廃 船ー第五福竜丸ー
保存活動が盛り上がる前からその地を何度も訪れ、その廃船を第五福竜丸と認識して、懸命にスケッチしていた一人の画家がいた。
画家は、80才を過ぎた今、薄れゆく記憶をたどりながら、その時のことを静かに物語る。
はじめに
1954年(昭和29年)、ビキニ環礁で米国の水爆実験により死の灰を浴びた第五福竜丸は、1967年(昭和42年)、廃船として夢の島に打ち捨てられた。その後、市民運動の高まりにより2年後の1969年(昭和44年)、保存委員会発足を経て、1976年(昭和51年)、夢の島公園内の、現『東京都立第五福竜丸展示館』に永久保存されることとなった。
保存運動のきっかけは、1968年(昭和43年)3月2日の『夢の島のゴミの中に第五福竜丸』の新聞報道、続いて3月10日、朝日新聞の投書欄に掲載された『沈めてよいか第五福竜丸』の報道だとされている。
しかし、実は、その前からその地を何度も訪れ、その廃船を第五福竜丸と認識して、懸命にスケッチしていた一人の画家がいたのである。
画家は、80才を過ぎた今、薄れゆく記憶をたどりながら、その時のことを静かに物語るのであった。
[1]平和展
「今日は、報道関係者がいるな」 と、画家、本田龍一は訝った。
小学生の一団が、ザ・タイガースの『モナリザの微笑み』を口ずさみながら前を通り過ぎた。
1968年(昭和43年)、ちょっとした拍子に秋の気配が感じられる9月のある日曜日、上野公園内の美術館は、いつもと変わらないギャラリー風景だが、その中に報道関係の腕章をつけた人がいることに、龍一はさっきから気になっていた。
高度成長の絶頂期、来月開会されるメキシコオリンピックに、人びとは、「東京オリンピックからもう4年、早いですね」 が挨拶の言葉となっていた。一方、戦争の記憶は、すでに歴史の彼方となっていた。
戦争で亡くなった人の肖像画が展示されているコーナには、被害者の関係者だろう、ある肖像画をじっと見つめている姿が見える。亡くなった被害者の肖像画を描く運動も10年になり、すっかり定着した。大きな入選作品の展示フロアーには、大小さまざまな作品が、戦争のモチーフを思い思いに表現している。
カメラマンを待っていたのか、その報道関係の男は軽く手をあげて会釈すると、フロアーに入って来たカメラマンとともに、ある作品の方に足をむけた。
事務局の仕事の合間にここに来て、何をするでもなく、壁際の小さなソファーに腰かけて人の出入りを見ていた龍一は、「あっ、私の絵だ」 と、とまどって目を伏せた。
「これかぁ、第五福竜丸の絵は…本当だ、夢の島のあの福竜丸と同じだ…うん、よく描けてるな」
カメラマンも同調するように、「そうですね、リアルですね」 と言う。そして、2枚の作品をカメラに収めた。
「こっちは、原爆ドームと第五福竜丸か、まさに象徴だな…ちょっとインタビューしたいな」 と、後ろを振り向いた。
それを察した龍一は、あわてて立ち上がり、人波にまぎれて展示フロアーを後にした。
龍一は、人と話をするのが得意ではない。もちろん、自分の作品に対する評価は気になるところだが、仲間内ならともかく、第三者からのインタビューには慣れていないし、なにより照れくさかった。事務局が詰めている小部屋に入った。毎年手伝いで来ている、絵仲間の奥さんから呼び止められた。
「ねぇ、本田さん、新聞記者の方が訪ねてきたわよ。なんでも、本田さんが画いた第五福竜丸について聞きたいって…」
「へぇー、なんだろう…」
「行って、説明してきたら」
「えっ?…うん、そうだね…」 龍一は、とぼけてみせた。
龍一は、戦時中、中学生の頃、軍需工場に早くから見習工として駆り出され、横浜大空襲に遭い、その後、父の実家がある山形県に疎開してそこで終戦を迎えたため、中学を卒業していなかった。そんなこともあって、学がないとの負い目から、あらたまった会話にどうしても引け目を感じてしまうのだ。
