あかりの冒険
小学五年生、灰原朱里は、すごくかわいいというわけではありません。とくべつ運動ができるわけでもありませんし、勉強がとくいなわけでもありません。音楽がとくいでもなく、絵がうまいわけでもなく、クラスの人気者でもなく、めだつようそなんて一つもない、メガネをかけて、長いくろかみの、ついたあだ名がジミ子なわけです。
冬のかんじょーせんぞいを歩きながら、あかりは帰りのおそいお母さんのことをぼんやり思います。早く帰ってきてくれたらいいなって、おもうのじゃなくねがうんだったら、もしかしてかなうのかなと考えるのですが、やっぱり、それはやめました。かなわないお願いをいっしょーけんめいすればするほど、あとで悲しいおもいをするからです。
家のかぎをまわしてドアを開けました。「ただいま」というのは、ただいま帰りました、なのか、それとも、ただいま家にだれもいないことをかくにんしました、なのか、どちらかといえばこーしゃのような気がしつつ、マンションの暗いげんかんさきから室内へ、靴を脱いで「ただいま」と声を掛けます。
すると、お帰り、と言って返す声があります。あかりは驚きました。そして怖くなりました。だって、人がいるなら、電気がついているはずです。いいえ、それ以上に、聞き覚えのない、くぐもった、男の人とも、女の人とも判断のつかない、不思議な声だからです。
あかりはそっと、声のした部屋へ近づきます。
ドアをちょっとだけ開けると、あかりはどきどきしながら部屋の中をのぞいて見ました。消え入りそうな西日の差し込む中、お母さんがお化粧に使う、大きな鏡がそこにはあります。
鏡はいつもと変わりなく、細めに開けたドアの向こうにあかりは自分の姿を見ました。けれど、何かが少し違うような気もします。
そーっと部屋に入って、あかりは鏡の前に立ちました。
それから、舌を出してみたり、首を振ってみたり、右手を上げてみたりしたのですが、あかりはそこでまた怖くなりました。
だって、あかりが右手を上げると、鏡の中のあかりも「右手」を上げるのですから。
それはおかしなことです。あかりが右手を上げたら、鏡の中のあかりは「左手」を上げなければならないからです。それが世界のルールです。こちらの世界と鏡に映る世界を支配する、曲げようのない、絶対のルールなのです。
境界線というものがあって、あっちとこっちを隔てているものは、ルールです。飛び越えちゃいけないし、そもそも飛び越えられない力が働くからこそ、安心して、暮らせるのです。
「ルール違反だって、思ったでしょう。」鏡の中のあかりが言いました。
「あなた、誰?」
「朱里よ。見れば分かるでしょ。」
「あなたは、私?」
「ええ、そうよ。」
鏡の中の私。鏡の世界、かがみと彼我見。スイッチをつけると暗くなる部屋。死んでしまったお父さんは生きていて、忙しいお母さんは忙しくない。いじめっ子は優しいし、学校の先生は不真面目で、詐欺師のおじさん達はとても誠実、すべてが逆なの。いっそ、鏡の中で暮らせばいいのよ。
朱里はそう言ってあかりを誘います。
でも、とあかりは思いました。
すごく可愛くて、運動ができて、勉強もできて、音楽が得意で、絵が上手く、クラスの人気者で、目立たない要素を探すのがたいへんな、眼鏡をかけてない、短い黒髪の、正反対の朱里がすでにいるのです。
「あかりちゃん。こっちにおいでよ。」
朱里がにこにこと笑いながら誘います。
「でも、私がもういるのに、もう一人私が行ったら、変じゃない?」
「変じゃないわ。」
「なぜ?」
「だって、あなたは居ても居なくても目立たないから。そうそう、私の影になればいいのよ。そうすれば、私が行く所、どこにでもあなたは行けるし、ほめてもらえるし、お父さんとお母さんに遊んでもらえるし、いいことばかりだわ。ほら。」
鏡の中から朱里の手が伸びてきました。もうルールなんて関係ありません。だって、平面の鏡から、朱里の腕がにょき、と飛び出しているのですから。
朱里の手が、あかりの腕をつかみます。
「放して。」
言いながら、朱里は自分の存在意義を疑います。私はもう、この世界にいる意味がない、そんな気がしてなりません。だって、家に帰っても誰もいないし、学校で優しくしてくれる人もいないからです。
このまま、影になってしまってもいいかも。あかりはそう思いました。そうすれば、鏡の中の朱里が言うようにどこにだって行けます。ほめてもらえます。何より、お父さんにまた会えるわけです。
気がついたら、あかりは川のほとりに立っていました。
一級河川と格付けられた、とても大きな河なのです。
あかりはランドセルと靴を脇にきちんと並べて置き、真冬の川の調整壁から水面を覗みます。ちょっと冷たそうですが、少し我慢すれば、それで済む話です。
何が済むのか、ですって? もちろん、そこへ飛び込んで沈んでしまうまでのことを言っているのですよ。お分かりでしょう。
そろそろと手すりをまたいで乗り越え、あかりは手すりをつかんだまま、ぐぅ、と大きく身体を前に乗り出しました。身体の重心はすでに水の上です。あとは手を放せばいいだけです。
あかりが目をつむって、手を放そうとしたときでした。
さっきのくぐもった声が、再び頭の中に響きます。
お帰り、お帰り。
家に、お帰り、と。
気がつけば、西日もすっかり落ちて薄暗い部屋に、あかりは一人立っています。鏡を見つめたあかりは、恐る恐る、右手を上げてみました。今度は、鏡の中のあかりが左手を上げます。
あかりは、ほっ、と息をつきました。ルールが取り戻されたみたいです。
階段をのぼる音がして、お母さんが帰ってきました。
なぜお母さんか、分かるのかって? お母さんの足音くらい、あかりは簡単に聞き分けられるからです。とん、とんっ、と軽やかに階段を上る音です。
私がいる意味ってあるのかな?
ってお母さんに訊いたら、あるに決まってるわ、あかりがいなくなったら、お母さんの生きてる意味がなくなっちゃうもの、とお母さんは言います。
あかりはさっきの出来事をお母さんに話してみました。
お帰り、という声のこと。鏡の中の、正反対の自分のこと。河のこと。
ふんふん、と聞いていたお母さんですが、河で手すりを放そうとしたくだりで、お母さんは真剣な顔になりました。怒っているのがあかりにも分かります。
あかりは、
「どうしたの、お母さん。」
と、訊いてみました。
そうしたら、手すりを乗り越えるなんて、そんな悲しいことしないで、と今度は悲しそうな顔でお母さんは言うのです。
あかりはびっくりしました。
「どうして?」
あかりがいなくなったら、お母さんのいる意味がなくなっちゃうでしょ。
お母さんの言うことがあかりにはよく分かりません。分かりませんが、何となく、自分はとてもいけないことをしたのだということだけは、分かりました。
あかりは朱里の影になろうとしてはいけないし、手すりを乗り越えるべきでもなかったのです。それは明らかにルール違反でした。あかりとお母さんの間に成立しているルールに、違反していたのです。
「お帰りって言ったの、誰だったのかな。」
さぁ、お母さんには分からないけれど、あかりを家に返そうとする誰かだったのかも知れないわね。
お母さんは言いながら、グラタンを温めています。その晩食べたマカロニグラタンはあったかくって、美味しくて、そしてなぜだかとても、その温かさが嬉しかったわけです。