く澄んだ空が遥か上に、望遠鏡で見ているのかと思うほど小さく見えている。
ここは一体どこなのだろうか。どうして、こんな所にいるのだろうか。
不安に思いながら更に立ち上がってみたけれど、やはり景色が変わる事はなく、ただ深く暗い森が眼前に広がっているだけだった。
静かな森の中は、ざわめく葉の音や揺れて擦れる草の音しかしない。ここには自分一人しか存在していないような、そんな錯覚に陥りそうなほど何の気配もなかった。
不安がないわけではない。けれど思いの外、希咲の心は落ち着いていた。
それを見るまでは。
キョロキョロと辺りを見回している最中に、ふと、視界の端で捉えてしまった黒い影。木々の間で蠢くそれは、ニメートルはあるかもしれない巨大な影だった。
ヒトに近い形をしているが顔の形はトカゲのようで、けれども目はなく、大きく裂けた口がぽっかりと開いているだけ。二足歩行のトカゲのようなものは、薄暗い場所だというのに影で出来ているのが分かるほど、その存在はハッキリとはしていない。触れれば手が擦り抜けてしまいそうな、そんな印象を受けるモノだ。不意にソレは希咲に気がついたのか、ゆっくりとこちらへ近づいて来た。
その影を、希咲は知っていた。見た事がある。否、正確には見ていない。見たのは自分の頭の中に浮かんだもの。そう、文字を読んで想像したソレに酷似している。
「《邪影者-ファントム-》……」
熟読するほど好きな小説の中で、何度も出てきた黒い影。それが目の前で蠢いている。触れれば、近づけば、溢れ出ている影に呑み込まれてしまいそうな感覚に陥り、突如、額に開いた赤い目が希咲を捉えた。
「そいつから離れろ!」
突然、青年のような少年のような力強い声が後ろから響いたかと思うと、肩を掴まれてぐいっと後ろに引かれた。次の瞬間に見えたのは、鮮やかな山吹色の髪。
一瞬、顔の判らない小さな男の子が重なって見えた。ハッとして瞬きをすると重なっていた男の子の姿は消えてしまったけれど、何となく懐かしいような感じだけが残っている。何だか暖かな空気。
呆然と目の前の男性を見ていると、彼は左手を前に出した。
「ブレイブマテリア!」
左手首に着けている黒い腕輪についていた紅い石が淡く光ると、紅い石から紅い粒子――ブレイブマテリアが出てきて、ブレイブマテリアが右手に集まると一瞬にして炎を模したような紅い双刃の武器が形成された。青龍偃月刀の刀身を双方に持った双刃剣。
「魂の閃光を身に刻め! 天昇! アル・スハイル・アル・ワズン!」
双刃剣で上半身と下半身を分かつように真っ二つに斬り裂けば、斬られた所から黒い靄で出来た影トカゲは紫色の光の粒子へと変わっていく。次第に消えていく体の心臓部にあった親指ほどの大きさの、紫水晶の嵌め込まれたペンダントが露になり、重力に従って草の上へと落ちていった。
落ちたのは、邪影者化するに至った原因である《皇心-コア-》だ。山吹色の髪の男が双刃剣の刀身についている紅い石――ルベライトコアに触れると瞬時にブレイブマテリアへと変わり、紅い光の粒子が腕輪に嵌めこまれたルベライトコアの中へと入っていった。
その後、男は落ちているペンダントの方へ近づき、身を屈めて躊躇なく拾い上げる。ペンダントについている藍色の石をまじまじと見ながら、もう片方の手を腰にあてて男は息をついた。
「トルマリンコアの暴走、か。でもこの皇心、《テイマー》の……」
独り言を呟き、何かを考えるようにじっとトルマリンコアを見ていた彼は、徐に腰についている小さな鞄にペンダントを入れると、踵を返し、希咲の方へと向かってくる。
「大丈夫だったか? ったく、邪影者を見たら逃げろって親に言われなかったのかよ。テイマー以外が邪影者に触れれば、闇に呑まれて邪影者になるってのに」
頭を掻きながら言ってくる十七,八くらいの男。太陽のような明るい山吹色の短髪。優しさが見える鋭い翡翠の目、右の眉には切り傷。活発そうな雰囲気の彼は、ファンタジーなゲームに登場しそうな服装をしている。左右にスリットの入っている丈の長い襟を立てた半袖のトップスには装飾品のようにフードが取り付けられていて、少し変わったデザインになっていた。
その姿には、見覚えがある。希咲が大好きな小説に登場するキャラクターの一人。主人公の親友の青年に、瓜二つだ。
