恋の呪い
私の家にはそれなりに大きな池と庭があり、それに伴い縁側も割と長いです。
私は気付けばこのとてつもなく大きい屋敷にいました。
けれども二千と数百年経った今でもこの家にはまだ慣れていなかったのです。
理由というほどしっかりしたものは無いのですが、強いていうなら『ただ一人という事実が強く感じてしまうから』なような気がします。
家という物自体あまり必要では無かったので、今思えばなぜ何故ここにずっと居たのかすら分かりませんし、覚えてもいません。
私は一人が強く感じてしまう家の、特に縁側があまり好まなかったので常に雨戸を締めておりました。
そのせいで空き巣や、時には建壊されそうになったこともありました。
それでも月に一度、私がその縁側にわざわざ出向いて戸を開ける日があるのです。
しとしとと天から雫が池に落ちていく。
全くと言っていいほど手入れをしていないので、恐らくこの池は天からの涙で出来ているのだろうと、柄にでもないことが頭の中をかけ巡ってしまった。
それもこれも今夜のせいだろう。
「燵?そこにいたのですか」
「!?く、黒百合様!?……も、申し訳ありません!!私を探しておられたのですか……?」
黒百合様には気を使わせたくありませんからと言い、少し腰をずらす。
黒百合様が隣へお座りになるかと思いよけたのですが、気づけば私はその麗しきご主人様から目が離せず暫く見つめていました。
それも恐らく今夜のせい……いえ、それは黒百合様のお美しい身なりのせい。私の心を掴んで離してくれないせいでしょう。
「そんな特に用は無かったのですが……珍しいですね。燵が縁側に居るなんて」
「………………今夜は満月ですから。私は毎月こうして月見酒をするのが楽しみで………でも今日はあいにくの雨ですので月は拝めませんね。あ、禁酒を命じられるのでしたら勿論従いますのでなんなりと」
私がそう言うと、しませんよと少し怒ったような口調で黒百合様がおっしゃるものですから本当にこのお人に仕えられて私は幸せだなあと思わず頬が緩まってしまいました。
心優しい貴女に私は惹かれているのだと、何よりも無意識にそれを証明してしまうものですから私は日々自らと人知れず戦っているのです。
家臣と主人。
ただそれだけの関係を護る為に。
酒はもとより強い方なのですが、それ以前にあまり呑もうとしません。
黒百合様の家臣になる前の、人を喰べていた頃は浴びるように呑んでは荒れてを繰り返していました。
今ではもうそれが恥ずかしく心の奥底に封印しているが故に、余計自分で制御しておかないとなりません。
何しろ私の酒癖は酷く、さらには記憶がなくなってしまう厄介なものなのでして、呑んで知らぬ間に黒百合様をだなんてそんなことをしたら私は私を許せず己を殺してしまうでしょう。
ですがよっぽどの事がない限りそんなことは起きないと思います。
何しろそうなるにはまず樽で三つ程を飲まなくてはならないので。
お酒ねぇ、と黒百合様は私の持つとっくりを興味ありげにまじまじと見てくるので私はもしかしたらと思いました。
「黒百合様も一口如何でしょうか。これ
は口当たりも良く女性や初めての方でも美味しく頂けますよ。」
黒百合様を私の隣に座らせとっくりを手渡しとくとくと中身を注いでいく。
遠慮させぬよう流れる様にそれらをしたので今思うと少し強引、というか私は多少酔っていたようです。
「………実は私、お酒は初めてなんです」
「………では、お止めになりますか?」
私はただ主君のお体を心配したのですが、主君は恐らくこれを挑発だと勘違いなされたのでしょう。
「いいえ、呑みます」と意気込んでゆっくりと器に唇を添えると一口、二口と喉が波打ちました。
一気に喉へ流し込んだと思えば途端に大きく深呼吸をしました。
それを見て、そんなに急いで飲むものではないですよと言ったのは、私は急に心配になったのです。
このお人は本当に初めてで、飲み方を知らな過ぎた。
けほんけほんと咳をしていたので私は思わず主君の肩を支え自分の気遣いのなさを憎みました。
「申し訳ありません……やはり勧めるべきではありませんでした……私をお許しください」
