A Room
ずいぶんと寝覚めが悪いとは思ったが、もしやまだ悪夢のまっただ中なのだろうか。
そう錯覚するほどひどい状況だった。体調も悪い。頭がズキズキとする。少しばかり喉も乾いているだろうか。
昨日は自宅に帰り、少しばかり酒を嗜んだのちすぐ横になったはずだ。だが、目覚めたここは自宅とは全く異なる見知らぬ全面白の部屋。家具もなにもなく、せいぜい目につくのは扉と、その脇にあるスイッチのみ。
スイッチの横には「照明」と丁寧にもはっきり漢字で書かれたシールが貼られており、操作を繰り返してみた限りではまさしく説明通りのようだった。
扉はどうやら施錠されており、かなり力を入れてもびくともしなかった。こちら側からは鍵穴のみだ。つまり奇妙なことだがこれは外側からしか施錠できない仕組みになっているらしい。
これだけでも十分悪夢だが、その上目を逸らしたくなるような事実がある。
目覚めた自分の傍らには全く動かない金髪の女性がいた。服装は入院患者が着させられるようなガウン。今気付いたが、自分も同じような服を着ている。
全く動かない理由については明らかだ。
腹部に突き刺さったサバイバルナイフと、それにともなう大量出血――まだ暖かかったが、素人の私でも死んでいるのは間違いないと言える状況だ。自分に心当たりはないが、これまた見覚えのない着ているガウンには彼女の血とおぼしき赤い染みがかなり付いていたが。
なぜこんなことになっているのだろうか。
扉から出ることはできない。仏様に手をあわせてサバイバルナイフを拝借させてもらい、こじ開けようと試みたものの成果は芳しくなかった。加えて言えば、他に道具として使えるようなものは見当たらない。
となると、私に出来る数少ない脱出につながる行動、兼暇つぶしはなぜ現行の状況に至ったかを考えることだろう(脱出のためが2で、暇つぶしのためが8といった割合かもしれない)。
推測の材料は少ない。今数え上げたものでほぼ全て出揃ったと言えるだろう。
まず、推測にあたりいくつかの前提を設定する。
ひとつは、自分の正気や記憶については、十分な合理的理由がない限りとりあえず疑わないということだ。
正直なところ、起きたらこんな状況に置かれていたという時点で自分の正気については非常に疑わしく思うが、さりとてそれまで考慮して推測を行うとしあら、それこそ狂ってしまうだろう。
記憶や現状認識についても同様だ。酒、薬物、精神的ショック……そうした理由がない限りは疑いをもたずに考えるものとする。
まず、直近の記憶についてはっきりさせておこう。
仕事から帰り、ウイスキーの水割りをまあ嗜む程度に飲み――目覚めたらこの有り様だ。この金髪の女性にも凶器のサバイバルナイフにも見覚えはない。
頭痛を始めとした体調不良は二日酔いの症状に似ているが、あまり酒に弱いというわけではない。今までの経験上、あれぐらいのアルコールでこれだけ悪酔いの症状を呈するというのは少し考えづらい。となると、アルコール以外の何かの影響を受けている見込みが高い。あるいは、ウイスキーになにか盛られていたか。
次に気になった点――部屋の構造だ。外側からしか施錠できない、というのは一般的な構造とは言いがたい。少なくとも扉に関しては明らかに私を――あるいは我々を――監禁するために設置されているとみていいだろう。それも、前々から準備されていたとみるのが自然だろう。
最後に意識があった時点からどれだけの時間が経過したかはわからないが、喉の渇きや空腹を鑑みるにまあ長くても丸一日だろうか。無論、意識のない状態で点滴などによって補給された可能性もないではないが、体の凝りなどを見るに数日単位はあるまい。
加えて、ひとつ気になるのは照明の横のシールだ。日本語で『照明』と書かれている――この部屋にいる日本人、つまり自分向けに用意されたものだろうか。あるいは、この女性に向けてのものでもあるのか。もっとも明らかに外国人(偏見を承知でいえば、東欧系に見えなくもない)である彼女が日本語を解すかについては、確かめるすべはもはやない。
もちろん、この部屋を日常的に運用している人間が日本語を使っている可能性もある。
さて、ほとんど最後ともいえるこの部屋の物証。サバイバルナイフだ。
ナイフについてはほぼ無知ではあるが、かなりゴテゴテとした造形だ。刃渡りもかなり長い。銃刀法などはっきりは覚えてはいないが、違反してもおかしくない長さだ。
そんな代物であるから、近所のホームセンターでぽんと買えるような代物ではない。
つまり、泥酔した自分が近所で買った刃物で彼女を襲い、謎の部屋にあわてて死体とともに逃げこんだ、というようなケースはありえない。私にとっては救いかもしれないが、彼女にとってはなんの意味もない。
最後は、もはや物証と呼ばれるようになってしまった彼女。
彼女が一番の謎だ。持ち物をあさらせて貰ったが、サバイバルナイフのほかにはガウンのみだった。財布の一つもない。ナイフを持ってお出かけ途中、というわけではないようだ。
