16.鏡の中のマリオネット
クラヤミ総帥は本拠地の奥にある、自身の執務室で椅子に深く腰を沈めながら、深く思索の海に自身の心を静めていく。
「判断するための材料はあらかた揃ったな……」
【修正自警法】――自警団という形のない正義に〝国家の武力〟という枠組みを当てはめ、力なき大衆の手によって制御しようという悪法。
その施行により、彼の愛すべき宿敵〈ライブリー・セイバーズ〉はからくも解散が確実となってしまった。
おそらく緋色蓮花は、たとえ自警団という組織の有り様が変わっても、自身の正義を揺るぎなく貫いていくことだろう。
彼女は決して折れない花だ。どんなに踏みつけられても、土が乾こうと、根を下ろした場所で真摯に咲き続ける。
梔子鳴矢は、自警団という立場を失っても、自分の正義のために戦い続けるだろう。国家に認可されない非公認の自警団として、自身の持つ〝超能力〟を使って戦い続けるかもしれない。
彼女は翼を持った鳥だ。大地が彼女を拒むなら、きっと見切りを付けて羽ばたいてしまう。翼を持たない人々から、妬み恐れられたとしても。
アスィファ=ラズワルドもまた、自分が愛する二つの世界の調和を守る為、境界の上に残り続けるだろう。類い希なる魔力と魔王の娘という立場を持つ彼女にしか果たせない使命を、その小さな体と心に背負い込んでいる。
彼女は二つの世界の調和を支えるための風だ。だが、風そのものに自分の意思は許されない。状況が変われば彼女はこの世界にとって〝そよ風〟にも〝嵐〟にもなり得る。
「考えてもみれば、本当に奇跡的な均衡であったな」
これだけ厄介な事情を抱えた三人が、辛うじて〝正義の味方〟としてまとまってこられたのは、本当に奇跡的な均衡だった。
「そもそも、弱きを助けるために力を振るう、本当の意味の正義はライブリー・レッド一人だったのだ……」
だが、あとの二人は違う。
たしかに〝超能力〟や〝魔法〟といった、個人として優れた能力は持っている。
しかし、その人と異なるという部分が、彼女達の社会的な立場を弱くしている。自分自身が弱者だからこそ、弱者を守る為に正義を行ってきたのだ。
緋色蓮花は二人の力に支えられ、二人は緋色蓮花の正義に守られてきたのだ。
「だが〝力なき大衆〟の正義こそ、本当に頑強な正義だったというわけか……」
クラヤミは椅子から立ち上がり、ゆっくりと部屋の一角へと進んでいく。
書類棚や調度品、骨董じみた柱時計。様々な家具が並んでいる。
クラヤミはその中の一つ、全身を丸ごと映し出せる、大きな姿見鏡の前でゆっくりと立ち止まった。
無音はふと、自分の顔に嵌められた仮面に手を触れ、そっと外してみる。
そして鏡に映る自分の目元がちょうど隠れるように、顔と鏡の中間の位置に外した仮面を翳してみる。
仮面を外して素顔になった黒間無音という少年と、世界征服を目論む悪の首領が、鏡を通して一対一で向かい合うかたちとなる。
「君の悪は、お前自身でも制御できないほど膨れあがってしまったんだ」
鏡に映る、黒衣を纏った仮面の狂人――クラヤミ総帥に向かって、無音は少年の声で語りかける。
そもそも悪というのは、突き詰めれば大衆に混ざることができないはぐれた少数の総体だ。〝個〟が生きる場所を求めて世界と戦おうとするとき、そこに悪という概念が生まれてしまう。
クラヤミは〝世界を正義で満たす〟という野望を掲げ、同じく世界に抗おうとする人々を寄せ集めて〝悪〟という概念を作り上げようとしてきた。
しかし、クラヤミは一つの大きな見落としをしていた。
〝世界を正義で満たす〟という野望そのものが、大衆に望まれない〝個〟の独善――つまり、本質的な意味での悪と何の変わりもなかったのだ。
「君は君の独善を満たすために、彼女達の正義を蔑ろにしたんだ」
鏡に映る仮面の狂人は、そんな無音の責め立てる言葉に、悪の首領らしく余裕に満ちた笑みを浮かべて悠然と応える。
「奴らの正義がそれだけ脆かっただけのことよ。わしの求める世界に、あのようなか弱き正義の生きる場所はない」
自警法の認可を取り消された鳴矢が、自身のために超能力を使えば、きっと世間は彼女を危険な超能力者だと見なすだろう。