驚きと衝撃に目を丸くしたままボーっと彼を見つめることしかできない希咲。彼の声はずっと聞こえているけれど、反応ができない。息も、心臓も止まってしまいそうだ。
少し経った頃に、漸く一人で話をしていた事に気付いたらしい彼が言葉を止め、希咲を見やる。
「って、聞いてんのか?」
ぐっと顔を近づけられ、拗ねたように半眼で見てくる彼にハッと我に返った。
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「あのなぁ・・・・・・ま、無事っぽいからいいけど」
希咲に外傷はなく、闇に呑み込まれた様子も見受けられなかったのだろう。希咲が邪影者の近くにいても負の影響を受けていない事を確認するなり、彼はホッと安堵の息を漏らした。
そんな彼を見て、希咲は声をかけたい衝動に駆られていた。ここまでそっくりな人物を目の前にしているのだから、言わずにはいられない。声をかけずにはいられない。その名を呼ばずにはいられない。
これは一か八かの希咲の賭けだ。もし間違っていたとしても、人違いでしたで済ませればいいだけの話。やらない理由は何もない。
はーっと緊張をほぐすように息を吐くと、口を開いた。
「ねえ、リュウセイ」
彼と瓜二つのキャラクターの名前を口にする。
言ってから、彼の返答まで凄く永い時間が流れたように感じる。次の言葉を聞くのが怖いような、待ち遠しいような不思議な気分だ。ドクンドクンと音をたてる心臓の音がやけに煩く感じた。
「何だ?」
しかしながら返答は、数秒も経たずにやってきた。不思議そうにしながら、真っ直ぐ希咲を見てくる彼。
今の言葉で希咲は全てを悟ったような気がした。まさかと思って呼んだ名に、彼は至極当たり前のように返事をしたのだから。
「そっか・・・・・・リュウセイなんだ・・・・・・」
「何だよ、その言い方。俺がリュウセイで不満でもあんのか?」
「ううん。本物なんだな~って思っただけ」
「本物も何もねえだろ・・・・・・って、あれ? 何で俺の名前知ってんだ?」
そこで漸く、リュウセイは違和感に気付いたようだ。初めて会った筈の少女が自分の名を知っているという事に。
それから、「う~ん」と唸りながら必死に記憶を辿っているらしいリュウセイ。けれど数十秒考えてもやはり答えは出なかったらしく、すぐに結論を導き出した。
「悪い、全然憶えがねえんだけど」
「ないと思うよ。実物は初めてだから」
彼――リュウセイが希咲を知らないのは当たり前だ。何故ならリュウセイは、エンドレステイマーという小説の中のキャラクターで、希咲はその小説を読んでいるから知っているというだけの事なのだから。一方的に見ていたのだから、リュウセイが希咲を知っている筈がない。
すぐにリュウセイは考える事をやめ、早々に話題を変えた。
「にしてもお前、この辺りの奴じゃねえよな。服も見た事ねえし」
服装に関して言われ、希咲は改めて自分の恰好を見た。確か今日は土曜日で、昼までの授業を終えた希咲は中学校から帰ってすぐに着替える事もせず、ベッドの上で小説を読み耽っていた。その為、夏服に変わっていない冬用の白を基調としたセーラー服姿のままだ。
「どっから来たんだ?」
「異世界だよ」
「ふ~ん、異世界ね……」
そこで言葉が途切れると同時に、リュウセイの動きも止まったのだが、すぐに勢いよく希咲を見やる。
「へ? 異世界?!」
あまりにも希咲があっさりと言うものだから一瞬聞き流しそうになったリュウセイだったが、数秒の後に漸く言葉を理解したらしい。リュウセイの表情は、当然の事ながら驚きと怪訝が入り混じった複雑なものだ。
「異世界ってお前……」
「違う世界のことだよ?」
「そんくらい俺にだって判るって! じゃなくて、そんな突拍子もないこと言う割には、何か淡白すぎねえか?」
「そうかな?」
どう考えても希咲の反応はおかしいとリュウセイは考え、汗を浮かべる。取り乱すか深刻になるものではないだろうかと。
現実逃避をしているわけではない。現状を理解しているが、取り乱したところで何かが変わるわけではないという事を希咲は分かっているのだろう。意味のない事をするよりも、冷静に状況を判断して対処する方が良い。そう、十三歳の子どもながらに考えた結果だった。