「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと緊張してしまったみたいです………それに燵は私がお酒を飲んでみたいと思ったのを察してくれたので寧ろ感謝してますから、そんなに自分を責めないで下さいね」
心無しが黒百合様の頬が赤く色づいている。
案の定酒のまわりが早かったようです。
肩の上下運動が速くなっているのも分かります。
このままではいけないと、私は止む負えず黒百合様を寝床へ運ぼうと思いました。
立ち上がり、黒百合様の身体を支えたその時、一瞬、何が起こったのか私は理解ができませんでした。
「あ」と小さく声を上げるのが精一杯で、よろけた黒百合様に押し倒された事に気付くのはその数秒後でした。
「あ、あの、黒百合……様?大丈夫でしょうか……お怪我は……」
一生懸命理性を保ち、いつも通り家臣として振舞うのが辛くて仕方がありません。
私の胸に倒れ込んだ黒百合様と、その触れ合っている私の身体の全面が徐々に熱を帯びていくのが良く分かります。
このまま主君の背中に手を回し抱き寄せたい、そう私の頭は叫んでおりました。
「…………燵」
そんな消え入りそうな湿った声が、唇の隙間から聞こえました。
外からの雨音はまるで私を駆り立てるように忙しなくなり続ける。
気づけばとんとんとんとん急ぎ足の音は、私の心音と共鳴していた。
黒百合様の重みが私の身体に沈んで、まるで一つになるように感じられる。
足の指が一つ一つ絡み合い、もどかしくてもどかしくて。
すらりと白く滑らかなおみ足が着物の間から私の脚へと擦り寄って暖めてくれます。
貴女の腰が、貴女の胸が、貴女の首筋が。
「………………ねぇ、燵」
嗚呼、そんなふうに名前を呼ばないで下さいませ。
そんな潤んだ眼で私を見ないで下さいませ。
「…………私の心を、体を………奪ってください…」
私はとうとう『私』を抑えられなくなりました。
その刹那、突然私の見えている世が眩しくなったのです。
思わず目を瞑り顔をそむけました。
暫くして、目が慣れたのと異常なまでの静けさにとりあえず何だったのかと再び顔をあげました。
天に一つ、光が出ていたのです。
先程まで雲に覆われて多くの涙を流していた筈なのに、彼は気分屋なのでしょうか。
それとも、私の為を思ってくれたのでしょうか。
どちらにしろ今はただあの光に感謝しなければいけません。
「…………いけません黒百合様………お体を冷やしてしまいますので、私が寝床へとお運びいたしますが……よろしいでしょうか」
私の顔はまだ熱を帯びているのだろう。
顔から垂れた汗を手の甲で受けると、やんわりと暖かかった。
体を起こし、黒百合様を抱き抱える。
その時に分かったのですが、黒百合様はすでに夢の中へ落ちていたのです。
すると最後のあの言葉は恐らく「あの人」に贈ったものなのだろうと…………何故か私の心の奥が苦しくなったのです。
この痛みは何なのだろう。
黒百合様に出会ってから度々襲いかかってくるこの息苦しさは。
黒百合様を寝室へと運ぶと次第に痛みが緩く和らいできた。
すやすやと綺麗な寝息を立てる主を見ていると、その痛みはだんだんと心地のいいものに変わっていったのです。
ちくちくする痛みも、この方にかかれば何でも治ってしまうのか。
私はそんな主に、惹かれているのです。
そっと主の頬に手の甲を添えると、ほんのりと暖かい。
私の汗と同じだった。
「……聞いてくれ、私と同じだった」
縁側に戻り、古くからの旧友にすぐ話をした。
いつもは何も言わないのだが、今日だけは口を聞こうと思ったのです。
興奮気味に私は話すものですから、きっと驚いたことでしょう。
物の怪である私が黒百合様と同じであったこと、胸の痛みは黒百合様で治ること、黒百合様と幸せな日々を過ごしていること、私は、生きていて初めて良かったと思ったことを全て話しました。
「明日、黒百合様が頭を痛めないように枕元に薬と水を置いてきた。……あぁ、お前のおかげだ。助かった」
光り輝く友人に、私が過ちを犯すところを助けてもらったことも。
今晩はお前のせいです少し飲みすぎるかもしれない。
でも安心してくれ、間違っても主には手をかけない。
お前の恩を忘れない内は。