もし魔界が人間界に侵攻を決めたとしたら、真摯に共存の道を求めてきたアスィファのことを、世間はきっと〝敵国のスパイ〟として敵視し、糾弾するだろう。
少数の正義は、多数にとっては〝悪〟に過ぎない。
「なに、奴らが世間から悪と見なされるようになってしまえば、わしの配下に誘い込んでしまえばよいだけのこと。いっそ魔王の誘いに乗るのも悪くはあるまい」
鏡の中の狂人は、あくまで独善的な態度で無音に対して高圧的な言葉を浴びせる。
「だが、ライブリー・レッドは理想の正義の味方の姿だ。彼女だけでいい。あれが本来の正義の姿なのだ」
「蓮花さんは……正義の味方という仮面を外せば、普通の女の子なんだ。仲間と一緒に戦えないことに、深く傷ついてる」
「正義とは孤独なものだ。彼女をより強い正義へと研ぎ澄ますために必要な儀礼だ」
「それでもし、彼女が折れてしまったらどうする?」
「そのときはまた、別の正義が育つのを待てばいいだけのこと。弱く折れてしまう正義などわしは求めてはいない」
「お前はそれでいいかも知れない……でも、僕はそうじゃない。そうは思わない」
「それは貴様の願望だ、黒間無音。決してわしの野望ではない」
「お前は……僕じゃないのか?」
傲慢で、独善的で、目的の為なら犠牲を省みない――この仮面の狂人は、一体何者だ。
――この鏡の中に居る男は、一体誰だ?
恐怖を抱きながら無音の心の言葉に応えるように、鏡の中の男が、にやりと嘲るような笑みを浮かべて応える。
「わしは黒間無音の願望でも、黒間遍音の亡霊でもない。悪の組織〈SILENT〉の首領、クラヤミ総帥だ」
自分は今まで、何もかも人に任せてきってきた。
自分自身が正義の味方になろうとすることもなかった。
悪の首領すら、〝クラヤミ〟という別の人格に押しつけてきた。
形を与えられた理想は、決して自分の体の一部ではない。それぞれの目的を持った自我として形を変え始めているのだ。無力な少年の願いなど、聞き入れられることもなく。
「総帥、少し宜しいでしょうか?」
クラヤミとの会話を遮って――といっても、端から見ればただの自問自答なのだが――扉の外から、ふと参謀の夜野がノックと共に声を掛けてきた。
無音は慌てて仮面をはめ直すと、扉に向かって短く「入れ」と促した。
「失礼します……お一人でしたか。どなたかとお話中だと思ったのですが」
執務室をぐるりと見渡した夜野は、怪訝な表情を浮かべる。
「いや、少々電話をかけていただけだ」
「ああ、そうでしたか」
夜野は手にしていたポットとカップの乗ったトレイを、そっと机の上に置く。カップは二人分用意してある。どうやら客人が来ていると思い込んで気を利かせて用意したらしい。
妙なところで勘の鋭い参謀だった。
「一人分、無駄になってしまいましたね」
「いや、そんなことはない。一つはお前の分だ。茶飲みに付き合ってもらおう」
「……ええ、承りました。では、お注ぎいたしますね」
夜野は柔らかく微笑んで、二つのカップにお茶を注いでから、それぞれクラヤミと自分の前に置く。
二人はカップを傾け、湯気の立つ紅茶を静かに啜り始める。どちらも無言のままだ。
紅茶が残り半分まで減ったところで、ふと夜野が思い立ったように声をあげた。
「実は、折り入ってお話したいことがあって参りました」
「ほう。とうとうこの組織に嫌気がさして辞職の願いに来たか」
「それだけは決してありませんのでご心配なく」
冗談なのか本気なのか、夜野はきっぱりとした口調でクラヤミの冗談をはね除ける。
「先ほどの〈逆十次社〉の誘いですが――総帥は、どうお考えなのですか?」
「ふむ。あやつらは争いの為に争いを求める組織だ。目的さえ一致していれば、まだ助力を求めることも考えたのだが、少なくとも手を組むことは考えていないな」
「では、目的が一致する相手だったら、共同して事を起こすつもりだったのですね?」
「……しまったな。まだ、隠しておくつもりだったのだが」
温かいものを飲んで、気分が和らいでしまったせいだろうか。
うっかり思惑を口にしてしまっている自分に気が付く。
