2-2.夜の帳が明ける頃
親が作った借金を返済するため、闇の組織に身を売られる。
そんな冗談みたいな状況の当事者に自分がなってしまうなんて、少女は今まで思ってみたこともなかった。
目隠しをされ、腕に手錠をかけられ、黒服の大男達に黒塗りの高級車へ押し込まれ、こうして港へ向かっている現在ですら、いまいち実感がついてこない。
貧しいながらも倹約に努め、慎ましく普通の高校生として生きてきたはずなのに。
この目隠しが取られたら、自宅が目の前にあって、全ては冗談だったと言われて、安心して床につきまた明日から学校へ向かうことになる。そんな想像をしてみて、つい自分で苦笑してしまう。
どうして、ただ普通に生きるということが、ここまで遠く感じるのだろう。
希望を持つのをやめるのと同時に、取り留めの無い絶望と暗鬱さが胸に満ちていく。
このまま港について、船に乗せられ、どことも知れぬ外国へ送られ、その後どうなるかだなんて想像したくもない。したくないが、できてしまう。
どうせなら、今のうちに舌を噛み切った方が利口じゃないか。
そんなことを本気で思い始めたときだった。
「……ハァ!? 組が壊滅した? お前、自分で何言ってるのかわかってるのか?」
静寂に包まれていると思われていた車内に、男の怒鳴り声が突然響き渡った。
目隠しをされていて分からないが、男はどうも電話の向こうの誰かと話をしているらしい。
「落ち着いて一個ずつ話せ。事務所が襲われて、それでボスが捕まったって? 一体、どこの組織の仕業だ。まさか、警察のガサ入れじゃ……はあ!? お前、クスリの使い過ぎで頭イカれたんじゃないのか?」
男は呆れかえったと言わんばかりの声で、こう続けた。
「〝変な仮面をかぶった変態〟一人に、うちの組が潰されたって? バカは休み休み言え。あと、クスリはいい加減やめとけ。それじゃあ切るぞ」
それだけ言って男が通話を打ち切ると、車内はそのまま、不気味な沈黙に包まれた。
何か、この状況が、変わろうとしているのではないか。そんな微かな期待を、少女は胸に抱きながら、時が過ぎるのを待った。
それからしばらく経ち、少女は車をおろされ、目隠しが取られた。
最初に目に入ったのは、人買いの船でも、自宅の家の扉でも、不幸な現実でもなかった。
あまりに形容しがたい、信じられないような非現実だった。
死屍累々を体現するかのように、地面に倒れ伏す組織の構成員らしき男達。
その中心で、腕組みをしてふんぞり返る、奇妙な仮面を被った変な男が一人。
男は少女にも理解出来る言葉で到底理解出来ない話を始めた。
「貴様らで最後か。抵抗する気があるのなら、そこに転がっている連中のようにかかってくるがいい」
どうやら言語能力があり、日本の文化は理解しているらしい。
だが、本当にあれは、地球に生まれた、自分と同じ人間という生物なのだろうか。まずそこから既に疑問だった。
彼が身につけているのは、奇妙な仮面だけでは無い。時代錯誤にも、黒い鎧で全身を覆い、勇ましくもマントまで背中にたなびかせている。
まるで、非現実の世界から抜け出してきたかのような異質さがそこにあった。
「たった今をもって、貴様らの組織は我が秘密結社〈SILENT〉によって叩き潰され、そして吸収されることになった! 我が野望の礎となることを誇りに思え!!」
男は高らかにそう謡い上げるが、聞いている者など一人も居ない。
地面に倒れ伏す男達は殆どが気絶しているし、目覚めても逃げ出してしまうばかりだ。少女を車でここまで連れてきた男たちも、いつの間にか乗ってきた車で逃走してしまっている。
そんな状況を知ってか知らずか、男は更にワケの分からない演説を独善的に進める。
「現在我が〈SILENT〉は、わしを含めて総員たった二名のみの弱小だ。そこで、今から入会希望者を募りたいと思う。わしについていきたいと望む者がおれば、直ちに手を挙げよ。誰であろうと構わん。歓迎しよう」
