エピローグ.いつかあなたに満ちるまで
緋色蓮花が目を覚ますと、薄暗い石造りの一室に居た。
立った状態のまま、手枷をはめられて拘束されているらしい。
どこかの地下室なのだろうか。澱んだ空気が全身の肌をじっとりと撫でる。
自分の体を見下ろすと、何も着ていない裸の状態だった。日頃鍛え上げた均整の取れた肉体が、惜しげも無く露わになってしまっている。
一体自分は何故こんなところに、こんな姿で――覚束ない思考を巡らせていると、目の前に突然、一つの人影が姿を現した。
ぼやける輪郭が徐々に形をなしていき、一つの明確な像を結んでいく。
黒い仮面に、重々しい漆黒の甲冑。威風を示すような黒い外套。
クラヤミ総帥――そう理解した瞬間、様々な感情が蓮花の心から溢れ出た。
自分を閉じ込め縛り付けたのは彼なのだろうか。どうしてこんなひどい真似をするのか。
それ以前に、自分は衣服を全く身に纏っていない。気づいた瞬間、死にたくなるほどの恥ずかしさが思考を満たしていく。
「会いたかったぞ、我が宿敵よ」
焦りと怒りと恥ずかしさと悲しさと、様々な感情が混ざり合って混濁していく。
だが渦を巻く感情の中にたった一滴、嬉しさのような感情が入り交じっていることを蓮花は自覚していた。
会いたかった――その言葉を聞いた途端、鼓動が早くなっていく。
「どうして、あなたは、こんな――」
「お前を手に入れるためだ」
クラヤミはそう言うと、蓮花の目と鼻の先へ不意に近づいてくる。
固い鎧に包まれた指で蓮花の顎を摘まむと、顔を無理矢理に上げさせる。
蓮花の視界が、不気味な造型のマスクで埋め尽くされる。
この仮面の奥に潜んでいるのは、一体どんな素顔なのだろう。
ただそれだけが気になって仕方ない。
「わしの物になれ。わしは、お前のことを――」
クラヤミはそう言うと、有無を言わさず顎を掴んで自分の唇に近づけようとする。
悪の首領の手中に落ちてたまるものか。心ではそう思っていても、不思議と体から力が抜けていき、抗うことができない。
無理矢理に唇を奪われそうになる。
――そういえば私、まだ誰かと、キスしたことないな。
ぼんやりとした思考の奥で、不意にそんな考えが過ぎる。
初めての相手が悪の首領だなんて、正義の味方失格だ。
何か物音が遠くから聞こえる。そういえばそろそろ学校に行く時間だ。
早く目を覚まさなければ、学校に遅れてしまう。でも、このまま、目が覚めないで――
「きゃあああああああああああああっ!!」
天地がひっくり返るような悲鳴を上げて、緋色蓮花はその悪夢から飛び起きた。
目覚ましのベルがずっと鳴り続けている。物音の正体はこれだろう。
いつもなら目覚ましが鳴るより早く起きているぐらいなのだが、今日は鳴り始めてから五分も眠り込んだままだった。
どうして目が覚めなかったのだろうか。
あの不思議な微睡みの中に、ずっと溺れていたかったというのだろうか。
「ど、どうしよう……私、なんて夢を……」
蓮花は真っ赤に火照った頬を押さえて、恥ずかしそうに呟く。
布団の中は汗でびっしょりと濡れてひどい有様だ。
なんという悪夢だろう――まさか敵であるクラヤミに、あんな酔狂な格好をした悪の総帥に、唇を奪われそうになるなんて。
それを、一瞬でも受け入れそうになってしまった自分が居ただなんて。
「もしかして、私、そんな、まさか……」
正義をこよなく愛する少女。数々の事件を解決してきた武装自警団の若き英雄。
そして十七歳の女子高生である少女は、その日自分の胸に芽吹き始めた一つの感情をとうとう自覚してしまうのだった。
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いつもと変わらない朝の登校時間。
自宅のマンション前で幼馴染みの梔子鳴矢、後輩のアスィファ=ラズワルドと共に、緋色蓮花の到着を待っていた。
「ったく、遅いわね……アイツが一番遅れるなんて、雪でも降るんじゃない?」
「あの、梔子先輩。その雪という言葉、できればやめて下さい……何か不思議と寒気がしてきます」