体の状況は医者でもないからはっきりはわからないが、腹部を刺されての失血死なのはまず間違いないだろう。ただし、それにしては部屋に大量に血が流れているわけではない。ガウンについてもどうやら一度替えられたようで、私よりも付着している血は少ないぐらいだ。
以上、あまりにも乏しい原材料ではあったが、推測に推測を重ねる形でそれなりに使える部品に加工することはできたようだ。
まず、自分が陥った状況についてだ。なんらかの組織によって拉致監禁されたとみて間違いないだろう。予め自分の飲むであろうウイスキーになんらかの薬物を仕掛けておき、昏睡したのを確認してから部屋に押し入って拉致した――体の気だるさをみるに、まあそんなとこだろうか。無論、意識のない間に加えて他の薬物が投与された可能性も高い。
ウイスキーに仕込んでいたことから、はっきりと私を狙ったものと見て間違いない。ただ、ウイスキーに仕込んだことから若干ながら希望的観測が持てる。拉致された先、つまりここは日本国内であるか、たとえ国外であってもそれほど離れていない土地であることが伺える。
一般的に水などで割って飲むのがウイスキーである。味や匂いなどで気付かれない量という縛りを鑑みれば、希釈によって摂取量はあまり大きくならない。
ある程度時間的余裕を持って犯罪を行おうと考えた場合、距離を大きく稼ぐのはなかなか難しいのではないか。
よってここは日本、あるいはその近傍。
次に、彼女についてだ。
非常に残念なことだが、彼女を殺したのはどうやら私のようだ。
私と同様に拉致監禁された彼女は、おそらく薬物によって錯乱した私によって刺されて死んだ。返り血を見るにそれはどうやら疑いはないようだ。
ただし、その状況についてはいくつか説明が必要だろう。
彼女が刺された場所はこの部屋ではない。血の量からみて明らかだろう。加えて、錯乱した私による殺害は私達を拉致監禁した人間が仕組んだものだろう。
この部屋が拉致監禁を行うにあたって前もって入念に準備されているのは疑いない。つまり計画的、それも照明について説明するテープまでわざわざ貼ってあることから日常的とも推測できる。
サバイバルナイフについてもそのために用意されたものだろう。明らかに近場で慌てて買ってきたようなものではなく、人を殺すのに最適なものを選んで用意した、というわけだ。
さて、なぜそんな回りくどいことをして彼女は殺されたのだろうか?
その理由を私はスナッフビデオ――殺人の一部始終を撮影したビデオの撮影と考えた。
それも、私が一方的に殺すわけではない。おそらく薬物によって錯乱した二人が殺しあう――そんな悪趣味なものだ。
理由は双方に着せられた同じようなガウン。ビデオから身元や所在を割り出されないために匿名性の高いガウンを着せられたとみるのがひとつの理由だが、もうひとつが返り血だ。
彼女のガウンはどうやら替えられているが、私のガウンはそのまま。理由は簡単だ。腹部を刺された際の大量に出血で浸されたガウンは、おそらく私達をこの部屋に放り込むまでの間通路を血まみれにするだろう。
そうならないよう彼女のガウンは替えさせられた――言い換えれば、替えさせるのが容易なガウンをそのために着させられていた。
同じように私もガウンを着させられているのは、同様の理由で着替えさせる必要が生じる可能性があったからだろう。2分の1の確率で。
さて、なぜそんな代物に私が選ばれたか。
おそらくこの部屋は私と彼女、生き残った方と生き残れなかった死体が放り込まれるような運用になっているらしい。
つまり死んだ私と、生きた彼女というケースもありえたわけだ。
勝手な推測をさせてもらうが、東欧系にもみえる彼女は借金やらなにやらを理由に日本にまで運ばれてきてそのカタにこんなビデオに参加させられた、というものだ。
やや突飛な推測だが、まあこれについて大きく外していたとしても殺人ビデオに巻き込まれるような層とはあまり社会的地位が高くはないことは伺える。よって、日本語を習得しているとは考えづらい。日本在住の可能性もないわけでないものの、日本は東欧系の移民が定着している国ではなく、日本に在住している東欧人の多くはある程度社会的地位を持つ人間だろう。よってまあ、ここでは除外する。
ここで、部屋の入口のテープが生きる。あのテープは中の人間に向けてのものではない――彼女が生き残った場合、なんの意味もなさないからだ。
つまり、日頃この部屋の運用にあたっている人間、あるいは組織は日本語を中心に利用しているということだろう。
あとは話が早い。私は日本人であるから、日本人から恨みをひとつふたつ買っていてもおかしくない。まあ私に恨みを抱いて育った人間が小金か裏社会に通じる権力を通じて、こういう境遇に追い込むように仕組んだというところだろう。
以上が推測に推測を重ねた砂上の楼閣だ。
確かめるすべはないものの、まあ大きい部分に関しては外していないだろうという自信がある。
さて、ここで問題がある。
私の推測によると――ここの人間は私を逃がすほどの間抜けではないプロの集団で、私を生きて帰すとも思えないということだ。
残念残念、至極残念。
なんかのりりんっぽくなった。