仮面の男は、倒れ伏す男たちに向かってとうとうと語り続けるが、話を聞いている人間も、手を挙げる人間も一人として居ない。
当たり前のように、辺りは静寂に包まれたままだ。
「むう……今回も収穫無しか。もう、三つも〝ヤミ組織〟を潰してきたというのに。もうそろそろ潰す当てが無いぞ」
男は不満そうに呟くが、今この場で、彼の言葉に耳を傾ける人間は一人も――
――いや、違う。
一人だけ、ここに、居る。
「はい」
少女は最初、その声が誰のものか気づかなかった。
「私、あなたについていきたいです」
言ってしまった後で、それが自分の発した声だと気づいた。
男はしげしげと少女の顔を見つめると、得心がいったように言葉を漏らす。
「貴様は……なるほど、こいつらの〝商品〟にさせられるはずだった者か」
「はい。私は、昨日まで普通の女子高生でした。喧嘩はできませんし、悪いことのやり方も知りません。けれど、あなたについていくことなら出来ます」
「家に帰り、普通の生活に戻りたくはないのか?」
「自分を守る為に私を売った人たちの所なんて、戻りたくありません」
「なるほど。それで貴様、名は何という?」
「私にはもう、名乗るべき名前も、帰る家もありません。あなたがお好きなようにお呼びになってください。好きなように、この身を使ってください」
「……よろしい。わかった。悪は堕ちる者を拒まん」
そう言うと男は、背中に負っていたマントを大きく広げ、少女の方へ投げ渡す。
宙をふわりと舞ったマントは、少女の肩の上に降りてその身体を覆う。
深い闇色を纏った、まるでカラスの羽根のような質感だ。
「そんな格好では風邪を引くぞ。我が組織の一員として働く以上、まずは健康を第一に考えてもらう。これは総帥の命令だ」
「はい。あなたの仰せのままに」
そういえば、自分が着ている服は、連れてこられたときのままだ。
今日は就職面接に向かうためスーツを着て家を出たのだが、帰ってくると同時に待ち構えていた人買い組織に連行されてしまった。
海辺にほど近いこの場所は、まだ夜明け前ということもあり、凍えそうな寒さだ。
そんな冷え切った身体を、男が渡してくれたマントが暖かく包んでくれた。
ついさっきまで、変な格好だと思っていた自分が、なんだか恥ずかしく思えていた
「今から貴様は、我が秘密結社〈SILENT〉の三人目の構成員、夜野帳としてわしに仕えよ。異論があれば申すがよい」
「いえ、謹んでお受けします」
そして、ついさっきまで、あんなにも自分の先行きに絶望し、自由を奪われることに恐怖していたというのに。
この男の言葉に身を委ねることに、不思議と抵抗は持たなかった。
視線をふと上げると、空が白み始めていることに気がつく。
夜の帳が明ける頃。
一夜にして、少女のの目の前に広がる世界は、目の覚めるような闇色へと変わっていた。
「ですが、二つお聞かせください。あなたのお名前と、あなたの組織の目的です」
「おお。その説明もまだしていなかったか……よく手を挙げる気になったものだ。その会社が何の事業をするかも知らない内に就職希望を出すとは、肝が据わっておるな貴様は」
「私は、目の前にある現実しか信じません。今目の前に居るあなたが、私の運命を変えるほどの力を持っていると理解しました。だから、そんなあなたについていくのが、正しい判断だと確信しています」
少女――あらため夜野帳は、淀みの無い口調ではっきりと言い切る。
たとえ自分が信じてきたものを否定することになっても、目の前にある現実をあるがまま受け入れる。そうした自分の本質に、夜野は今まで生きてきて初めて気が付いた。
「それで、質問のお答えは」
「そうだな。わしの名は、クラヤミ総帥。世界征服を企む悪の秘密結社〈SILENT〉の首領……という設定だ。今のところはな」
「設定、ですか……?」