「ちょっとやめてよ! アタシまでなんか寒くなってきたじゃない!!」
壮絶な戦いから数日が過ぎて、世間から吸血鬼が残した爪痕は消え始めている。
だが二人の少女の心には、何か壮絶なトラウマが残ってしまったようだ。
その元凶たる存在の肉親である少年は、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら遠くの空をただ見つめ続けている。
この二人と妹を会わせることだけは絶対に止めておこう。心の中で固く誓う。
「三人ともごめんなさい、遅くなって!」
そうこうしているうちに、蓮花が肩で息をしながら慌てた様子で駆け込んできた。
顔を合わせるなり、鳴矢が真っ先に意地の悪い笑みと共に嫌味を送る。
「本当、いつまで待たせるのよ。ああでも、アンタが遅刻で怒られる光景は一度見てみたいわね。ちょっと歩いていこっか」
「だからごめんなさいってば! 意地悪言わないで!!」
蓮花は顔を真っ赤にして抗議する。
気のせいだろうか。どこか彼女の言葉に、いつものような覇気が感じられなかった。
「おはよう、蓮花さん。まだ時間はあるから、慌てず落ち着いていこう」
「おはようございます、緋色先輩。先輩にも寝坊する日があるなんて、ちょっとなんだか安心してしまいます」
「あ、うん。おはよう、二人とも。ちょっと、変な夢を見ちゃったというか……」
「蓮花さん、もしかして夢に敵が出てきてうなされたとかじゃないよね?」
「えっ!? あ、違うの! いや、確かにそうなんだけど、そうじゃないの!!」
「……蓮花さん、本当に大丈夫? 何かいつもとおかしいけど」
無音は真剣な表情で心配になってしまう。
戦いに疲れた兵士が、戦場の悪夢を見るようになってしまうなど、生活に悪影響を及ぼしてしまうという有名な問題がある。
正義に燃える自警団とはいえ、その心と体は十七歳の女子高生のものだ。
悪の組織との戦いによって、心に何か傷を負ってしまったのなら一大事だ。
無音にとって、それが最大の懸念事項だった。
様子がおかしい蓮花に、鳴矢がとうとう不躾な質問を投げかける。
「アンタ、さっきから口数少ないけど何かあったの? ヒーロー番組の録画に失敗したとか? お気に入りのグッズが壊れたとか?」
「ううん、違うの。私ね……好きになっちゃいけない人を、好きになっちゃったかも知れないの」
「えっ」
鳴矢が声を上げたと同時、世界の時が止まったような気がした。
十秒も経った頃だろうか。止まったときが動き出すように、三人は同時に大声を上げた。
「「「ええええええっ!?」」」
まず最初に食いついたのは、黒間無音だった。
予想されるあらゆる懸念事項の、遙か上を行く予想外の大問題だった。
空からUFOが振ってきて異星人が攻めて来たとか、その方がまだ現実味がある。
「れ、蓮花さん! 誰なの、その気になる人って!?」
「ちょっと無音! なんでそんなに前のめりなのよ!!」
蓮花に詰め寄ろうとした無音の頬に、いきなり髪の鞭が叩き込まれた。
今まで味わったことのない強烈な一撃だ。あえなく吹っ飛ばされた無音が、アスファルトの上を三回転ほど転がっていく。
「あのね、バカリーダー。まず言っておくけど、テレビの中のヒーローは実在しない架空の存在だからね? アンタが本気だったとしても恋愛感情とは言わないからね?」
「わ、私はテレビのヒーローをそういう対象として見てるわけじゃないわよ。あくまで抱いているのは、憧れとか信仰とかそういう崇高な感情よ」
「ふーん。じゃあ、崇高でない不純な欲求を現実の誰かに抱いているわけね」
「えっと……そう、かも?」
「ぎゃあ! 正義バカが普通の女の子みたいな顔してる! 顔赤くしてる!!」
鳴矢は蛙を押しつぶしたような悲鳴を上げると、ふらふらと目眩を覚えたように覚束ない足取りで歩き出し、そのまま地面にへたり込んでしまう。
そして空いた蓮花の正面に、ちゃっかりとアスィファが陣取っていた。
「もしかして歳の差とか、国境の差がある方ですか!?」」