とても落ち着いている希咲はずっと笑みを絶やしておらず、そんな希咲を見ていたリュウセイも、漸く気持ちを落ち着かせた。
「お前、名前は?」
「立花希咲。希咲でいいよ」
「おう……たちばな、きさき?」
返事をした後にそう復唱し、それから希咲を見つめたかと思うとリュウセイは、せっかく落ち着きを取り戻したというのに再び取り乱していた。振り返り、後ろにあった木に腕をあて額をつけ、何かをぶつぶつと呟いている。
急にどうしたのかと不思議そうにリュウセイを見つめる希咲。
「リュウセイ?」
名を呼べば、ビクリと背筋を伸ばして恐る恐ると言った様子でこちらを振り返る。
「あ、いや、何でもない」
言い、コホンとわざとらしく咳払いをした。
そんな中でも、希咲は不思議な懐かしさを感じていた。昔から知っている幼馴染に久しぶりに会ったような、そんな気持ち。それはきっと、本物のリュウセイだからだろう。口調や性格や纏っている空気が想像していたリュウセイそのもので、この空気が好きなんだと希咲は思った。
惹き込まれるような空気。初めて小説を手に取り、リュウセイを見た時に感じたものと同じだ。
「なあ、キサキ」
「カタカナで呼ばれるの嫌」
「そうか……って、何で判るんだよ!」
「何となくそうかなって。ってか、よくカタカナわかったね。ここって英語圏じゃないんだ」
カタカナを使うのは日本だけだ。何せ特有の文化なのだから。確かにこの世界では名前や地名などはカタカナ表記ではあるのだが、地図上では英語みたいな文字で表記されている事が多い。
そう考え、こういう小説の中で使っている文字はどうなっているのだろうかと、以前に考えた事を思い出した。日本語で話しており、技名などに漢字を使っているものも多い。そして今、希咲は日本語で話していて通じている。つまり、カタカナや平仮名、漢字の概念がこの世界にはあるのだろうか。
そんな疑問をリュウセイにぶつけてみると、リュウセイは少し困ったように頭を掻く。
「あー、何かどっかで聞いた事あんだよな。カタカナとかって」
へぇ、と希咲は思う。もしかしたら、この世界にも漢字やカタカナを使う国や種族があるのかもしれない。ゲームの中でも、日本をモチーフにした街や人物が存在する事もある。物語に出てくるのは一部の地域で、出てこない小さな村や集落なども存在している。きっと、後者の方が多いのだろう。
小説の中では語られていないけれど、リュウセイはそういう人達と交流があるのかもしれない。そう思うと、何だかワクワクしてくるようだった。
「でも、何でそのカタカナってので呼ばれるの嫌なんだ?」
「どっちかっていうと、カタカナが嫌なんじゃなくって漢字が好きなんだよね。希咲っていう字。希望が咲くって書くんだよ。何か前向きで明るくて元気になれる名前でしょ」
「確かに。何でも頑張れそうだな」
ニッと笑うリュウセイは本当にそう思ってくれているようで、凄く嬉しい気持ちになる。
リュウセイは小説の中の人だから現実世界には決して居ないけれど、実在してくれたらいいと思った事はある。初めてリュウセイの絵を見た時からずっと。けれどその思いを誰かに伝えた事はなかった。
決して叶う事のない思いを抱き続けるのは辛い。
「そういや、希咲。希咲は俺の名前知ってたけど、何で知ってたんだ?」
それは当然の疑問だ。
希咲が逆の立場だったとしても絶対に気になり、訊くであろう疑問。言ってもいいものだろうかという躊躇いはあった。それでも、リュウセイには素直に話そうと思った。話さなくてはならないような気がするから。
理解できるか判らないけど、と前置きをすると、希咲は今いる世界の事を話し始めた。
この世界は、希咲のいる地球の日本というところで売っている、エンドレステイマーという小説の中に出てくる架空の世界で、希咲の大好きな小説。
話しながら、希咲は小説の冒頭を思い出す。
そこは、エルグランドと呼ばれる、《皇帝-キング-》と《女皇-クイーン-》が統治している世界。
世界の中心に位置する王都・エクストレイル。皇帝と女皇はその城から世界を護っていた。正の感情で溢れた穏やかで平和な世界だった。
《騎士-ナイト-》という、世界の異分子がやって来るまでは。
