6.いつか王子様が
小鍬高校の図書室は校舎内に存在しない。
図書館として、一つの独立した建物になっているからだ。
蔵書数も市内の他の高校に比べると比較的多く、二階の広い自習室には多くの生徒達が参考書や教科書を開いて自習に励んでいる。
もっとも、世間の高校の図書館と比べて、特に何か変わった部分があるというわけではない。
ただ一点、変わったところがあると言えば、図書館を利用する生徒たちの中に一人、異世界から来た魔法使いの少女が混じっているということぐらい。
「ありがとうございます、無音先輩。宿題を手伝っていただいて」
「いやあ、お礼を言われるほどのことはしてないよ。スイファちゃん、僕が教えなくても全然理解できてるみたいだし」
「いえ、そんなことないです! 無音先輩に教えて頂けて、本当に嬉しいです。私、後輩として先輩に勉強を教えてもらうのにずっと憧れていましたから」
「……ん? あ、いや、喜んで貰えたならそれでいいんだけどね」
壮絶な違和感に襲われもしたが、気が付かなかったことにしようと心に決めた。
無音が教えているのは、古文の授業の問題についてだ。
「スイファちゃん、日本語自体が外国の言葉なのに、古くて使われなくなった昔の言葉まで習うなんて、大変に思わない?」
「いえ。私、言語というものがとても好きなんです」
「へえ、そうなんだ。一番好きな言語って何なの?」
「そうですね。この間読んだCOBOLの本はとても興味深かったです」
「確かに言語だけどCOBOLを漢文とか古文と同じ括りで語るのはどうなんだろう……」
アスィファの話によると、魔法と呪文の仕組みはプログラムとコードの関係に似た部分があるらしい。
年頃の女の子が興味を持つようなファッションやショップに興味がなく、自分の趣味にひたすら正直という点で、おそらく蓮花とも仲良くなったのだろう。
「あ。電子言語だけじゃないですよ。例えば魔界で使われている言葉の中には、こちらの世界のアラビア語が元になったものもあるという話なんです」
「えっ、なんでアラビア語なの?」
「なんでも昔、偶発的に開いてしまった〝門〟を通って、魔界に迷い込んでしまった方がいらしゃったそうで、その方がアラブ系の方だったとかで」
「……もしかしてその人、アブドゥル=アズハラットって名前じゃない?」
「ええ、そうなんです! よくご存知ですね。無音先輩、本当に博識で尊敬します」
「いや、今の冗談のつもりだったんだけどね……」
無音は苦笑いしながら、アスィファが自分に向けてくる尊敬の眼差しから視線を逸らす。
彼女の常識は、どこか世間一般とはずれている。いや、異世界から来た人間なのだから、この世界の常識とずれていても当たり前と言えば当たり前だが。
「私のアスィファという名前は、アラビア語で〝嵐〟という意味なんです。それを父に聞かされてから、こちらの世界の言語にも興味を持つようになりました」
「でも、日本語とアラビア語じゃ全く文法違うし、関連性もないよね」
「ええ。ですがお父様はこちらの世界の文化にとても興味がおありで、私もその影響でこちらの世界の言葉や文化には昔から触れてきましたので」
「文化って……例えば?」
「マンガとかライトノベルとか、そういう名前で呼ばれるものだそうです」
「なんだろ、魔王ほんと暇だなあ……」
無音はあきれ顔を浮かべながら、改めて目の前の少女に感心の念を抱く。
アスィファは教え甲斐が無いと言ってしまえるほどに勉強がよくできる。朝の会話を思い出す限り、魔法の才能は勉強が出来るか否かに結構左右されるのだろう。
「そういえばスイファちゃんって、魔界だとどのぐらい魔法使える方なの?」
「えっと、そうですね。一応王族の家系ですので、国内でも十本の指には入るぐらいかと思います。王族だけに秘伝されるような高級言語も幾つか使えますし……あ、これは秘密でした。ごめんなさい、忘れて下さいね」
アスィファはぺろりと舌を出して嘆願する。
可愛らしい仕草だが、言葉に混じる〝王族〟とか〝秘伝〟だなんて大仰な単語を自然に出されてしまうことに、少し恐ろしさにも似た感情を抱いてしまう。
「とりあえず宿題一区切りついたけど、他に聞きたいこととかなかった?」
「あの、でしたら……一つだけ、聞いてみたいことがあるんですけど、いいですか?」
「うん、もちろんだよ。頼りない先輩だけど、僕で力になれるなら何でも聞いてよ」
「いえ、頼りなくなんてないです!」
アスィファは大声を上げて椅子から立ち上がる。
「スイファちゃん、気持は嬉しいけど、落ち着いて……」
「あ。ご、ごめんなさい」
