1.執事ブラッシュ対御曹司ペリオン
昔々、ある町に一人の女の子が住んでいました。
「……よし、今日の宿題終わり、っと!」
彼女の名は「はづき」、とある学校に通う、ごく普通の女の子です。
勉強やお手伝いよりもスポーツやお菓子の方が大好き、面倒くさい事が苦手などそれなりに短所はありますが、ある一点を除けば彼女は真面目な女の子。今日もお風呂に入った後先生から出された宿題をしっかりと終わらせていました。そしてベッドへ向かう前、彼女はお父さんやお母さんにお休みの挨拶をするためリビングへと向かいました。のんびりテレビを見ながら寛ぐ二人に笑顔で挨拶をして、今日も楽しい夢を見よう、と動き出した時でした。
「ねえはづき、ちゃんと歯は磨いた?」
その言葉を聞いた途端、はづきの顔から笑みが消えました。そして面倒くささを隠さないまま、ちゃんとしっかりきちんと磨いた、と念押しするかのように言い、乱暴にドアを閉めながらリビングを後にしてしまいました。
「もう、お母さんったら!」
ベッドの中で、はづきは苛立ちを隠しきれませんでした。ここ最近あまり注意をしなくなったと思ったのに余計な心配をするお母さんに、彼女は怒っていたのです。
どうして歯磨きぐらいで怒るのか、とお母さんやお父さんは考えているだろう、と彼女は思いました。そして、歯を磨くという行為がどれだけ時間を無駄にするのか、そんな事をしなくてもどれだけ自分の歯が綺麗なのか、いつか思いっきり説明して、二人を参らせてやりたい、と考えました。
こんな事まで考えるほどに、はづきは歯磨きが大の苦手でした。勿論あの時不機嫌そうに言った言葉は全部嘘、今日も彼女は適当に歯をブラシで擦り、簡単にうがいを済ませただけで歯のケアを終わらせてしまったのです。今まで一度も虫歯になった事が無く、何の病気も無いはずの自分の歯に無駄な時間を費やしたくないと、いうのがはづきの信念でした。それに彼女は、ブラシが歯に当たるあの感覚がどうしても好きになれなかったのです。
とはいえ、ずっとイライラしてばかりでは眠る事が出来ません。
「ま、いっか。おやすみなさーい」
そう言いながら、はづきはベッドの中で静かに眠りに就き始めました。目を瞑る彼女の顔は、何故か嬉しそうなものでした。お母さんやお父さんからの注意と言うストレスを忘れる事が出来るだけではありません。もう一つ、彼女には最近出来た楽しみがあるのです。それは――。
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『……づき、はづき?』
「……はっ!」
――目の前にいる一人のイケメンから始まる、はづきの「夢の世界」でした。今日も彼女は、黒い髪を柔らかく整え黒地のスーツを爽やかに着こなすイケメンに起こされながら、幸せな時間を堪能し始めたのです。
ここ最近、何故か彼女はずっと同じ夢を見続けていました。ベッドの中で眠りに就き、次に目覚めた時には彼女の服はパジャマから可愛らしくも美しいドレスに代わり、居心地は抜群ですがちょっと狭い彼女の家は、周りにたくさんの花が咲き誇る巨大な豪邸へと変わっていました。それはまさに、はづきが大好きな少女漫画で見る、『お嬢様』そのものだったのです。
そして、少女漫画の主人公と同じように、彼女の傍には思いを寄せてくれる1人のイケメンがついていました。
『素敵な寝顔、たっぷり味あわせてもらったよ、はづき♪』
「え、えへへ……ありがとう、ペリオン♪」
夢の世界で彼女の傍についているのは、『ペリオン』と言う名の大富豪の御曹司。多種多様なお菓子を扱う大企業のお嬢様――夢の中でそんな立場であるはづきの許婚で、彼女のことをとても大事に思う優しいイケメン男子でした。当然最初にこの夢を見た時はいきなり優しく接する彼に驚いてしまいましたが、次第にここが夢の中であると認識し、はづき自身がどういう立場にいるか理解していくうち、いつも優しく朗らかな御曹司ペリオンの事が大好きになっていたのです。
『今日も君の会社が新しいお菓子を開発したようだね』
「うん、皆に喜んでくれたらいいなって思うんだ」