龍一は、「今日は、用事があって…」と言い残すと、そのまま帰ってしまった。
[2]記事
龍一は、帰りの道すがら、数か月前の新聞記事のことかな、と思った。それは、こんな内容だった。
”14年前の1954年、ビキニ環礁で米国の水爆実験で死の灰を浴びた第五福竜丸が解体業者の手にわたり、今、夢の島第十五号埋立地に打ち捨てられている”
この記事を読んだ時、龍一は、「自分がスケッチしたあの船だ」と直感した。やっぱり、そうだったのかと思った。しかし、受け止め方は、冷静だった。
すでに前の年(1967年)から、地元江東区の人たちの間では、船の胴体の名は『はやぶさ丸』となっているが、あれは『第五福竜丸』だとの噂を、材木の町、ここ木場の地を何度も足を踏み入れていた龍一は耳にしていた。従って、見た時、一瞬で「これは、第五福竜丸」だ、と直感できたのかもしれない。
龍一は、”原爆”と”死の灰”の象徴としての原爆ドームと、この第五福竜丸をなんとしても描きたいと思っていた。それ以降、龍一は、この場所に何回も足を運ぶこととなった。
[3]日曜日
1968年(昭和43年)、春まだ遠いある日曜日、製本会社に勤めるサラリーマンの龍一にとって、一週間のうち日曜日が、唯一、題材探しに自由に外出できる日であった(当時は、週休1日制)。
どんよりと肌寒い。今にも、雨が降りそうだ。北風が吹く。一瞬、ブルッとする。時折、ダンプカーが道あるところを不安定に走る。ごみを山と積んだダンプカーは、捨て場所を決めるや、バックを前後に数回繰り返し、一気に荷台を傾ける。ザッー、ザッー、バタン、バタン… ゴミが舞う。暫くの間、その一帯は、無遠慮に舞いあがったゴミで空気が灰色になる。そして、荷台を傾けたまま、再び、バタン、バタンと音を立てながら、来た道を探し探し帰っていく。見慣れた、いつもの光景だ。
[4]ゴミの上
龍一は、ゴミの上を歩く。ゴミが、果てしなく河・海とおぼしきところまで続く。ところどころ、土が見え、草が生えている。龍一は、ここに来るたび、今日も、「雑草は、ゴミの上でも、たいしたもんだ」と思う。
あらゆる種類のゴミが、山と積まれている。中には、今もりっぱに使えそうな物まで、身寄りのない迷い子のように頼りなげに捨てられている。しかし、龍一は何かを拾いに来たわけではない。目的は、決まっている。
ズブズブ、足がゴミにとられる。思わず、前のめりになる。もうこの辺までくると、道らしい道もなく、ダンプカーの出入りも途絶える。北風と海からくる風に、身体の芯が刺激を受ける。ブルッ、ブルッと二度震えた。
[5]打ち捨てられた第五福竜丸
海からの水が河のようになった水路に、河べりに左舷をやや傾けた木造船が、満身創痍ではあるが、今にも動きそうに横たわっている。しかし、実際に動かすことは出来ない。ここに捨てられた以上、内部の鉄めいたものはことごとく抜き、剥ぎ取られているはずだ。さすがに中に入る勇気はない。しかし、たまに出会う、電線・ケーブル・ビニール線などしこたまリヤカーに積んで帰る人を見れば、きっとこの船もそうだと思う。そして、「私自身も、燃やして金目のものをスクラップ業者に売る、こうしたリヤカーの人たちと同じかも」、また一方で「私がここに来るのは、決してこの廃船そのものではない。その象徴である”死の灰”を描くためだ」とも思うのであった。
「この船は、第五福竜丸にちがいない」 龍一は、はじめて見たときからこう直感した。それからというもの、日曜が来るたびに、こうしてここに足を運ぶのであった。第五福竜丸をリアルに描くことで、死の灰の恐ろしさ・理不尽さを表現するために。
この打ち捨てられた第五福竜丸をはじめて見たのは、偶然だった。いや、必然だったのかもしれない。龍一は、この時期、主体美術協会で知り合いになった中野淳先生(現、新作家美術協会代表、武蔵野美術大学名誉教授)から大きな啓発を受け、中野淳先生のような河と木材の風景画を画きたくて、木材の町である木場の地を頻繁に歩いては、スケッチしていた頃だった。
