6.一人ぼっちのお嬢様
「どうしたの、はづき?」
「なんか元気ないよ」
「あ、ごめん……」
夢の中で執事ブラッシュにクビを宣告し、そのまま目覚めてしまってから、はづきはいつものように元気な表情を見せることが出来なくなってしました。学校でもずっと落ち込んだままで、友達からも心配されてしまうほどです。
確かに、今まで何度も何度も自分のやる事なすことにいちいち口を出し、挙句の果てに嫌がっている『歯磨き』を強制してきた執事がいなくなったというのは喜ばしいですし、彼女にとっては非常にすっきりすると言う事になるはずでした。ですが、いざあのやかましい執事を拒絶したという事実を思い返してしまうと、はづきはとても良い気分にはなれなかったのです。一体どうしてなのか、どうして後悔しているのか、そんな悩みを抱えているうち、彼女はまたも元気を無くしてしまいました。
「明日は歯の検査かー」
「歯磨き面倒だよねー……はづきー、無理しないでよ。元気ないんだったら」
「ごめん……」
さらに、明日に迫った「歯の検査」の話題になると、さらにはづきは元気を失ってしまいました。友達が愚痴っている通り、彼女も歯磨きは苦手です。でもそれ以上に、はづきの心にはあの執事ブラッシュが必死に歯磨きを強要していた事が、引っかかっていました。ただ口をゆすいだだけでは取れない歯のカスのように、いくら考えてもその悩みが取れることはありませんでした。
そしてその夜、彼女が眠る前にその悩みが、最悪の形で露になってしまいました。
「あ、お母さんお父さん、宿題終わったから寝るねー」
夢の中で経験してしまった内容で悩んでいる事なんて恥ずかしくていえない、と思っていたはづきは、お父さんやお母さんにはそのことも含めて全てを隠し、何とか元気そうな見た目を維持し続けていました。そして今夜も何とか宿題を終え、おやすみの挨拶をしようとしていた時でした。
「はづき、明日の歯の検査は大丈夫なの?」
何も伝えていなかった事が、仇となった瞬間でした。お母さんは単刀直入に、はづきがずっと悩んでいた事をはっきりと言葉にしてしまったのです。別に大丈夫だ、と何とか取り繕うとしたはづきでしたが、お母さんは少し厳しい言葉で告げました。前に検査したト時も、歯垢が多めで、歯磨きが不十分のようである、と言う内容が出た、と。確かにはづき自身もそのことをお父さんやお母さんから聞きましたが。ちゃんと磨く、と返した言葉はただの空返事だったのです。
「や、やってるよちゃんと……」
「あら、でもはづきの歯ブラシだけいつも綺麗じゃない。本当に磨いてるの?」
全てを見抜かれてしまっていた彼女は、動揺を抑えながらお母さんやお父さんに言い返しました。どうせ自分は虫歯にならないし、そもそも歯磨きなんて苦手だ、と。当然、その言葉を聞いたお母さんの言葉は厳しくなりました。そんなわけの分からない理屈を言って、またこのような診断結果が出たらどうするのか、と。毎回お医者さんの所に行って指摘された場所を治してもらってはいたのですが、いつもその指摘を放置して歯磨きなどを怠り、元の状態に戻ってしまうのです。
「だって苦手なんだもん!口をゆすげば歯のカスなんて!」
「だっても何もないでしょう。また歯医者さんも言うでしょう、ちゃんと歯を磨かないと大変な……」
もうやめたほうが良い、とお父さんが止めようとしましたが、既に遅すぎました。
「うるさぁぁぁぁい!!」
はづきは大声を上げ、そのままドアを乱暴に閉めてリビングを去ってしまったのです。まるで、今までずっと執事ブラッシュにしてきたかのように。そしてすぐさま自分の部屋に入り、ベッドの中に篭ってしまった彼女は、その後お母さんとお父さんがどのようなやり取りをしたかなど全く知りませんでした。ドアの向こうですすり泣く声や慰める声、そして何かを反省するように言う声も、何も彼女には聞こえなかったのです。
「お母さん……お母さんなんて……ううう……」
