5.量子仕掛けの林檎
「あっ、首領。ちょうど良いところに。実は、困ったことがありまして」
「お前はいつも何かにつけて困っておるな、参謀」
〈SILENT〉本拠地内の廊下を進んでいたクラヤミに、困った表情をした参謀の夜野が駆け寄ってきた。
彼女は厳重に閉ざされた一つの鉄扉の前で、クラヤミが来るまでずっと立ち尽くしていたらしい。
「あの、お手間を取らせてしまって申し訳ないのですが……」
「気にせず申してみよ。貴様が無能でないことなど、今までの仕事ぶりをとうに知れておる。そのお前が『困った』と言うのだ。手を貸さぬわけにはいくまい」
「っ……総帥! そう簡単に、人を褒めてはいけません。あなたはご自分の立場が分かっておいでなのですか!? 部下をつけあがらせ、怠けさせてしまいます!」
顔を真っ赤にした夜野は、なぜか突然怒った声で叱責を始める。
さすがのクラヤミも困った表情を浮かべて問いかけを返した。
「そ、そうは言うが、参謀。貴様に限って慢心することなどないだろう」
「で、ですからっ!!」
夜野は赤らめた顔を俯かせて、きっちりと折り目の付いたスーツの裾をくしゃくしゃに握り締めながら、絞り出すような声で続ける。
「わっ、私だって、人間なんですから……浮かれたり、照れたりすることは、あります」
「ええと、それは……なんというか、すまなかったな。忠言、痛み入る」
「わ、分かっていただければいいんです」
夜野は顔を上げてクイッと眼鏡をあげ直すと、再びいつもの冷徹な表情を取り戻して屹然とした声を上げる。
頬にはまだ少し、火照った赤みが残っていたが。
「それで、困っておるというのは、一体何なのだ?」
「それが幹部報告会の招集をかけるために、一応ノワール博士の部屋を尋ねてみたのですが、何度呼び鈴を鳴らしても返事がなくて……まあ、あの方が部屋に閉じこもっているのはいつものことなのですが」
「仕方があるまい。あいつは生来きっての出不精だからな」
「それにしても行きすぎです。食事は毎日部屋の中に運ばせている栄養食品だけ。部屋からは一度も出てこない。私を含め、組織の誰も、博士の顔も姿も見たことがないんです」
「それを言うなら、わしだってこうして顔を隠しておるではないか」
「それは確かにそうなのですが、総帥は少々気楽にお出かけしすぎなので、ちょうどバランスが取れているものと推察いたします」
「なるほど。では、これからも積極的に基地の中をほっつき歩くことにしよう」
「私がいつも困っている理由の一つは、あなたの〝そういう性分〟によるものだという事実だけは、どうかお忘れなく」
クラヤミが顔を隠していることについて、組織の人間達は「中身が信用できるから」とあまり気にしなくなっている人間が多い。漆原などが良い例だ。
だが、ノワール博士の場合は全く話が異なる。
ノワールは自身の姿を現すことなく、通信機越しに戦闘員達にアドバイスを送ったり、工房へいきなり新兵器の設計図を送りつけたりと、まるで組織を裏から操っているかのような振る舞いだ。
毎日の食事も、当番の人間が栄養食品の箱を部屋のポストに入れておくよう指示してくるだけで、外に出てくることは一切ない。
本人の皮肉ぶった口調も手伝って、ノワール博士は一体何者なんだ――あるいは、何様なんだと、疑問や反感を抱いている構成員は少なくない。
「あの……私があなたの傘下に加わりたいと申し出たとき、総帥は『お前は三人目のメンバーだ』と私に仰いましたよね?」
「ああ、そうだったな。思え返せば感慨深い……あの日、我ら二人が出会えたからこそ、〈SILENT〉はここまで大きな組織にできたようなものだ。いつも感謝している」
「そ、そんなっ! この組織をここまで大きく育てられたのは、あなたがいつも懸命に努力しておられるおかげです。おそばで見ている私が、一番よく知って……いると言いたいところですが、二人目のメンバーの方には負けてしまいますね」
夜野はさきほどから、表情にどこか沈んだ様子が見える。