闇の化身である騎士に近づく者は皆、絶望・憎しみ・苦しみ・恐怖・嘲り―――負の感情に呑み込まれ、影に覆われた《邪影者-ファントム-》という存在へと成り代わってしまった。
負の影響を受けないのは、皇帝と女皇の二人のみ。その理由が、二人の体内に宿っている強い正の感情であるということを知った。勇気、友情、意志、信頼、冷静、調和、幸福、愛、感謝、優しさ、希望、英知。常人を遥かに超える、光にも良く似たその感情―――《光刻印-マテリア-》があれば民が影から解放されるのではと考えた皇帝と女皇は、負の塊である騎士を封印する為にも光刻印を解き放った。
王城から溢れ出した光刻印は空へと昇り、そこから世界中に降り注ぐ。邪影者となっていた者は光を浴びたことで影が剥がれて浄化された。空から落ちる中で光刻印は大小も形も様々な宝石―――《皇心-コア-》へと姿を変えて世界に散らばった。
魂の基であった光刻印を解放した皇帝と女皇の体は朽ち果て、光刻印に中てられた騎士の体も滅びたが、その意思はそれぞれ別の皇心へと宿っているという。
皇心をその身に持ち、生まれながらに皇心を持った者は継承者と呼ばれ、魂が巡るように皇心も永遠に巡り続ける。
この世界は誰かが書いた物語の中の世界であり、どこにも存在する筈のない世界。
言い終え、リュウセイを見てみると、口元に手を当てて眉を顰めている。
「えっと……リュウセイ?」
「希咲。その話、誰かに話したか?」
「えっ? ううん。こっちに来て初めて会ったのがリュウセイだったから、誰にも……」
正確には最初に会ったのはトカゲの邪影者だったのだが、話してはいない上に人でもないのだからカウントはしていない。
誰にも話していない事を告げれば、リュウセイはホッと安堵したように息をついた。
「そっか、なら良かった……けど、今の話、俺以外の奴にはぜってー言うなよ」
「どして?」
「いいから。知ってんのは俺と希咲だけ。他には異世界から来たって事だけな」
「それはいいんだ」
「じゃないと説明できない事もあるから、しょうがねえよ」
何だか不服そうなリュウセイ。何に不満があるのか判らずに希咲はキョトンと首を傾げていて、そんな希咲を見、それからリュウセイは頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「異世界、異世界かぁ」
はあっと漏れる溜め息。
「どしたの?」
何か問題でもあるのかと問うてみれば、呆れたような視線を向けられる。
「いや、急に異世界って言われても、何かこう、ピンと来ないって言うか。そもそも異世界なんて架空のもんだろ? それが突然現実として突きつけられても、順応できねえっつーか。いや、希咲が悪いとかそういうんでもなくてだな」
混乱しているのか考えが纏まっていないのか、あれこれと思った事を口にしているリュウセイが何だか可愛く思えた。自分よりも年上の男性に対して思うのは失礼かもしれないけれど、こんな風に狼狽えたようなリュウセイを見るのは珍しかった。
いつも真っ直ぐで優しくて、何事をも恐れずに立ち向かっていくリュウセイ。ヒーローのようでいて、年上のテイマーにからかわれてじゃれている時は少年のようで、時には悩んだり落ち込んだりするけれど、それでも強くある。
現実にはいない、小説の中だから、物語の中だからこそだと思っていた。
その人が今、目の前にいる。
「そもそも異世界って何だよ。希咲を疑うわけじゃねえけど正直、信じらんねえ」
「でもほら、超能力者とか宇宙人がいるんだったら、異世界人がいたとしてもおかしくないでしょ」
「……何でそんな楽観的なんだよ」
当の本人がこんな状態では悩んでいる事が馬鹿らしくなってくると、一度溜め息をついてから立ち上がった。
そうしてリュウセイと二人で話していた希咲だったが、ふと、ある事を思い出す。この森にリュウセイがいて邪影者を浄化し、トルマリンコアを拾ったというこのシーン。憶えはある。物語が進展する、第一巻の後半辺り。
つまり、もうすぐ彼が合流する筈だ。
そう思った正に次の瞬間、草むらが揺れ、木々の間から宵闇のような瑠璃色の髪が見えた。
「ごめん、リュウセイ、遅くなっちゃった」
