8.君が笑ってくれるなら
人の気配が少ない校舎裏。
崩れたブロック塀の残骸に腰を下ろす黒間無音のもとに、朱色のポニーテールを振り乱しながら、緋色蓮花が走り寄ってきた。
手に持っているのは、小さな円筒状の容器、要するに水筒だった。
「はい、黒間君! これ!!」
「え、えっとこれは……?」
水筒は蓋がコップになる仕組みのものらしい。
外した蓋に、水筒の中身をなみなみと注ぎ込むと、蓮花は無音にその真っ赤な色合いをした謎の液体を差し出す。
「蓮花さん特製のスペシャルドリンク。私の元気と勇気の源よ!」
「あ、ありがとう……でも、その、いいの?」
「もちろんよ! 家に樽一つ分ぐらい作り置いてあるから大丈夫」
「いや、そういう意味じゃないんだけど……」
無音は苦笑いしつつ、差し出された特製ドリンクとやらに慎重に口を付ける。
もし唇の〝当たり所〟が悪ければ、蓮花と関節キスしてしまうことになりかねない。
当人がそこを全く気にしていないのは、彼女の性格によるものなのか、自分が男性として意識されていないという証左なのか。ふと思い悩んでしまう無音だった。
「いつも元気づけてくれてありがとう、蓮花さん」
「気にしないで。困ってる人を助けるのは私の趣味……っていうか、もうむしろ生き甲斐だから!」
無音はふと、中学生の頃のことを思い出す。
当時も変わらずいじめられっ子だった無音は、中学校にあまり積極的に通わなくなってしまっていた。
実際にはクラヤミ総帥を名乗り〈SILENT〉を本格的に立ち上げ始め、その為の資金繰りや人材集めに奔走していて学校に通うことを疎かにしてしまっていただけなのだが、いじめがあったのは紛れもなく事実だ。
そんな彼の元に現れたのが、一つ年上の少女、緋色蓮花だった。
元々、蓮花の父親と無音の祖父が同じ研究所で働いていた同僚という縁もあって、全く顔を合わせたことがないわけではない。
だが、『不登校に陥ってしまったか弱い後輩を見過ごせない』と家まで押しかけてきて無音を学校まで連れてきて、彼をいじめる人間を注意したり先生に報告したりと、ただのお節介でありとあらゆる努力をしてくれた。
「蓮花さんのそういうところに、きっと僕だけじゃなくて、たくさんの人が救われてると思うよ」
コップの中身を飲み終えた無音は、ふと呟くように言う。
真っ赤な色をした特製ドリンクとやらは、意外な程に口当たりがよく味も良かった。どこか体の奥からエネルギーがこみ上げてくるのを感じる。
蓮花が学校へ通うよう尽力してくれたおかげで、〈SILENT〉の活動はやや滞ってしまう部分もあった。
だが、それ以上に大きな力を、無音は彼女から与えられていた。
「でも、蓮花さんは、もし相手が悪い人でも、やっぱり助けようとする?」
「それは勿論よ。助けを求める人が目の前に居れば、手を差し伸べる。それが正義のヒーローの努めよ」
「……〝悪い人〟が居なくなれば、困る人が居なくなるのに?」
無音は、真っ直ぐに蓮花の目を見つめながら、彼女の本質に対して問いかける。
もし風紀委員である緋色蓮花が、彼らのことを「カツアゲを行っていた不良生徒だ」と教師に報告してしまえば、きっと彼らには何らかの処罰が下されてしまう。停学も免れないだろう。
だが、不良生徒が居なくなれば、その被害に遭う生徒は居なくなる。
「蓮花さんは優しくて、強くて、何でもできるから、誰でも助けようとする……それに、僕も救われてる。でも、悪い人まで助けてしまうのは、それが〝生き甲斐だから〟そうしているの?」
緋色蓮花は――ライブリー・レッドは、決して敵に追い打ちを掛けようとしない。
弱った相手にトドメを刺そうともしない。悪人が降参をすれば、その時点ですぐさま剣を収めてしまう。
もちろん、首領である無音の側からすれば、死傷者が出ては困るので、トドメを刺そうとすれば全力でそれを阻止しなければならない。その為の準備も怠らない。
だが、蓮花が正義の味方を名乗りながら、決して悪を根絶しようとする姿勢を見せないことに、クラヤミ総帥としての無音は、少し苛立ちを覚えてもいた。
「……無音君。この話は、二人には絶対にしないでね」
〈ライブリー・セイバーズ〉のリーダー緋色蓮花は、チームメイトである鳴矢やアスィファにも話したことがない、一つの告白を静かな声で始める。
「私ね、昔からヒーローみたいになりたいって、ずっと憧れてきたの」
「うん、そうだったね……」
「それで、小学生のときにね、皆に乱暴する男の子が居たの。私は、そのいじめっ子のことを『悪い奴だから懲らしめなきゃいけない』って思ったの。それが、正義のヒーローになるために必要なことだって思ったから」
「具体的には何をしたの?」