いつの間にか、はづきは涙を流していました。お母さんや執事の言い分に対しての混乱は勿論ですが、夢の中でも夢の外でも、ずっと『歯磨き』に振り回されている自分が情けなくなったのです。今日一日、結局自分は何をしてきたのだろうか、どうしてたかが歯磨きや歯ブラシにここまで追い詰められなければならなかったのか――そんな事を考えながら、次第に彼女は泣き疲れ、今夜も夢の世界へと入っていきました。勿論、歯ブラシには一切手をつけないまま――。
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「……やっぱり……」
夢の世界でドレスを着ながら、豪邸の中で佇むはづきがそう呟いたのは、今回の夢もまた『お菓子会社のお嬢様』と言う内容だったこともありました。でもそれ以上に、彼女の傍にあの執事――いえ、「元」執事ブラッシュがいないと言う理由の方が大きいものでした。彼の目の前で、はっきりと『クビ』を宣告してしまったのだから、当然かもしれません。
「……はぁ……」
ですが、こんな悩める時に限って、彼女にいつも優しくしてくれる御曹司のペリオンは現れません。これから自分はどうすれば良いのか、どうして『歯磨き』だけでこんな事態になってしまったのか、だれにも相談できないまま、彼女は今夜の夢を一人ぼっちで過ごす事になってしまいました。
気を紛らわせるために豪邸を散歩する事にしたはづきでしたが、それは少々無謀な考えであった事を次第に思い知らされました。夢の中とはいえ、とにかく豪華絢爛、大企業のお嬢様にふさわしい建物として作られたであろう建物は、はづき一人で全ての場所を見る事など無理なほどに巨大だったのです。いつもは庭先でお菓子を食べたり、変な部屋で「元」執事の話を聴いたりと一場面でしかこの場所を見ていなかったはづきは、近くにあった部屋のドアを開け、そこのソファーに疲れた体を横たえてしまいました。
「……ブラッシュ、こんな広い場所をいつも……」
そして、次第に彼女の考えが変わり始めました。
今まではずっと怒りに任せ、自分の嫌な事ばかり言うブラッシュに対して怒ったり反論したり、逆に自分が嫌な事を言ったりとやりたい放題でした。ですが、こんなに広い場所に住んでいた自分の面倒をずっと見続けていたと言う事を考えているうち、そのような屁理屈ばかり述べていた自分が、少しづつ恥ずかしくなっていたのです。
やがてその心は、あの時の「元」執事とお母さんが告げた言葉にも及んでいきました。二人の言うとおり、このまま歯を磨かない生活を続けていれば、いつかは大変な事が起きるかもしれない、と。虫歯だけではなく、もしかしたら別の病気にかかってしまうかもしれない、とはづきは考え始めたのです。それがどんな病気かは分かりませんが、二人とも怒りに任せて暴言を吐く自分とは全く違い、真意になってはづきのことを思っていたからこそ言葉を荒げていたという事実に、はづきは気づき始めていました。これこそ、先生が彼女に教えた『良薬口に苦し』と言う事場の意味である、と言う事にも。
「……やっぱり、私が悪いのかな……」
誰もいない巨大な豪邸の中で、彼女は一人呟きました。
ですが、そんな状況にあってもはづきは、『歯ブラシ』の事がどうしても好きにはなれませんでした。どうしてそこまで頑なに嫌がるのか、自分でも分からないまま。そして、二人の言葉にどう対応すべきか、それすらも分からなかったのです。
何も出来ないまま、彼女の今夜の夢は終わってしまいました。
「……」
夢の中で新たに生まれてしまった悩みが解消されないまま現実の世界に戻ってしまったはづきは、結局お母さんやお父さんに謝ることは出来ませんでした。時間があまり無かった事もありますが、それ以上にどう謝れば良いのか分からなかったのです。歯ブラシに苦手意識を持ったまま目覚めてしまい、歯の検査があるというのに口をゆすいだままでかけてしまった状況では、いくら謝っても現状を克服するのは難しいものだったのかもしれません。
正直、学校に行きたくない、と言う思いはありましたが、それでもはづきは憂鬱な気持ちを抑えながら出かけました。
ですが、それが彼女にとっての『良薬』になるとは、この時の彼女は全く考えていませんでした……。