龍一は、少年の頃、父親の実家、山形県温海町で漁師をしていた経験から、海・船、とりわけ木造漁船に並々ならぬ愛着を抱いていた。そんなこともあって、木場の河・木材風景をスケッチするうちに、自然と海へと足が向かうのだった。そして、当時すでに悪名高かったゴミの島とのシンメトリーとしての、背後に浮かぶ海・運河・船の風景への興味から、ゴミの島の河辺を歩くことも少なくなかった。そんな時に、普段はだるま船が浮かぶ河に、ひときわ大きく、しかし淋しげに横たわるこの廃船を見たのだった。
見た瞬間、第五福竜丸と直感した。それは、平和展に出品する作品のモチーフとして、”死の灰”を描きたいと思っていた矢先のことであったこと、少年の頃、横浜大空襲に遭遇し、母親、三人の弟を死なすとの壮絶な戦争体験を経、同年の広島・長崎の原爆が実感としてとらえることができたこと、さらには、戦後、漁師の経験から木造漁船に愛着を抱いていたことなど、いろいろな要因が重なって、その廃船が一見して、密かに探し求めていた第五福竜丸と、直感せしめたのではないだろうか。
- 第五福竜丸 ー
1954年(昭和29年)3月1日、太平洋ビキニ環礁で米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ延縄漁船である。
水爆実験の威力は、広島の1,000倍とも言われている。第五福竜丸は、米国が設定した危険区域外で操業していた。午前7時頃、閃光が走って数分後ドーンともの凄い音がした。数時間後、キノコ雲が下からもくもくと上がった。そして、白い灰が雨と一緒に激しく降り注ぎ、それは、みるみる内に足跡が残るくらい甲板に積もったという。
乗組員23人全員が被爆し、無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなった。この事件は、国内外に大きな反響を呼び、世界を原水爆禁止運動へと動かした。
事件から14年が経過した。現実は、その第五福竜丸は、廃船となって、今、こうして目の前に打ち捨てられているのだった。
[6]スケッチ
龍一は、座る足場が確保できるように、出来るだけまともなゴミの地面を探して座った。
次第に、暗くなってきた。風が吹く。北風と海からの風がぶつかり、ビューッと耳元で音がする。寒い。また、ブルッとした。
龍一は、雨だけが心配だった。持ってきているのは、デッサン用のB4の画用紙と、2Bのえんぴつ等簡単な絵道具が入った小さなショルダーバックだけだった。
雨が降っては、デッサンは台なし。龍一は、平和展に間に合わせなければと、少し焦っていた。サラリーマンにとって、平日キャンパスに向かうのは、夜のひと時、龍一にとって、今、時間はとてつもなく貴重だったのである。
朝、出かけは、天気予報は雨はなんとかもちそうだと伝えていた。一応、折りたたみの傘の備えはしてきた。しかし、雨となれば写生は、即刻、中止だ。なんとかもってくれと念じつつ、画き残しの部分に手を加えていった。
目の前の船体は、木造船と言っても、長さ30m、高さ15m、幅6mと、堂々たる威風だ。これにエンジンをつけて、はるか太平洋の彼方までマグロ漁に突進したのである。龍一には、あこがれだった。戦後、一時期、父親の実家で漁師の経験がある。しかし、まだ少年だった龍一が乗ったのは、沿岸のいか・あわび・たこなど、あるいは、川に遡上するサケ漁などをする、7~8人乗りぐらいのエンジンのない木造船だった。同じ木造船といっても、その時に見た、エンジンを積んで遠洋漁業に行く船の雄姿は、比べようもなくりっぱに、誇らしげに映ったのである。
ますます、暗くなってきた。風もますます強くなってきた。ビュービュー、音をたてる。周りは野っぱら同然、風を遮るものは何もない。へたをすると、座っている腰が浮き上がりそうになる。この季節、今、龍一が着ている薄着のジャケットは、この天候の異変にはあまりに無防備だった。しかし、龍一は、風がどんなに強く吹こうが、雨さえ降らなければそれでよかった。