「そのいじめっ子がした悪いことを、皆の前で糾弾したり、乱暴振るおうとしてるところに割って入って力尽くで解決しちゃったり……とにかく手当たり次第にいじめっ子のことを非難し続けて、一ヶ月もした頃にはいじめっ子は乱暴しなくなったわ」
蓮花は一度大きく息を吸い込んでから、胸のつかえを吐き出すように言葉を続ける。
「そのいじめっ子だった男の子が、転校しちゃったの」
「えっ……」
「気がついたら、そのいじめてたはずの子が、今度は皆から悪者にされて、いじめられる側になっていたの……それで結局、いじめに耐えられなくなって転校しちゃったの」
どんなに強い力を持っていても、どんなに悪い人間であっても、〝集団の圧力〟というものには決して逆らえない。
蓮花自身は、力のある個人としていじめっ子と対峙していたつもりだったのだが、実際にはその〝集団の圧力〟が個人へ向かうよう扇動してしまっていたのだ。
「『たとえ正義のためであっても強すぎる力は、使い方を誤ればまた別の悪へと転じてしまう』――私が好きなヒーロー番組の台詞に、こういうのがあったの。子供の頃はよく分からなかったけど、そのときになって、ようやく意味が分かった気がした」
「蓮花さんだけが、悪いわけじゃないよ。いじめっ子も、そのクラスの人たちも、黙って見過ごしてた周りも、誰もが皆少しずつ悪くて、そうなっちゃっただけなんだと思う」
「でも、ずっと心の奥に引っかかってる……私は、自分が正義の味方になりたいがために、そのいじめっ子のことを〝悪〟にしてしまったんじゃないかって」
意思の強さを称えたような太めの眉が、いつもはキリリと上向いているのに、今はしゅんと下がってしまって、見るからに表情が暗くなってしまっている。
緋色蓮花は、どれだけ人として強くとも、その中身は年頃の少女だ。
正義の味方で在り続けるために、あらゆるものと戦わなければならない――例えばそれが、自分自身の中に抱えてしまった矛盾であっても。
無音は意を決した表情になると、蓮花の手を掴むと、両手でグッと握り締める。
「そんなんじゃダメだよ……!!」
「えっ、黒間君!?」
蓮花は驚いた表情を浮かべながらも、握られた手をふりほどこうとはしない。
無音が両手で握り締めた蓮花の手は、少女にしては少しだけ大きめの掌だ。鍛えていると言うだけあって、指の一本一本も男子高校生である無音よりも一周り太い。
「そのいじめっ子だって、最初に自分が悪いことをしなければ、そんなことにはならなかったんだ。蓮花さんが、そんなことにまで責任を感じる必要なんてないよ」
「〝悪は悪だから〟、助ける必要なんてないって、黒間君は思ってるの?」
「それは違うよ……自分自身の中の悪と戦わないことが悪なんだ。悪いことをしたと認めて、皆に頭を下げることができれば、きっとその人だって仕返しされる事なんてなかったはずなんだ」
「……じゃあ、私がしてきたことに、意味なんてなかったのかな」
「そんなこと、絶対にない! 正義は光なんだ。光があるから、自分が暗い闇の中にいると気づける。進むべき道がどこにあるか、見つけ出すことができる」
無音は小さな手で蓮花の手をしっかりと握り締め続ける。
「蓮花さん。僕は、あなたに光で在り続けて欲しい。だって――」
――貴様は、わしが求めてきた――
「僕がずっと求めてきた〝本物のヒーロー〟なんだから」
この少女に、純粋な正義であり続けて欲しい。
その願いのためにこそ、黒間無音は悪という仮面を被り続けてきたのだから。
「も、もう一回……」
「え?」
無音に手を握り締められた蓮花は、空いた片手をポケットに差し込むと、顔を真っ赤にして小刻みに震えながら続ける。
「だ、だから! もう一回言って! 今の!!」
「え、えっと……蓮花さんは、僕にとって、本物のヒーローだよ」
「もっと、もっと大きな声で!!」
「誰がなんと言おうと、蓮花さんは本物のヒーローなんだ!!」
「っ……クぅううううううッ!!」
蓮花は突然、かき氷を一気に掻き込んで頭がキンとした人みたいな、苦悶と爽快感とが入り交じったかのような、甲高い大きな声をあげる。
「ありがとう、黒間君! 私、今の言葉にすごく励まされた! 今日から今の言葉が、私の新しい元気と勇気の源よ!!」
蓮花はポケットから片手を抜き取る。そこには赤色でコーティングされた電子端末が握り締められていた。
『蓮花さんは本物のヒーローなんだ!!』
画面上のタッチパネルを操作すると、無音が言った大声が繰り返して再生される。
「うふふー。というわけで今の黒間君の言葉は、録音しちゃいました」
「えっ、ちょっと、何で!?」
「何でって……いいじゃない。だって、嬉しかったんだもん。元気が欲しいとき、聞き返せたらなと思って。どうしてもダメっていうなら、削除するけど……」
「別にダメってわけじゃないよ」
無音は優しく微笑んで続ける。
「だって、録音なんかしなくても、僕は、何度でも言うから」