「あの、ラズワルドさん? 別に、そういうわけじゃ――」
「大丈夫ですそんなの! 国や年齢や身分の差なんて、愛の前には些細なものです!!」
「ちょっと、ラズワルドさん? 私の話、聞こえてる?」
いつも大人しいはずのアスィファは、珍しく情熱的な目つきで蓮花に訴えかける。
だが、あまりに感情が高ぶりすぎているのか、蓮花の声が全く耳に届いていない。
「ちょっと三人とも落ち着いて! どうして私に好きな人が出来ただけで、そんな大騒ぎするの!?」
「「「…………」」」
一種の恐慌状態に陥りかけていた三人は、やっと冷静さを取り戻す。
考えてみれば彼女は十七歳の女子高生、しかも四人の中では一番の年上だ。
恋愛感情を持ったり、それに自覚的になったり、思い悩んだり――普通の感情のはずだ。
ただあまりに今までが普通でなかったものだから、その落差に驚いてしまったのだ。
落ち着きを取り戻した鳴矢は、恋の相談に応じる女友達というものを、必死に演じてみようと試みる。
「それで、〝好きになっちゃいけない〟ってのは、どういうこと? 年が法外に離れてるとか?」
「えっと、年上だとは思うけど、それが問題っていうわけじゃないの。なんていうか、立場の問題って言えばいいのかな……?」
「ああ……ってことは、もしかして教師の誰かとか? 生徒が教師に片思いなんて、大抵ろくな結果にならないからやめた方がいいわよ」
「それも違うわ。生徒と教師よりも、ちょっとハードルが高いかも……」
「……まさかあんた。相手は既婚者とか言わないわよね? やめてよ、『ライブリー・セイバーズのリーダー不倫発覚』なんて新聞に載るような事態だけは」
「正義の味方はそんな不道徳なことはしません!!」
「じゃあ道徳的に許される相手なの? だったら誰か言ってもいいはずよね?」
「え、えっと。それは、ちょっと……」
鳴矢は人差し指を突き出して、蓮花の頬をぐりぐりと突き始める。
鳴矢より頭一つ身長の高い蓮花だが、そのいやがらせに全く抵抗する素振りを見せない。
恋愛とはここまで人を弱く、ふにゃふにゃにしてしまうものなのか。
驚く無音をよそに、熱心な様子のアスィファが鼻息荒く問い詰める。
「白状するなら今のうちですよ、蓮花先輩。でないと先輩は、歳の離れた既婚者の教師に恋する正義の味方にあるまじき不純な少女ということになってしまいます」
「ちょっとスイファちゃん! どこでそんな悪魔じみた脅しを覚えてきたの!!」
「私、これでも次期魔王候補ですから」
魔界からやってきた魔王の娘、アスィファは堂々と断言する。
考えてみれば彼女も、見ず知らずの婚約相手が居たり、だけどこの世界で気になる人が居る様子だったりと、恋愛ごとに関しては数々のハードルを抱えている。
もっとも、その見ず知らずの婚約相手というのが、そういえば自分だ。無音は急に頭が痛くなってくる。
三人が突き刺すような視線を蓮花に送る中、当人は恥ずかしそうに顔を赤らめながら、しどろもどろに言葉を紡ぎ始める。
「えっとね……その人は、ちょっと誤解されやすくて、あまり世の中からは理解されないタイプの人なの。でも、気が付くと私、その人のことばかり考えてて……」
「あー、わかったわかった。それは確かに恋だわ。間違いなく」
「そうですね。緋色先輩、私たち応援しますから! いつか結ばれる日が来たら、私たちにも紹介してくださいね」
「そうね……いつかそんな日が、来るといいわね」
哀愁を纏った蓮花の横顔は、少し大人びていて、無音の目には眩しいほど綺麗に写った。
彼女をこんな顔にさせるような相手が、この世界のどこかに居るなんて。
無音は押し殺したような声で、苛立ち混じりに呟いた。
「蓮花さんの好きな人って、一体誰なんだ……!?」
黒間無音はまだ気づいていない。
世界の真実を開く鍵は、いつも意外と自分の中にあったりするものだ――と。
書きたいもの書き切ってしまったのでここで一旦の完結といたします。
ここまでご愛読ありがとうございました。