クラヤミは彼女が何を言いたいのか、考えあぐねながらも言葉を返した。
「つまり、『二人目は誰なのか』と気になっていて『それがノワールなのではないか』と思っておるわけだな?」
「はい……つまりは、そういうことになります」
考えてみれば、夜野が『三人目のメンバー』だと知っているのは、組織の中でも夜野本人だけだろう。
他の構成員は皆、彼女を『二人目のメンバー』だと思っているに違いない。
彼女に対するクラヤミが厚い信頼を置いているのは周知の事実だし、夜野自身も総帥に心酔してしまっていることもまた同じだ。
そんな二人より長い付き合いの人間が居るなど思ってもいないはずだ。
「まあ……隠していたというわけではないのだが、ノワールは気難しい奴でな。あまり自分の素性や正体を詮索されるのが好きでは無いのだ。あいつが二人目のメンバーだと知っているのは、組織ではわしと貴様だけということになる」
「では……総帥は、ノワール博士が何者なのか、ご存知なのですか?」
「それは勿論だ。わしの組織に加わる以上、その素性は知らせてもらわねばならぬ」
「それでは……逆に、ノワール博士はあなたが何者かを、ご存知なのですか?」
問いかけられた途端、クラヤミの――仮面の下に潜む無音の目が、大きく見開かれた。
「ふふ……貴様は本当に賢く、頼りになる、わしの自慢の右腕だ」
「ええと、それはどういう……?」
「その優秀さは貴様の武器だ。だが、〝それ〟をわしに向けるということが、どんな意味を持つのか、貴様なら理解できるな?」
「いえ、そんなつもりはありません! ですが、ただ……」
「ただ、何だ?」
言い淀む夜野は、たどたどしい口調で言葉を続ける。
「二人目のメンバーということは、お二人の付き合いは短くないのでしょう。だから、博士とあなただけが知っていることを、私達が知らないのは、少し、寂しく思います」
「……それは、その、なんだ? つまり、拗ねておるのか?」
「有り体な言い方で恐縮ですが、そういうことになります」
「ふっ……ははは! 意外と貴様にもそんな子供っぽいところがもあるのだな、参謀」
「っ……〝正義の味方〟を本気で信じているようなお方にはとても敵いませんけどね!」
考えてみれば、夜野は組織の構成員の中でも、かなり異色な立場に居る。
彼女はクラヤミの〝世界を正義で満たす〟という志に共感したわけではないし、真っ当な道に戻る手段だっていくらでもある。これだけの器量があれば、どんな社会でも上手くやっていけるに違いない。
なのに彼女は、自ら進んで〈SILENT〉に加わる道を選び、今も参謀として野望に邁進するクラヤミのことを健気に支え続けてくれている。
彼女が何を求めて自分についてきてくれているのか、クラヤミは本当の意味で理解できてはいなかった。
「貴様は、よほどわしの仮面の下が気になるようだな」
「……包み隠さず申し上げれば、その通りです」
「まあ、それを咎めるつもりは無い。好奇心というのは人のサガだ。いつかこの組織の理想が成就される日が来たならば、そのときは明かしてやっても良いだろう」
「ほ、本当ですか!?」
「もっとも、いつになるかはわし自身にも分からんのだがな」
露骨に声を弾ませる夜野を後ろに置いて、クラヤミは一つの分厚い鉄扉の前に立つ。
横にあるインターホンを押すと、その部屋の主にぶしつけな口調で声をかけた。
「おい、ノワール。貴様に部屋から出ろというつもりはないが、せめて返事ぐらいはしたらどうなのだ」
『あれ、ヤミーじゃん。良かったら入りなよ』
気軽な返答と共に、鉄製の分厚い扉からガチャリと鍵が外れる音が鳴る。
あまりのあっけなさに、夜野帳は大げさに苦悶のため息を吐いた。
「私があれだけ呼びかけても返事すらなかったというのに……」
『だってトバリン、部屋から出てこいってうるさいんだもん。返事する気もなくなっちゃうよ』
ノワールは何の悪意も無く、本心をありのままに口にする。
