夏野菜と鶏肉の甘酢炒め
「ふふふふん♪」
しょりーしょりー。
「ふふふふん♪」
カタタン、タタン。
「ふーふふん、ふふん♪」
じゃくっ。じゃくっ。
楽しげな鼻歌に混じって食材が切られる音が軽やかに響く。
乱切りの鶏肉に人参。
皮を剥いて半月にスライスされた蓮根。
四つ割にして更に食べ易い大きさにカットしたお茄子。
六つ割にしたピーマンとパプリカ、それにししとうが何本か。
キッチンカウンターには、そんな下拵え中の色とりどりの食材が彩をなし、まるで咲き誇る花畑を思わせた。
そんな折、心地良く歌われていた鼻歌がぴたりと止まる。
見ればその少女は、顔を真っ赤にし、その細い腕をぷるぷると震わせながら、目にも鮮やかな黄色と緑が映える南瓜と格闘中だった。
「あい、かわ、らず!何でこんな硬いのよ!このカボチャってやつは!」
顔を顰めて、小さな身体を傾けて、ナイフに全体重をかけている少女はそう言って毒付く。
「翡翠。気、付けて?南瓜切ると一緒に指飛ばすとか、洒落ならないよ?」
「判ってるけど藍姐さん、このカボチャってばまるで鈍器よ。人を殴ったら殺せそうな位に」
ナイフの食い込んだ四分の一の南瓜を、がどんがどんとまな板に打ち据える翡翠。
「と言うか…南瓜切るはナイフじゃなく包丁使うか、レンジでチンして柔くして切れば良い、前に言わなかった?」
「…………忘れ、てた……」
長い沈黙の後、翡翠はぽそりと呟いた。
「危ないの南瓜切るは任せて。ナイフ抜いておいて」
そう言ったにしても、藍にしたって硬い南瓜を切るのは一手間だ。
普段重い中華包丁を使い慣れている藍にとっても、南瓜は強敵なのだ。
ぐりぐりと食い込んだナイフをカボチャから外すのに奮闘している翡翠。
程なくしてどがっしゃん、と言うテーブルの重い音と共に「あいたっ!」と悲鳴が上がる。
ナイフが抜けたのは良いが、勢い余った翡翠が背中からテーブルにぶつかったのだ。
「こーしーイーターいー。でもナイフ抜ーけーたー」
慌てて駆け寄る藍ににへら、と笑って「ブイっ」とサイン。
翡翠的には大丈夫と言う意思表示のつもりだったが、その指先には切り傷が出来ていて、ぱたたっと落ちた血が、その眼と同じ薄緑色のエプロンの裾に近いところに赤い華を描く。
背中と腰を打った痛みと衝撃の方が強くて、指の傷には気付かなかった様だ。
藍は慌てて翡翠の手をそっと取ると、中指と人差し指を諸共に自らの口へと導いた。
熱く濡れた藍の口腔に指が包まれた瞬間、翡翠はくすぐったさと同時にぞくり、と背筋に淫靡な快感が走るのを感じた気がした。
口に銜えられた二本の指の間を、ぬめぬめと自在に這い回る軟体動物を思わせる舌の動きを感じる度に。
指の背を、腹を甘く噛み、傷口周りを舌が執拗に往復する度に。
時折音を立てて啜られる唾液の音が響き渡り、同時に傷口が痺れる程吸われる度に。
翡翠はそこから背筋を通って頬を上気させ、あるいは頭の芯をぼうっと甘く痺れさせ、そして腰に纏わり付く様な鼓動を生む快感を、確かに感じていた。
潤んだ瞳に映る藍の碧い眼も潤んでいる気がする。
悪戯っぽく笑っている気がする。
まるで今の翡翠の様に満足する様に。
まるで今の翡翠の様を待ち望んでいたかの様に。
ぼうっとした頭でそんなことを考えていた。
「ん……血止まったみたい。取り敢えず石榴大姐のトコで薬塗って貰う良い。後の下拵えとか調理とかは藍姐姐に任せて?」
そんな藍の一言で、はっと我に返る。
惚けていたのを見られていたのだろう、藍はどことなくぎこちない苦笑いをしている。
トクトクと心臓が小さく、それでも確かに早鐘を打っているのが翡翠自身にも判った。
調理場を辞し、人影が無い廊下の端っこで傷口を見る。
血はとうに止まっていたが、傷口はぱっくりと開いている。
先刻まで藍の口腔内に在ったその指を、翡翠はゆっくりと口許に寄せて、そして。
「ふふんふふん♪ふふんふふん♪ふーふふん、ふふん♪」
中華鍋になみなみと注がれた熱い油の中で、翡翠が切った食材が……カボチャは切ってないけど……じゃわじゃわと歌いながらお玉でかき混ぜられ泳がされ、適度に火が通った端からザーレンで引き上げられて行く。
食材の色は、油通しすることでなお一層鮮やかさを増し、食欲を煽り立てる。
この重く熱い鍋と強い火を自在に操り、美味しい料理を作り上げる藍の腕前は、今はただ眺めている翡翠にとって、魔法使いの魔法も斯くやと言った風情だ。
「ふんふふふ♪ふんふふふ♪ふんふふんふふん♪」
油通しが終わった所で一旦油を空け、今度は包丁の腹で潰して刻んだ大蒜を香りが出るまで炒める。
「ふんふふふふふふふ♪ふんふふふふん♪」
お酒と鶏湯、醤油にお砂糖にお酢。小口に刻んだ鷹の爪をパラリと散らす。
水溶き片栗粉でとろみを付けたら、下火を通した食材に手早く甘酸っぱいたれを絡めて行く。
「ふふ、ふふ♪ふふ、ふふ♪ふふ、ふふ♪ふふ、ふふん♪」
カコカコカコ、と軽やかに音を立ててながら大皿によそえば、夏野菜と鶏肉の甘酢炒めの完成だ。
鍋の縁で熱せられたたれがジュっと音を立て、醤油と砂糖の焦げた香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
その香りがまた、翡翠の胃の腑を掴んで握って潰して、きゅーころころと可愛い悲鳴を上げさせた。
「完成よー。翡翠。石榴大姐と主様呼んで来てー」
ハーイと元気の良い返事だけ残して、翡翠がの足音がパタパタと遠ざかる。
途中で思い出した様に足音が消えたのは、廊下を走らない様に注意されたことを思い出したのだろう。
藍は調理に使った器具を片付ける作業に入る前に、鍋に残った甘酢だれをそのたおやかな指でつい、と拭って味を確かめる。
何時も通り。悪くない。
糖醋の影で鷹の爪が、ピリっと味を引き締める。
でも。
嗚呼。
充分蕩けさせる程に下拵えをしたら、その時翡翠はどんなにか私のシタを楽しませてくれるのかしら?
胸の中のこの想いが糖醋の甘酸っぱさなら、ピリっと味を引き締める鷹の爪は、私の理性?それとも彼女の拒絶?
そんなことを考えながら、藍は既に味さえ残っていない指先をそっと口に寄せる。
そっと振り返って閉じられたままの扉を眺めながら、藍も小さな溜息ひとつ、胸中で燃えて焦がれる想いが渦巻く扉を閉めて、そのまま心の深淵に沈める。
大丈夫。
これからも翡翠の良い姐姐で居られる。そう思い込むことにする。
でも。
だけど。
その指先は悩ましやかに濡れそぼっていた。
=了=