出てきたのはリュウセイと同い年くらいの少年。慌てたような顔の彼は、可愛いと形容する容姿をしていた。服装はかっちりとした、白く縁どりされている紺の正装のようなもので、緩めに上着の上からつけている太いベルトがあるので普段着で着ていられるという感じだ。
「気にすんなよ。俺一人でも余裕だったしな。そっちはどうなんだ? ユウイ」
ユウイという名に、希咲は反応する。彼はエンドレステイマーの主人公で、リュウセイの幼馴染にして親友。エンドレステイマーの《皇帝-キング-》の意思を継ぐ者。現代の皇帝。皇帝として覚醒するまでは普通のテイマーだが、覚醒すると一度に数体の邪影者を天昇させることが出来るようになる。
「ちゃんと避難はできたから大丈夫だよ。メイミとシキがついててくれてるしね」
ニコリと笑んだ顔はとても優しく、とても柔らかな雰囲気だ。
「そっか、なら大丈夫だな」
「うん……ところでリュウセイ、その子は?」
今までリュウセイと二人で話をしていたユウイだったが、ふとリュウセイの後ろにいる希咲に気がついて、不思議そうに訊ねてきた。
ユウイに言われて、そういえばと希咲を見ると自身の横に引っ張り出す。
「ああ、こいつは希咲。訳あってここに迷いこんじまったらしい。希咲、こっちはユウイだ」
「うん、知って――」
知ってると平然と言おうとした希咲に、慌ててリュウセイは希咲の口を塞いだ。
「悪い、ちょっとタイム」
汗を浮かべながらにこやかにユウイに言うと、そのままユウイに背を向けてその場にしゃがみこみ、声を潜める。
「だから、知ってたらマズいんだって!」
「ん? 何で?」
「あのなあ、さっき他の奴らには秘密だっつったろうが」
「あ、そっか。知ってたらおかしいんだよね。ごめんごめん」
「ったく、頼むぜ」
希咲に対して不安は残るものの、いつまでもユウイを放っておく事もできず、二人で立ち上がるとユウイの方を向いた。
「話はもういいの?」
「あ、ああ」
引きつったような笑みのままユウイに言い、リュウセイはそっと肘で希咲の腕を突いた。ちゃんと挨拶をしろという事だろうか。希咲はそう受け取り、リュウセイを見上げてから一歩前に出た。
「はじめまして、ユウイ。あたしは希咲。よろしくね」
「僕はユウイだよ。よろしく、キサキ」
「あ、違う違う。キサキじゃなくて希咲。こう書くんだよ」
そこは希咲なりの拘りらしく、漢字と言っても通じないだろうという事を考慮し、宙に書いてみる。へぇ~と言いながら楽しそうに見ているユウイ。その光景を見て、リュウセイは心底、ここにいるのがユウイで良かったと思う。何にでも興味を持つユウイに、きっと希咲も満足するだろう。
「希望が咲く、で希咲。判った?」
「うん、希咲だね。僕のことはユウイでいいよ」
ニッコリと笑うユウイ。何だか和やかな空気が流れ、花が舞っているような雰囲気に希咲は陽だまりの中にいるような気持ちになる。
ユウイはきっと、優しくてほんわかしていて暖かいんだろうなと思いながら読んでいたのだが、これは想像以上だ。癒しの空間だと言っても過言ではない。
和やかな空気に流されていたリュウセイだったが、ある事を思い出して口を開いた。
「なあ、ユウイ。今まで暴走した皇心は、宝飾品じゃない、ただの石だったよな?」
「世界に散らばった形のままのものだったね」
「だよな。でもさっき拾ったこの皇心、明らかにテイマー用に加工したものなんだよ」
言い、腰についている鞄から先ほど拾ったペンダントを出し、シルバーのチェーンを握ってユウイに見せる。サークルの紋が彫られ宝飾品として加工されたそれは、テイマーが身に着けているものだ。
「じゃあ今回、邪影者になったのはテイマーだよね」
「だな。テイマーコアを他の人間が持つ事なんかねえし」
「どういう事だろう。テイマーコアには真詞が刻まれてるから、邪影者にはならない筈なのに……」
深刻そうに話しているリュウセイとユウイの話をすぐ近くで聞いている希咲は、頭の中にある小説の内容と照らし合わせていた。
今ので確信が持てた。やっぱり一巻の終わり頃の話だ。世界に散らばった十二種類の無数の皇心。それは宝石となり、様々な形をしたまま世界中に眠っている。そのままの状態の皇心に邪な気持ちで触れてしまえば、人は忽ち邪影者に姿を変えてしまう。
