9.そして望まれぬ幕が上がる
まずいことになった。
どうしよう、総帥は絶対に私のことを許してくれない。
街外れにある廃ビルの屋上から、夜野帳は普段の冷静さを失った蒼白な顔つきで眼下に広がる情景を見下ろしている。
パンツルックのスーツに銀縁の眼鏡、まるでどこかの会社で秘書でもしているのが似合っていそうな凜とした美女。夜野帳は、秘密結社〈SILENT〉において総帥の右腕として参謀の役目を任されている。
だが、彼女自身に秘密結社を運営したり、悪巧みを企んだりするような才能や性格は別段持ち合わせていない。ただ経理や人事に関する仕事がとても優秀で、組織の運営に関する一切を任されているというだけだ。
だが彼女は、ほんのすこし、ミスを犯してしまった――しかも、無自覚ではなく。
「貴様らしくもないな、参謀。このような失態を犯すとは」
「そ、総帥……申し訳ありません!」
廃ビルの屋上に、黒い仮面と鎧を纏った男、クラヤミ総帥が姿を現す。
帳は振り返ると同時に、息せき切った大声で誤りながら深く頭を下げる。
十階建てはあろうかという廃ビルの屋上から、ほんのわずか目線を下げると、そこにはバスケットボールほどの大きさをした二つの半球がギラリと光を放っている。
それは、とてつもなく巨大なカマキリの複眼だった。
逆三角形型の頭部に、大木のような躰から伸びる四対の脚。そして前肢からは飛行機の翼みたいな大きさをした二本の鎌がぶら下がっている。
通常、10㎝ほどの体躯しか持たないはずの小さな虫が、十階建てのビルに頭が届くほどの異様な姿を得てしまっている。
「あれの封印は、特に細心の注意を払うように言っておいたはずだぞ、参謀」
「はい、仰る通りです……」
「いつも完璧な貴様の仕事ぶりには、信頼をしておったのだがな」
「……返す言葉もありません」
自分のほんの僅かな出来心は、とてつもない事態を引き起こしてしまっていた。
――もしこの怪物が逃げ出して暴れるようなことがあれば、きっと……。
そんなふとした思いつきに、魔が差してしまった。
具体的に何かをしたわけではない。ただいつも完璧にこなしてきた仕事上の伝達に、些細なミスをしてしまっただけだ。
それがまさか、ここまで大きな事態を引き起こしてしまうだなんて。
「まあよい。誰でも失敗することはある。気に病んでいる暇など与えんぞ、参謀」
「それは、私をお許し頂けるということでしょうか……?」
「許すも何もない。貴様が優秀だからと、何もかも任せ過ぎたわしにも責はある。少しでも悪いと思う気持ちがあるなら、仕事ぶりで取り戻してくれればいい」
「……ありがとうございます、閣下」
帳は唇を噛みながら、深く頭を下げる。こんな寛大で頼もしいお方を、自分の願望のために僅かでも裏切ろうとしてしまった自分のことを、ただ一心に悔いていた。
だが彼らが言葉を交わす間にも、事態は刻一刻と悪化へと向かっている。
巨大カマキリの十数メートル先に、ずらりと並んだパトカーの列が見える。
急ごしらえで作ったバリケードなのだろう。警官たちが、その頼りない壁に身を隠しながら、次々と手持ちの拳銃から銃弾を放って巨大な怪物へ発砲する。
だが放たれた銃弾は簡単に外殻に跳ね返されてしまい、傷一つ付かない。
巨大なカマキリは警官達の防戦など全く意に介することなく、ゆっくりと市街地へ向けて前進を続けている。
「総帥、ノワール博士と通信がつながりました」
「わかった、こちらに寄越せ」
帳が手渡した通信機をクラヤミ総帥は奪い取るように掴むと右耳に当てる。
通信機から聞こえてきたのは、明るく呑気な子供の声だった。
『やっほー、ヤミー。あのカマキリ君、逃げちゃったんだって?』
「『やっほー』ではないわ。今すぐあれを止める手段を教えろ。制御用の生体素子は組み込んでいないのか?」
『あれは僕の作品じゃないからね。そもそもあんな芸術性の欠片もない、破壊にしか使えない出来損ない、封印なんかじゃなくさっさと処分しとけばよかったんだよ』
「……無益な殺生は好まん」
『でもあれ、馬鹿みたいに強いからね。甘ちゃんなこと言ってるとめっちゃ人死ぬよ』
眼下で巻き起こる地元警察と巨大カマキリの戦況に、一つの変化が起きた。