図書館で静かに自習していた生徒たちが奇異の目線を向けてくるのに気づいて、周囲に向かってペコペコと頭を下げてから、大人しく椅子に座り直す。
「『支配者たるものいつも悠然とした態度であれ』とお父様にあれほど言われていたのに、私としたことが迂闊でした」
「いや、『図書館では静かに』っていうごく普通の話だからね?」
アスィファはなんでも、幼い頃から魔王の娘として帝王学と呼ばれるような考え方を教え込まれて育ってきたのだそうだ。
時折、そうした支配者としての顔を覗かせるところに、どうも本人は無自覚らしい。
「無音先輩は私にとってすごく頼りになる人です。魔界から初めてこちらの世界に来た日、右も左も分からなくて道に迷って困っていた私に、最初に声を掛けてくれた人は先輩でしたから」
「いや、僕じゃなくても、きっと誰かが助けてくれてたと思うよ……この世界の人たちは、そんなに、冷たくなんてないよ」
言葉の最後に、どこか願いを込めるような響きを乗せて、無音は言う。
「でしたら、私にとって最初の温かい人が、無音先輩だったのがとても幸運だったって思うことにします」
「あはは……じゃ、とりあえずそういうことにしとこっか」
無音は気後れするように笑いながら頭をかく。
ただ、恥ずかしいからとか、照れてるからではない。
――僕は、温かくなんてないよ。
誰も助けてくれないと、正義の味方なんて居ないと、世界に絶望してきたからこそ、無音は〝クラヤミ総帥〟という仮面を被ることを決めた。
そんな自分が、彼女にとって救いになってしまったことに、罪悪感すら抱いてしまう。
「それで、聞きたいことってなんだったの?」
「その、もしも……もしもの話ですよ。先輩の好きな人に、許嫁が居たとしますね?」
「えっ? ああ、うん。居たとするね」
「けど、その好きな人は、許嫁がどんな人かも知らないんです。それに、婚約を決めた父親はものすごく偉い人で、逆らう者は一族郎党皆殺しにするような絶対的君主だったとしますね」
「そ、それ仮定の話だよね……?」
「ええ、もしもの話です」
アスィファは大人しい後輩という表情を崩すことなく、まるで絵本の中のお伽噺を語るような気さくさで話を続ける。
「先輩はその好きな人を、色んなものを敵に回してでも、自分のものにするために、戦おうと思いますか?」
アスィファは、魔界という異世界から来た、王族の娘として育った、まるでお伽噺の世界から抜け出してきたかのような少女だ。
きっとその小さな身体に、想像もつかないような大きな運命を抱えて生きてきて、今此処に居るのだろう。
「うーん……僕はそこまで、人を好きになった経験ってないから、正直よくわからないかなあ」
「そう、ですか……」
「けど……自分の望まない相手と結婚させられそうになって困っている人が居たとして、その人が僕のことを頼ってくれるなら、できる限りそれに応えてあげたいって思う。それが答えじゃ、だめかな?」
「いえ……充分です。答えていただけて、ありがとうございます」
アスィファは大人しそうないつもの笑顔に、どこか少しだけ寂しさを滲ませながら、それでもいつも通りの言葉で返す。
「無音先輩は、誰にでも優しい人だって信じています。だから、そう答えてくださると思っていました」
無音にとっておとぎ話の住人みたいな経歴を持つ少女、アスィファ=ラズワルドは僅かに陰りの刺す表情で微笑む。
「せめて、その人の許嫁が、優しくて温かい人ならいいんだけどね。たとえば、おとぎ話に出てくる王子様みたいな」
「私、真面目に話してるんですよ。そんな〝おとぎの国の王子様〟なんて夢みたいな人、現実にそうそういるわけないですよ」
「そうかな。現に、こんなに可愛くて頭も良くて素敵なお姫様が居るんだから、そういう人だってきっと世界にはいるはずだよ」
「……もう。からかわないでください、先輩」
「いや、真面目に答えてっていうから、本当のこと言ったつもりなんだけど……」
アスィファは年ごろの女の子らしく、頬を少しだけ赤らめてうつむいてしまう。
だが彼女にとって、この世界で普通の女子高生として先輩に勉強を教えてもらうことと、魔界で王女として暮らす日々の、一体どちらが夢で現実なのだろうか。
少なくとも後輩としてアスィファは、とても賢くて、物分かりが良い普通の女の子だ。
だが、彼女は大人しい後輩という仮面の下に、きっと色々なものを押し隠して生きているのだろう。
この世界に、自分を救ってくれる何かを求めているのだろう。
――救いなんて、本当は、どこにもないんだ。
そう思っていても、口に出すことはできない自分を、無音は一人嫌悪するのだった。
台詞の前後空ける作業面倒だからやめゆ