真詞というのは、強い想いの言葉だ。先程、リュウセイが言っていた「アル・スハイル・アル・ワズン」がそうだ。真詞が刻まれている皇心は、言葉が負の感情を抑制する為、テイマーは邪影者化する事はなかった。
だからこそ、ユウイもリュウセイも神妙な顔になってしまっている。
このまま話が進むのであれば、この後リュウセイ達が暮らしているラフェスタに戻って、これからどうするかという話をする筈だ。
「とにかく、一回ラフェスタに戻ろうぜ。シキに話した方がきっといいよな」
「そうだね。他のテイマーにも知らせないといけないし」
「それに、希咲の事もな」
「あたしがどうかしたの?」
不意に自分の名前が出た事で、キョトンとしたままリュウセイを見上げれば、呆れたような目で見返される。
「どうかしたってお前……その格好で見咎められないわけないだろ。みんなに説明すんだよ」
確かに、服装はこの世界の人達とはまるで違う為、不審がられるだろう。
納得し歩き出そうとして、けれども足元に違和感を覚えた。何だろうと思いつつ気にする事なく一歩踏み出した希咲の耳に、リュウセイの不思議そうな怪訝そうな声が届いた。
「あれ、希咲。靴は?」
リュウセイに言われて立ち止まる。違和感の正体はこれだ。草の上で靴を履いていないのだから違和感が無い筈がない。
「最初っから履いてなかったみたいだね」
「みたいって、今まで気付かなかったのかよ」
そうは言われても、突然の事と邪影者の出現、更にはリュウセイと出会った事で希咲はそれどころではなかったのだ。リュウセイも同じような考えに至ったのか、しょうがないなと呟くと希咲の前に回り、背中を向けてしゃがみ込む。
「ほら」
「え? 何?」
「何って、そのままじゃ危ねえだろ」
「このくらい平気だよ。未だに裸足で外、出歩いたりするし」
「いいから乗れって」
大丈夫だといくら言ってもリュウセイは聞き入れてくれず、このままでは平行線になると思った希咲は、このくらいなら甘えてもいいかなと素直に折れる事にした。「お願いします」と呟きリュウセイにおぶさると、すぐに立ち上がって歩き始める。
そんなリュウセイと希咲の姿を見ているユウイは何故か嬉しそうで、何だか恥ずかしくなってきた希咲はリュウセイの暖かさを感じながら、リュウセイの背中に顔を埋めてみた。意外と大きくてしっかりとした背中に、何だか頼もしいなと笑みを零した。
数分もかからずに森を抜けると、巨大な都市が視界いっぱいに広がる。これが庭園都市ラフェスタ。リュウセイ達の住んでいる街だ。想像以上の大きさに、希咲は思わず感嘆の声を上げた。
「凄~い、おっき~!」
端の見えないこの都市は東京ドーム何個分の広さなのだろうと考えてみるが、きっととてつもない数になるに違いない。
「どうだ、すげーだろ。エルグランドの四大都市の一つだからな」
「ラフェスタでその反応だと、王都に行ったらもっとビックリしちゃうね」
「そっか。一番おっきいのは王都なんだっけ」
王都エクストレイル。王都と呼ばれているが、そこに王は存在しない。その昔、皇帝と女皇がいた場所とされているだけだ。都市のシンボルのように中央に建つ城には、今は誰も住んでいないという話である。
ラフェスタの入り口であるアーチをくぐり中へと入ると、ふわふわの長い水色の髪をポニーテールにした少女と、二の腕ほどまである茶髪の襟足を結って右肩から垂らしている二十歳前後の男性が立っているのが見える。リュウセイとユウイが帰ってきたのに気がついて、こちらへと向かってくる二人。
その二人には見覚えがある。
「ユウイ、リュウセイ、おかえりなさいです」
日本では淡藤色と呼ばれる淡く優しい水色の髪を揺らしながら、ニコリと笑うその笑顔は誰もが幸せになれるもの。膝下まである藍色のワンピースは裾の辺りに白いラインが入っている。お嬢様という言葉が似合う、ふんわりとした雰囲気を纏った愛らしいメイミ。
「ただいま、メイミ、シキ。そっちは何ともなかった?」
「ああ、問題はない。すぐに避難できたおかげだ」
優しく落ち着いた雰囲気の好青年という印象を受ける背の高いシキ。民族衣装のようなゆったりとした服を着ている。インテリとはこういう人の事を言うんだろうなと、希咲は心の中で納得して頷いた。