大人の背丈ほどもある巨大な対物ライフルを抱えた一人の警官が現われたのだ。
その警官は地面の上に腹ばいになり、銃身を支える二脚を素早く接地して狙撃の姿勢を取る。そして、躊躇無くその引き金を引く。
辺り一帯に砲声が轟き、巨大カマキリの脚に、巨大な風穴が空いた。
『ちょっと何、今の音!? めっちゃうるさいんだけど!』
「すまん、ノワール。地元警察が対物ライフルを持ち出したようだ」
『なんだ、RPGとか手榴弾とかじゃないんだ。ま、どっちにしろ無駄だろうけど』
「どういうことだ?」
対物ライフルの銃弾が命中し、外殻の剥がれ落ちた部分からジュウジュウと肉を焼くような音と共に白い煙が上がり始める。
そして十秒も経つと、脚に空いた穴が綺麗に塞がれて元に戻っていた。
一連の光景を見守っていたクラヤミは、呆然とした声色で口にする。
「まさか、自己修復能力を持っているのか……?」
『警察の装備じゃあれの修復能力を上回るのは不可能だ』
「……ノワール。あの怪物、戦車でも持ち出さねば勝てぬのではないか?」
『当たり前じゃん。あれを作った組織は国を相手取ってテロ起こす気満々で作ってたんだよ。警察どころか並の自警団なんかじゃ相手にもならないだろうね』
ノワール博士の言葉を体現するかのように、巨大カマキリは無造作に片腕の大鎌をパトカーへ向かって振り下ろす。
仮にも金属のフレームで出来ているはずのパトカーは、まるで紙細工にナイフを振り下ろしたかのように、いともたやすく両断されてしまった。
車体をバリケードにして身を隠していた警官たちが、あっという間に散り散りになって逃げだし、態勢を立て直そうと後退を始める。
だが、あの巨大な怪物が市街地に到達してしまうのは、もはや時間の問題と言っていいだろう。
焦るクラヤミ総帥の背後から、息せき切った男の声が掛けられた。
「総帥、遅れてすいません! 戦闘員部隊、全員揃いました!!」
廃ビルの屋上に現われた男は、漆原。普段、怪人スーツを着て正義の味方達と戦う戦闘部隊の部隊長を任されている中年の男だ。
だがその格好は、頭にバンダナ代わりのタオルを巻き、顔は一面汗まみれ。片手には怪人スーツの頭部を抱え、首から下は怪人スーツを着たまま。まるで、ヒーローショーの楽屋裏から飛び出してきたかのような風体だ。
だが、その怪人スーツは表面が傷跡だらけになっている上、漆原が額に撒いたタオルにもうっすらと赤い血が滲んでいる。
そして漆原の後ろには、一般戦闘員である〈サイレンサー〉達がずらりと並んでいる。彼らも漆原と同じく、戦闘スーツがボロボロになった者が大半で、脚に包帯を巻いて隣の戦闘員に肩を借りている者まで居る。
「おい貴様ら、その怪我は大丈夫なのか!?」
「なんとか食い止めようとしたんですが、やっぱりいつも嬢ちゃん達を相手にしてるときの装備じゃ無理がありました……指示通り撤退すべきだったんですが、ちょっと粘りすぎました」
漆原は申し訳なさそうに苦笑を浮かべながら言う。
彼らには普段と同じように〈ライブリー・セイバーズ〉と戦うための装備で待機していたのだが、総帥の〝気まぐれ〟によって作戦は中止になり休暇を与えられていたはずだ。
だが彼らは自発的に集まり、〝本物の戦闘〟には向いていないスーツで怪物を止めるために果敢に抑止活動を行ってくれていたのだ。
「……済まない、貴様ら。わし一人の理想の為に、ここまで無理をさせてしまって……この償いは必ずする。だが、今は――」
「そこから先は言いっこ無しですぜ、総帥」
漆原は汗だくの脂ぎった顔で、爽やかな笑みを浮かべながら言う。
「俺たち全員、あんたの考えに惚れて〈SILENT〉に居るんだ。今はあれをどうにか止める。それ以外の考えは無しにしましょう」
「……わしは素晴らしい部下を持ったな。ところで、影内は一緒ではなかったか?」
クラヤミ総帥が訪ねたのと同時、彼の背後に突然一つの人影が出現した。
それはまるで、地面の影から人が生えてきたかのように、突然で一瞬の出来事だった。
「はいっ! お、お側に……ゼエゼエ、遅ればせながら参上したっす! 総帥!!」