「ありがとう、黒間君。助けてるつもりだったのに、逆に助けられちゃうなんてね」
蓮花はいつもの元気いっぱいな笑顔とは違った、少し気恥ずかしさの混ざる笑いを浮かべながら言う。
と、手にしていた端末から急に着信音が鳴り始め、続けて鳴矢の怒鳴り声が校舎裏一体に響き渡った。
『おいこらバカレッド! 買い物行く約束はどうなってんのよ!? 私とスイファの二人だけで行くことにするからね!!』
「あ、いけない! すっかり忘れるところだった!!」
「蓮花さん、焦らなくていいよ。あんなこと言っても、鳴矢は本当に置いていったりはしな――」
「じゃあね、黒間君! また明日も迎えにいくから!!」
無音が言いかけたときにはもう、蓮花は物凄いスピードで校舎裏から走り去ってしまっていた。
一人取り残された無音は一つため息を吐きながら、蓮花が走り去った方角を見送る。
彼女の敵として組織を運営し、戦う理由を与え続けること――それは見方を変えれば、自分の夢のために緋色蓮花という純粋な少女を犠牲にしてしまっているに過ぎない。
「あれ……こっちの携帯に着信がくるなんて、おかしいな」
一人思い悩んでいた無音はふと、ポケットの中のスマートフォンが振動していることに気が付く。
着信が届いているのは、黒間無音が私生活で使うためのものとして持っているものではない。
〈SILENT〉の首領、クラヤミ総帥として組織と連絡を取るために使っている方の電話だった。
無音は電話を取ろうとした手を一旦止めて、内ポケットから折りたたみ式の仮面を取り出し、目元を隠すように被せてから電話の通話に応じる。
「どうした、参謀。この番号には、そちらからかけてくるなと言っておいたはずだ。よほどの緊急事態でなければ許可してない」
受話器から、参謀である女性がいつもの事務的な態度を崩して、どこか切羽詰まったような声で詰問に答える。
「はい。ですので、失礼ながらかけさせていただきました」
「よほどの緊急事態が起きた、ということだな。何が起こった?」
「はい。研究施設の方で事故が起きてしまい……実験体が一体逃げ出してしまいました」
「実験体? 技術部の方で〝怪物〟は一体一体、制御用の素子を埋め込んで制御できるようにしているはずではないか」
「はい。そうなのですが、以前我々が壊滅させた生命科学研究組織のことは覚えていらっしゃいますね」
「ああ、もちろんだ」
〈SILENT〉の活動内容は『正義の味方たちとの戦い』だけではない。
度を超したテロ組織や犯罪集団など、いわゆる〝正真正銘の悪人〟を叩き、吸収という形で悪さをしないようコントロールもしているのだ。
例えば麻薬密売組織を壊滅させ、怪しい健康茶を売るちょっと怪しげな団体に無理矢理転向させたこともある。お茶の効能が意外と良くて今では普通の優良企業となっているが。
今回事故が起きた施設は、巨大な生体兵器を造り出して兵器として売りさばくかなり悪質な組織の研究施設だったものだ。
「その研究施設に封印されていた怪物が一匹、誤って逃げ出してしまったようです」
「……なんだと?」
「あれは、いつものような戦闘用に調整された怪人たちと違います。破壊行為のために作られた、純然たる怪物です」
クラヤミ総帥は、背中にじっとりと冷や汗が伝うのを感じていた。
市街地に入り人目に触れてしまえば、それは単なる暴走した怪物ではなくなってしまう。
悪の組織が放った新たな敵。
それに対し、正義の味方を名乗る者達は、戦いを挑まなければならない。
「本日作戦行動に入る予定だった戦闘員たちを現地入りさせて抑止に努めていますが、現状では戦力が足りずこのままでは市街地への侵入を許してしまいます」
「現場の指揮を執っているのは漆原だな?」
「はい、怪人スーツを纏っているのである程度は戦えていますが、やはり〝負ける前提〟で造られたスーツの性能では限界があるようです」
「引き続き抑止に努めてもらうが、無理だと判断したら迷わず撤退するよう伝えろ。それから、影内のやつを送り込んでおけ。ノワール博士にも怪物に関して詳細な情報がないか調べておくように要請しておけ」
「それはつまり、自警団と衝突する前に我々の手で処理するということですか」
「そうするしかあるまい。いや、そうせねばならぬ」
悪の組織が一度放ってしまった怪物を、「予定と違ったから」といって自分たちで引っ込めることなどできない。
そんなことをすれば、今まで作り上げてきた悪の組織〈SILENT〉のイメージを根本的に損なうことになる。
「参謀、連中がその怪物に勝てると思うか?」
「いいえ、その怪物が――いえ、我々が勝ってしまうでしょうね」
「勝ってしまったら、そのときは、どうする」
「本当になさってしまってはいかがでしょうか、世界征服」
参謀の声は焦りの色よりも、どこか楽しむような色合いが滲んでいた。