これで主人公チームの主要人物が勢ぞろいした事になる。メンバー全員に会え、邪影者に遭遇し、マテリアを使うテイマーの姿を間近で見、実際のラフェスタに来る事ができた希咲は今、とても満足している。今ここで世界が滅亡したとしても、実はこれが夢で目が覚めてしまったとしても、きっと悔いはないだろうと思うほどだ。
ユウイと話をしていたメイミとシキだったが、リュウセイを見てその背に誰かいるのに気がついたメイミは首を傾げる。
「リュウセイ、その人は誰です?」
「ああ、こいつは希咲。森の中にいたのを拾ってきた」
まるで捨てられていた子犬を拾ってきたかのような言い様にユウイとシキは苦笑するものの、当の本人である希咲はこれまた気にしていない様子。この姿は確かに、拾ってきたと形容してもいいと、希咲自身が思えたからだ。
それからメイミに、希咲が靴を履いていない事を教えて持ってくるか買ってくるよう頼むと、メイミは「はいです」と返事をすると商店街の方へと駆けていった。「シキの家にいるからね」とユウイが背中に声を投げかけると返答があったので、とりあえずは大丈夫だろうか。
ドジっ子に見えて意外としっかり者だから大丈夫だろうと、希咲は心の中で自分に言い聞かせてみる。
それからシキの家へと向かったリュウセイ達は、家に着くなり玄関の右手にあるリビングに入り、リュウセイは一人掛けのソファに希咲を下ろした。身軽になった事で肩を回したり首を捻ったりするリュウセイを見て、希咲は疲れたのかなと声をかける。
「リュウセイ、重かった?」
「なっ、んなわけねえだろ。希咲くらい余裕だよ。ただ、ずっと同じ体制でいるのって結構疲れんだ」
言いながら、尚も体を動かしているリュウセイ。
リュウセイと希咲の会話を、シキは黙って聞いていた。希咲が誰なのかという問いあるだろうが、希咲が話さないのであれば訊く必要はないと判断したようだ。元々、シキは自分から詮索する性質ではない。話せば聞き、話さなければ訊かないというのが心情だった。
そして、リュウセイやユウイが隠し事をしないという事も、シキはよく理解している。そう思ったから、メイミが戻ってくるまでシキはただ会話を聞き続けていた。
そのメイミが戻ってきたのは、別れてから三十分ほど経った頃だった。
「ただいまです」
走っていたのはきっと最初だけなのだろう。全く息を切らした様子のないメイミが、そう言いながら部屋の中へと入ってきた。
皆の視線がメイミへと向き、おかえりとそれぞれの言葉で伝える。そのメイミは大き目のショルダーバッグを肩からかけていて、それ以外には何も持っていない。恐らく、自分の家に帰って靴を持ってきたのだろう。
希咲の方へ近付くとメイミはバッグから、膝下まであるロングブーツを取り出して希咲の前に置いてくれた。
「はいです。サイズが判らなかったから、わたしの靴を持ってきたですよ」
そういえば伝えていなかった。申し訳ない事をしたと思いながらブーツを履いてみる。
「あれ、ピッタリだ」
丁度良い大きさに少し驚いた。サイズが同じだと告げれば、メイミはふんわりと笑う。
「良かったです。わたしと同じくらいの身長だから、そうじゃないかと思ったですよ」
「それで自分の靴を持ってきたのか」
「はいです」
リュウセイの言葉に嬉しそうに返すメイミを見ながら、可愛いなぁと思いつつ、希咲はエンドレステイマーの内容を思い出していた。
世界に散らばった十二種類の感情が石となった皇心。その皇心を使う為に必要なのが、全身を巡っている正のエネルギー、マテリア。テイマーはそのマテリアを、テイマーコアを介して具現化し武器を生成する事ができる。対邪影者用の特殊な武器で、邪影者になった人にマテリアを流し込む事で負を取り払い、魂を浄化する事ができる。
それがテイマーの仕事であり、存在理由。それは遥か昔から何ら変わっていなかった。
この時までは。
ちらっとリュウセイ達を見れば、すでにシキに報告を始めている。
一人用のソファを希咲が占領している為、希咲の右隣にあるL字型に置かれた三人掛けのソファにはメイミとユウイが座り、木でできた椅子にシキが座り、リュウセイは近くの壁に体重を預けて立っている。
本来は希咲が座っているソファにリュウセイが座っているのだけれど、この座り位置がそれぞれの定位置だ。