立て膝をついて座るその男は、肩で息をしながら総帥の言葉に応える。
全身を黒装束で覆い、頭に黒いずきんを被った、もう誰が見ても「忍者だ」としか言いようがない格好の男だった。
だが頭巾の端々からは茶髪に染めた髪が僅かにはみ出していたり、耳には銀色のピアスを留めていたりと、どこか中途半端なコスプレ感が否めない。
「貴様、息が切れておるではないか。一応忍者キャラなんだから、もっと余裕そうな感じでスマートに出てこれんのか」
「〈瞬間移動〉って言ったって、使ってるエネルギーは自前の体力なんっすから、全速力で跳んできたらやっぱ疲れるっすよ」
影内はいかにも忍者っぽい立て膝の姿勢から立ち上がり、膝についた砂埃を雑に払う。
やはりどこか今時の若者っぽさというか、滲み出るチャラさが隠しきれていない。
彼は一万人に一人と言われる超能力者の中でも、更に希少な能力と言われる〈瞬間移動〉を持つ超能力者であり、普段は〈SILENT〉の工作部隊としての任務を担っている。
だが、その能力を活かした戦闘能力は組織の中でも群を抜いて高い。まさにクラヤミにとっての懐刀とも言える存在だった。
「……これで役者は揃った、というところか」
「そうですね。今、工房の方から〝本物の戦闘〟に耐えられるスーツを運ばせてます。あれが市街地に到達するまでに、間に合うかどうかわかりませんが」
ボロボロになった怪人スーツを脱ぎ捨てながら、漆原が溜息交じりに言う。
秘密結社〈SILENT〉に、あの怪物を止めるだけの戦力は充分にある。
普段はやられ役に徹している戦闘員達も、実はその一人一人が元軍人だったり就職先の見つからない超能力者であったり、或いは壊滅させた暴力団組織の構成員であったりと、本気で戦えば並大抵の相手には決して劣らない。
そもそも、そうでなければ本気で挑みかかってくる武装自警団達を相手に、怪我人を出すこと無く綺麗に敗北することなど不可能なのだ。
だが今回は、今までの戦闘とは本質的に事態が異なる。
「我々〈SILENT〉の総力を持ってあの怪物に対処する。あれを決して、正義の味方と戦わせてはならない。正義に敗北は許されないからだ」
「「「オッス!!」」」
クラヤミは真剣そのものな表情で集まった一同に向かって、語りかける。
あの正真正銘の怪物に、自警団たちが敵うはずはない。
おそらく本物の軍隊が出動する事態となり、戦車や装甲車といった武力によって事態は解決されることだろう。
だがそれは決して、クラヤミ総帥の――〈SILENT〉という組織に集った者達の理想とは確実に反してしまう。
正義が敵わない悪など、始めから存在してはならないのだ。
「総帥……一つ、お訪ねしたいことがあります」
「どうした、参謀。貴様は戦闘要員ではない、安全な場所に下がっておれ」
「いえ。だからこそ、私は私の役目を果たします」
こんな状況になってしまってもまだ、この悪の総帥を名乗る男に何かを期待してしまっている――そんないじらしい自分の本心を自覚しながらも、帳は問いかける。
「あの怪物が、我々の放ったものだと世間が認知してしまったとして……どのような名前で報道機関に発表しますか」
クラヤミの仮面で隠れていない口元が、一瞬だけ苦々しく歪む。
帳が訪ねているのは、あの巨大カマキリの怪物が街に到達してしまったとき――彼らの抑止が失敗に終わってしまったときにどうするのかと、訪ねているのに等しい。
最悪の事態を想定し、事後処理を進める。それもまた、首領の右腕たる参謀の自分がなすべき仕事だと、帳は考えている。
決して、そうなることを望んでいるわけではない。そう自分に言い聞かせる。
「……確かにいつまでも怪物とかカマキリでは、我々としても呼びづらい。あの怪物のコードネームは以降〈チャリオット〉と命名する」
戦車とは、本物の戦車を持ち出しでもしなければ対抗出来ない前代未聞の怪物には、あまりに似合い過ぎる名前だ。
そしてそのコードネームは数時間後、各報道機関を通して『〈SILENT〉が街に放った巨大生物』という謳い文句と共に市民へ告知されることとなるのだった。
長らくお待たせしてすいませんでした。
今回ちょっとキャラ増やしすぎたかも。