「なぜならわしの目的は、この世界を正義に満たすことにあるからだ」
クラヤミと名乗るその男は、思い付いた悪戯を自慢したがる子供のように、無邪気な笑みを唇の端に浮かべる。
その〝設定〟という言葉に秘められたとんでもない現実を受け止めるのに、夜野は長い時間を要することとなった。
そして今もまだ、その現実を、受け止め切れてはいないままだ。
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初めて出会った日の衝撃的な記憶を反芻しながら、夜野帳はいまだ眠り続けるクラヤミに向かってそっと呟く。
「あなたはいつになったら、この世界を、変えてくださるのでしょうか」
――私の世界を、たった一晩で変えてしまったあの夜のように。
彼が、この甲斐のない世界を変えてくれると信じて、あのとき手を挙げたというのに。
〝世界征服〟という崇高な目的が、ただの〝設定〟だと伝えられて、ひどくショックを受けた。そのときの衝撃を、夜野はまだ、受け止め切れてはいない。
どうして本当に世界を変えようとしてくれないのかと、内心ではいつも苛立っている。
「あなたが一体何者なのか。こうして三年間仕え続けた今も、私にはわかりません」
彼が組織の運営資金を一体どこから手に入れたのか。数々の現実離れした技術や発明の数々は、どこから生まれたものなのか。
夥しい数の疑問を胸に抱きながらも、夜野はなんとか目の前にある仕事という現実だけを淡々とこなし、評価を受けてきた。
その会計や人事にかける能力は、自分でも驚くほどだった。
こなすべき業務は日々刻々と増え続けるが、夜野は参謀としてその全てを一手に引き受け処理している。どうせ、この組織が自分にとっては家そのものだ。家計の管理をやっているのと気持ちの上では何ら変わりない。
あれから、自分と同じように総帥の苛烈な人間性に引き寄せられ、入会を希望する者は段々と増えていった。組織もたった三人の集まりから、世間のアウトローを一挙にまとめあげる巨大な組織へと変わっていった。
最近では、所属していた組織を潰された末端の構成員達が「やはり自分も仲間に入れてくれ」と掌を返して参加希望を出してくることも多い。
人身売買組織に売られそうになっていたはずの少女は、現在では〝元ヤクザの会計士〟とか〝元ヤミ金業者〟といった経歴を持つ同僚達に指示を飛ばして仕事をさせるまでに成長してしまった。
元ヤミ組織の出身者たちからも、〝経理の鬼〟〝人事の羅刹〟と恐れられているのだから、その手腕は並大抵のものではない。
総帥は未だ、自分の玉座で静かに寝息を立てながら眠りの中に居る。
ふと、悪戯心が自分の胸の内から湧き出すのに、夜野は気が付いた。
――この仮面の下に居るのは、一体何者なのだろう。
夜野は恐る恐る、寝息を立てるクラヤミの仮面に、手をそと伸ばしてみる。
もしその素顔が、とんでもない醜男だったとしても、自分の忠誠心は変わらないと自信を持って言える。逆に絶世の美男子だったとしても、大して敬意は変わらない。
口調の通り、八十過ぎの老人かも知れない。それとも、実は幼い少年かも知れない。
それでもいい。
ただ、あなたのことが、もっとよく知りたい。
その胸の内に隠す思いを、私に教えて欲しい。
帳は、仮面の硬質な表面に指を触れさせ、そして――
「ちょっと夜野さーん! 居るっすかー!? それとも居留守っすかー!!」
「わひゃあ!?」
夜野はいきなり背後から届いた大声に、少女のような悲鳴を上げてしまう。
部屋の入り口に立っていたのは、組織イチ空気の読めない男として有名な超能力忍者こと影内だった。
「鬼みたいにコエー夜野さんも、そんな女の子っぽい声出せるんっすねー。超意外」
「な、なんですか影内くん! ここは総帥の御前ですよ。入る前に、ノックぐらいしたらどうなんですか!?」