「【修正自警法】はやはり見過ごしてはおけん。とにかく本会議の採決はなんとしても妨害せねばなるまい」
「……国家権力への攻撃は、明確な国家に敵対する行為です」
「ああ、単なる犯罪集団では無くテロ組織として昇格してしまうな」
「その後はどうされるおつもりですか? 一度の採決を無効にしたとしても、それはただのその場凌ぎです。この組織の戦力では国家そのものと戦い続けるには限界があります」
「そうだな……そのときこそ、本当にこの国を征服せねばならんな」
「なるほど。つまりこれで、賛成1票、中立1票、反対2票というわけですか」
夜野に言われて、クラヤミはふと思い出す。先日の幹部会議のとき、【修正自警法】に対する全員の考えを照らし合わせた結果、夜野の言うような結果に落ち着いた。
だがその時、答えを出していなかった人間が二人居る。クラヤミ総帥と、そして今目の前に居る夜野帳、その人であった。
「申し訳ありません、総帥。私は、賛成に一票を入れさせていただきます」
「なんだと、夜野……!?」
「賛成というより、正確には黙認すべきだと私は思います。少なくとも〈SILENT〉がこの法案に対して何らかの行動を起こすべきではありません」
今まで忠実に自分の考えに賛同してきてくれた夜野の思わぬ裏切りに、クラヤミは慌てた様子でその真意を問い質す。
「これで反対と賛成は同数です……それでも法案の阻止に臨むというのでしたら、もちろん私はそのご命令に従う覚悟はあります」
「そういう問題では無い。貴様は……わしが世界征服することを望んでいたのではなかったのか?」
「はい、その通りです」
夜野は淀みのない口調ではっきりと答える。
「私が見たかったのは、あなたの世界征服です。でも、今あなたがなさろうとしていることは、違います」
夜野は〈SILENT〉の古株の一人として、クラヤミの姿を最も近くで見てきた。
クラヤミ総帥という独善的な悪の姿に心酔し、その身を捧げてきた。
そんな彼女だからこそ、気づいてしまったのだろう――彼の中に生まれてしまった、人としての揺らぎの部分を。
「あの吸血鬼と話したあとから、あなたの言葉はどこか弱気に感じます。いつものような堂々とした重みがないというか……仮面の下にいるあなたが、別の誰かに入れ替わってしまったのではないかと、心配してしまうほどに」
夜野の言葉は、無音の心を的確に貫いていた。
今の自分はクラヤミ総帥ではない――自分の中で膨れあがるクラヤミという人格に抗おうとする、ただ仮面を被っただけの少年に過ぎない。
組織の外部だけではない。組織の内部も、無音という個人の心も、全てがチグハグで噛み合わず、それぞれが自分の思惑をもって違う方向を向いてしまっている。
「だが我々の葛藤など、世界という巨大な濁流に飲み込まれてしまうだけだ」
「あなた自身が、世界になるしかないのです。何もかもを飲み込む巨大な闇に」
「……わしが求めるのは、正義に満ちた世界だ。闇に包まれた世界などではない」
「いいえ、総帥。きっと、深い闇の中でこそ、たった一つの光が輝くのです。きっとその小さく尊い光が、あなたの求める本当の〝正義〟の姿ではないですか?」
「貴様の言っていることは正しい。だが、わしの見立ては違う」
「と、申しますと?」
人とは生まれついての悪だ。正義の不在を問わぬまま、沈黙し、誰もが自分の悪に目を背けながらあるべき正義に背を向けて生きている。
「この世界は、最初から闇に包まれている。わし一人など居なくともな」
もしその中で輝き続ける光があるとするならば――きっとその光は、燃えるような赤色なのだろう。
願わくば、もっと色とりどりの光に溢れた世界であって欲しいものだが。
いつだったか、漆原が他愛の無い会話の合間に投げかけてきた問いを思い出す。
――「その、正義に満ちた世界ってのは、何がどうなったらやってくるものなんですか?」
あのときは出すことができなかった問いの答えを、クラヤミはおぼろげながら掴みかけるのだった。
「これまでのまとめ」みたいな話にする予定で書いてたんですけど
たたもうとするそばからあっちこっちで風呂敷が広がって収拾つかない感じに