きっと大丈夫だよ、と優しく頭を撫でてくれるペリオンに、はづきの顔は真っ赤になってしまいました。例え夢の中でも、こうやって自分のことを想ってくれるイケメンがいるだけで、彼女はとても幸せだったのです。
そして、このまま一緒に広い庭を散歩し、たくさんの花々を一緒に楽しもうと動き出そうとした、その時でした。彼女たちの背後に、突然人影が現れたのです。その方向を向いた途端、先程まで笑顔が晴れやかだったはづきの顔が、曇り始めてしまいました。
『おや、また貴方ですか?』
『……やあ、ブラッシュ』
「うわ」
露骨に嫌な顔をするはづきとは異なり、ペリオンは笑顔を保ったままでしたが、明らかにその声は強張り、傍に現れたもう一人のイケメンを嫌がっていました。
灰色がかった長い髪に生真面目そうな眼鏡、きっちりとした燕尾服を身に纏う彼の名前は『ブラッシュ』。この夢の世界で、はづきの面倒を見る執事の役割を果たす男でした。
「なんで良いところなのに邪魔しに来たの?」
『ただ現れただけなのに、その言い草は無いでしょう、はづきお嬢様』
「……そ、それはそうだけど……」
確かにブラッシュのいう事はもっともかもしれません。ですが、いくら眼鏡が似合うイケメン執事だとしても、はづきは彼を好きになれませんでした。この執事は何か言うたびにいつも嫌みったらしく余計な事を付け足し、わざわざ彼女の機嫌を損ねさせるような内容ばかりを口から放つのです。しかもその多くは正論ばかりで、反論できないはづきはいつも言いくるめられてばかりでした。
『全く、君がいるとはづきの笑顔が消えちゃうじゃないか』
『甘い言葉ばかりでお菓子会社はやっていけませんよ』
さらに困った事に、ブラッシュとペリオンは、互いの事が大嫌いでした。ブラッシュが相手を甘い言葉ばかりでお嬢様を惑わす不届き者となじれば、ペリオンも執事の事を糞真面目で屁理屈ばかり並べる頭でっかちと悪口を返す――彼らが顔を合わせるたびに、いつもそんな口論ばかり起きてしまうのです。
せっかくの楽しい夢がこうやって乱される事にいつもはづきはうんざりしていましたが、今回の口論は今までよりもかなり激しいものでした。いい加減に彼女の元から離れたらどうだ、それは貴方の方だ、と互いに一歩も引かず、彼女を目の前に大声で言い争いを始めてしまったのです。
『君がいるからはづきはいつも迷惑しているんだよ、分かる?』
『貴方こそ、いい加減甘ったらしい仮面を脱げば良いじゃないですか』
売り言葉に買い言葉ということわざを地でいくかのように、二人の言い争いは延々と続きました。いつの間にかはづきは完全に蚊帳の外、二人は互いに怒り顔を見せ、執事や御曹司とは思えない暴言まで吐き出し始めたのです。
そして、聞くに堪えない論争にうんざりしたはづきは大声で叫び――。
「うるさあああああああい!!!!」
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「……はっ……!」
――夢の世界から、現実へと戻ってきてしまいました。気づけば外はすっかり朝模様、目覚まし時計より早く目覚める事が出来た彼女ですが、その気分は晴れやかではありませんでした。せっかくイケメン御曹司と仲良くラブラブでいられる雰囲気だったのに、あの余計な事ばかり言うドS執事のせいで何もかもが台無しになってしまったからです。
「……全くもう……」
不思議なことに、ここ最近の夢は目覚めて時間が経ってもはづきの記憶にしっかりと刻まれていました。御曹司ペリオンとの楽しい時間も、執事ブラッシュに乱入された嫌な地億も、全て覚えてしまうのです。ですが、彼女はそのことを前向きに考えていました。嫌な事ばかり言うブラッシュよりも、優しく爽やかなペリオンを楽しみにしていれば、この状況もすぐに慣れるだろう、と気持ちを切り替えていたのです。
「……よし!」
そして、元気を取り戻したはづきはベッドから起き、朝ご飯や支度を済ませ、今日も学校へと向かいました――。
「いってきまーす!!」
――今回も歯ブラシに手をつけず、口をゆすいだだけで……。