「さっきから何度もノックしたんすけど、聞こえてないみたいだから、誰も居ないかと思って入ってみたんすよ。あれ? ていうか総帥寝てるし」
「そ、そうです。総帥は日頃の激務でお疲れのご様子。ですから、騒がしくならないようにと思って――」
「ねえねえ夜野さん。ちょっと寝てる隙に、総帥の仮面取って見ません? 気になるじゃないっすか。総帥の素顔って」
「だ、ダメです! 絶対にいけません、そんなこと」
「じゃあさっき、仮面に手を伸ばしてたのは何しようとしてたんっすかねー」
「そ、それはっ……!!」
夜野がたじたじといった様子で口ごもっていたとき。
不意に彼らの背後で、もぞっと玉座で居眠りをしていたクラヤミが身体を起こした。
「む……いかん、眠ってしまっておったか。参謀、どれぐらいわしは寝ていた」
「いえ、ものの十分程度です。やりかけの書類は、私の方で片付けておきました」
「優秀な部下を持つといかんな。このままでは永遠に眠りこけてしまう」
「たまにはお休みになってください。健康を維持することが第一と私に仰ったのは、あなたではありませんか」
「三年も前に言った言葉を、よくもまあ覚えているものだな貴様は」
「それは総帥だって同じじゃありませんか」
夜野は心の奥で、クスリと苦笑を漏らした。
クラヤミは自分の顔についている仮面を、手で触って角度や位置をしきりに気にしている。
寝ている間にずれたりしていないか、気になって仕方がないのだろう。
「お前達、ワシが寝ている隙に、この仮面を外そうとせんかっただろうな」
「影内くんが外そうとしてました」
「夜野さんが外そうとしてました」
二人は悪びれのない様子で、お互いに指差し合いながら同時に声を上げる。
まるで父親に叱られた姉弟が、罪をなすりつけあうような醜い争いだ。
「まあ、外していないならいい。命拾いをしたな」
「い、命拾い……?」
「この仮面がわしの意思無く外されると、半径100メートルが吹き飛ぶ自爆装置が鎧の中に内蔵されているのだ。もっとも、そんな不忠義者は我が組織の中には居ないはずなので、心配はしておらんがな」
二人は青ざめた表情で、互いの顔を見合わせる。
そして、どうしてそこまでして素顔を隠したがるのかという疑問を、心の中で強くするのだった。
「それで影内、一体何があったのだ。参謀に用事があったようだが」
「それがっすね、総帥。夜野さんってばひどいんっすよ。せっかく俺が組織の為と思って色々と手を回してきたのに、その経費は全部自腹で払えって言うんですよ」
「あなたこそ、いい加減に反省したらどうなんですか影内くん。今まで何度も言ってきたはずです。私的な目的に組織の資金を使うことは許されません。経費から降りるようにしてほしければ、きちんと事前に許可を出して下さい」
「いや、構成員同士の結束を高める為に、突然資金が必要になることってあるじゃないっすか! カラオケ代とか合コン代とか!!」
「だから、それが無駄遣いだと言っているんです!!」
「いや、俺はこの組織のことを思って!」
「私だって、総帥の懐を守るという責務があるんです!!」
平行線を辿る二人の言い争いに、クラヤミは自ら仲裁に割って入る。
「落ち着かんか、貴様ら。今この場で結論を出すことはない。どうせこのあと、幹部会が開かれる。そこできちんと決着をつけるがよかろう」
「うっす。了解しましたっす」
「総帥が、そう仰るのでしたら……」
帰る家を持たない夜野帳は、〈SILENT〉のアジトで寝泊まりをし、朝起きてから寝るまで、生活の全てを組織の為に捧げている。
それを辛いと思ったことも、辞めたいと思ったことも一度としてない。
当初の三人だけだった頃に比べて大所帯になった組織を切り盛りするのも、大変さよりもやり甲斐の方が勝ってしまっている。
それでも一つだけ、願わずには居られない希望がある。
彼の〝世界征服〟という野望が、偽りのものでなく、いつか真実に変わる日が訪れることを。