いかに天才科学者と言われていても、その内面は口ぶり相応に幼いらしい。
「そう無碍にするな、ノワール。あいつはお前の身を案じておるのだ」
『別に僕なんかのこと気にしなくてもいいって、毎回言ってるんだけどね。どうして理解してもらえないんだろう』
「理解し合えないことを確認するのも、人と人が関わるためには必要な儀式なのだ」
『それは人間という信仰を抱える者同士だけでやってほしいものだね』
「……まあいい、立ち話もなんだ。招かれたからには部屋に入るぞ、ノワール」
『いらっしゃい、ヤミー。あ、トバリンは入って来ちゃダメだよ』
「言われなくてもそのつもりです。後は総帥の手腕にお任せいたします」
あまりに人の話に聞く耳を持たないノワールに対して、さすがの夜野も不機嫌を露わに言葉を返す。
参謀には申し訳ないが、仕方のないことだ。
クラヤミは開かれた扉を潜りながら、心の中で背後の参謀に詫びを入れる。
彼に、人の心を理解しろと言のにそもそも無理があるのだ。
『――やあ、ヤミー。僕の〝中〟に入ってくるのは久しぶりだね』
「不気味な言い回しではあるが、確かにその表現はしっくりくるな」
暗く広大な部屋の中には、人の姿は一つとして見えない。
ただ、巨大な金属の円筒だけが、柱のように部屋の中心に屹立している。
円筒の外周からは、人の胴ほどの太さを持つケーブルが、四方八方に伸びて、壁にある端子に接続されている。
まるでこの巨大な本拠地の、金属で出来た〝心臓〟のようだ。
部屋の主であるノワールの声は、その円筒の中から響いていた。
『ようこそ総帥、ぼくのお腹の中へ』
当人が言うように、この部屋そのものが、彼自身だと言っても差し支えない。
〈SILENT〉の頭脳、天才ノワール博士――その正体は天才少年でもなければ、人間ですらない。
生前、無音の祖父である黒間遍音は様々な発明を無音へと託していった。
そんな数々の発明品の一つに、一部屋ほどの大きさを持つ巨大なものもあった。
人類初の量子コンピューター〈NOIR〉。
その中に宿る仮想人格型マン・マシーン・インターフェイス。
つまり、言った所の人工知能が、ノワール博士の正体だったのだ。
『ナオト。その仮面、外したらどう? どうせ、知らない仲じゃないんだし』
「悪いが遠慮しておく。この仮面を被っていなければ、わしはクラヤミでは居られんのだからな」
つくづく、あの参謀は察しが良いとクラヤミは思った。
ノワールは、黒間遍音が遺した研究成果の一つでもある――つまり彼は、黒間無音のことも当然知っている。
組織内で唯一、クラヤミの正体を知っている人間なのだ。
人工知能という存在を、人間であると認めるならばの話ではあるが。
『おかしいな。その仮面に、人格に影響を与えるような装置はついていないはずだけど』
「さっきも言っただろう。これもまた、儀式のようなものだ」
『確かに仮面を被ってるときのヤミーは、アマネにそっくりだ。死んだ人間と関わるために、君はそうして儀式を続けているわけだね』
「わしは黒間遍音に対して、幼い頃の記憶しかないのだ。自分ではそんなつもりはなかったが、無意識でその影を追っているのかもしれない」
『ヤミーは本当、変な人間だよね。面白いよ。だから見ていて飽きない』
「……人工知能であるお前に、面白いなどといった感情はあるのか?」
『アマネはぼくに「面白い」という感情を組み込んでくれた。そして、それ以外の感情は最低限しか与えなかった。ぼくの論理機構には、面白いか面白くないか、それしか判断規範が持たされてないんだ』
「なるほど……では、〈SILENT〉の活動は面白いか?」
『面白いよ。とても面白い。けど、最近は、少しつまらなくなってきた』
「……どういう意味だ?」
知性の怪物と呼ばれた科学者が生み出した、人間を遙かに越える知性を備えた存在。
ノワールの量子仕掛けの頭脳は、組織の現状についてあっさりと断じてしまうのだった。
わざわざ鍵にロックとルビを振ってしまう程度のモンスー脳