今、リュウセイ達が話しているのは、先程のテイマーコアから邪影者化したという話。これはエルグランドにおいては絶対に有り得ないと言える事だった。
そもそもテイマーは体内を正の感情であるマテリアが巡っている為、多少の負の感情を抱いたところでマテリアが打ち消すので、負に飲みこまれる事はない。
そんな事を考えながら、希咲はリュウセイ達の話に耳を傾ける。
「テイマーコアが暴走したという事か」
「ああ。これを見てくれ」
どうやら話は大分進んでいて、すでに説明は終えていたようだ。リュウセイはバッグの中から、拾ったペンダントを出して見せる。
「確かにテイマーコアだ」
「本当です。でも、テイマーの皇心は暴走しないはずですよ」
「その為の、真詞だからね」
それでも皇心は暴走した。真詞の効力が無くなるという話も今まで聞いた事はない。では一体、何故このような事が起きてしまったのだろうか。
本題は大方話し終えたらしく、メイミとユウイは姿勢を崩して一息ついている。
「じゃ、今度はお前の番だな」
「ん? 何が?」
完全に油断していた希咲は、突然話を振られた事に、一瞬何を言われているのか理解できなかった。
「何がって、みんなに説明するっつったろ」
言われ、希咲は数秒考える仕草をし、思い出したようにポンと手を打った。
「思い出したか。とりあえず自己紹介しとけ」
呆れたような溜め息混じりのリュウセイの声に、「は~い!」と元気よく返事をしてからユウイ達を見回す。
「えっと、立花希咲、十三歳、中学二年生。異世界から来た花も恥らう普通の乙女です。よろしく」
希咲の自己紹介を聞いて、リュウセイは頭を抱えたくなった。異世界から来た時点で普通ではない上に、異世界から来たと言う衝撃的な事をサラリと言ってしまった為に、事の重大さがとても伝わり辛い。リュウセイも聞き流してしまいかけた程のあっさり加減だ。
けれどもそのノリは、残念ながら希咲だけではなかった。
希咲の自己紹介を聞き終えて、最初に言葉を発したのはメイミだった。
「わたしはメイミです。異世界から来た人には初めて会ったので感激ですよ。シキは会ったことあるです?」
「自分も初めてだ。自分の名はシキ。異世界では勝手が違うから大変だろう」
「僕は、さっき自己紹介したから判るよね。変わった服を着てたからきっと遠い所から来たんだって思ってたけど、異世界だと物凄く遠いよね。ラフェスタでゆっくりしていくといいよ」
これまたあっさりと受け入れてしまったユウイ達に、リュウセイは今度こそ溜め息をついた。彼らの性格を忘れていた。
ユウイとメイミは天然と言われる部類の人種だ。疑う事を知らないお人好しと、この世には幸せしかないと想っているような純粋なお嬢様。二人揃えば、希咲曰く、癒し空間の天然コンビ。
そしてシキは、否定など一切せずに全てを受け入れる人だ。それ故に先入観がなく、何が起こっても動じないのだから、リュウセイのように慌てる者はリュウセイ以外には誰一人としていなかったのだ。
慌てふためいたり、嘘だと否定したりしてほしいわけではないけれども、ただの世間話のような流れで終わるのもやはり調子が狂うというもの。驚くくらいはしてもいいとリュウセイは思うのだが、それすらも全くない。
逆に驚いたような表情になったのは、希咲の方だった。
「ユウイ、ラフェスタでゆっくりしていいって、あたし、ここにいていいの?」
「当たり前だよ。僕達と希咲はもう友達だし、異世界なんて遠い所に帰るとなると大変でしょ? だからそれまでずっといるといいよ」
ね、と問いかけるように周りにいるメイミ達を見れば、当たり前だとばかりに笑顔で頷いている。嬉しさと驚きの混じった顔で隣にいるリュウセイを見上げてみた。見なくても答えは判っていたけれど、それでもしっかりとその顔を見たいと思ったから顔を上げ、目と目が合う。
その目は優しさの色を帯びていて、けれども彼の力強さもあって。
「好きなだけいろよ。しっかり面倒見てやっからな」
ニッと口元に悪戯っぽい笑みを浮かべてウインクをするリュウセイに何だか頼もしさを感じて、希咲は満面の笑みを浮かべた。
「うん、ありがと!」
物語は進み続けていく。
世界に異物を取り込んだまま。