急きたてられていた。時間がない。えんぴつを進めるピッチが、速くなる。無我夢中だった。暗さがいよいよ、夜の帳を下ろす直前のような色に増す。画く手元が、危うくなってきた。画用紙が、風にバサーッと煽られる。左ひじを押し出し、スケッチしている所を守る。猫背の背中が、ますます丸くなる。ハタハタ、薄着のジャケットが後ろにはためく。ポツリ、ポツリ、「あっ、雨か?」 空を仰いだ。と、その瞬間、低空まで迫っていた真っ黒な雨雲から、大粒の雨が槍のように落ちるのが目に入った。ゴオーッ!! 「やばい」 と、思った。慌てて、今、まさに画き終えたスケッチの画用紙を切り取り、小脇のショルダーバックに詰め込んだ。入れ替わりに、折りたたみ傘を取りだした。ザァーッ! ゴォーッ! 猛烈な雨と風。あたり一面、水に覆われる。目を開けていられない。傘も、すでにおちょこになっては用をなさない。
足元が危うくなってきた。ゴミの中から、みるみる水があふれ出てくる。ズボッ、ズボッ、歩くたびに嫌な音がする。急激にゴミの堆積が緩んできた。
風で顔を煽られた拍子に、後ろを見た。河が水かさを増し、波立っている。強風と波で、第五福竜丸も上下左右に揺れていた。
龍一の頭に、ある光景が浮かんだ。
[7]ある光景(廃船の終焉)
それは、水路に浮かぶ木材・船をスケッチしながら材木の町、木場を歩いている時だった。経済成長とともに、環境問題としてゴミ問題のほか、木材を流す運河に、不要となった漁船を不法投棄する問題が、すでに社会問題化されていた。経済成長のスピードに追いつかない環境行政の遅れをいいことに無秩序に広がるこうした負の社会相を描くため、龍一は、日曜の今日も、木場の地でスケッチするのだった。
龍一は、スケッチに疲れた手を休め、立ち上がって背伸びした。そして、対岸の工場をバックに、どこから流れついたのか、あるいは勝手に捨てられたのか、何隻もの廃船が河に浮かぶ姿を眺めていた。
廃船といえども、河にたゆたう姿は、眺める分には心静まる光景だ。しかし、眺めながら少し物思いにふけっていくうちに、だんだんと哀愁が帯びてくる。少年の頃、木造船で魚をとった者にとっては、哀愁に郷愁が加わる。それは、あながち悪い気持ではない。むしろ、心落ち着く心地よい時間でもあった。そんな、ちょっと幸せな気分にひたり始めた、とその時、突然、ゴボゴボーッ! ゴボゴボーッ! とてつもない音が上がった。岸辺にたどり着く前に、船内に溜まった水の重みで河の真ん中で動かなくなっていた漁船の、水没の瞬間だった。沈まないように耐え忍んできた忍従の限界だった。
末路の寸前、ゴボゴボーッ! 波が回転した、それに合わせて廃船も回転した。と思うや、回転は、一気に渦巻きに変わった。 渦巻きが、あり地獄のように一点の底に向かって吸い込まれていく。ゴボゴボーッ! さらに、大きな音が上がる。廃船の舳先が、上に上がった。そして、その立ち姿のまま、あり地獄の渦巻と一緒に、回転しながらみるみるうちに一点の底へ沈んでいった。岸辺の大小さまざまな廃船も、その渦巻く波の勢いでぐらっと引き寄せられた。が、引き込まれまいと、船体を激しく揺らして必死に耐えていた。
ブクブクーッ! 音が少しトーンダウンした。それは、一艘の廃船の終焉だった。
龍一は、今、目前で展開された、廃船の最後の終焉に衝撃を受けた。ショックだった。だれにも看取られず沈んでいく…悲劇だと思った。あの耳に残るゴボゴボーッ!の大音響は、廃船の最後の叫びだったに違いない。川面にゆらゆら揺れている間は、そこに静かな哀愁を感じた。そして、それは人にノスタルジアともいうべき、一種、心落ち着かせるものに近かった。それなのに、その末路は壮絶だった。まさに断末魔の叫喚だった。
静と動の対極の光景を見た気がした。一瞬、命の意味を意識させられた。
人・物には必ず末路がある、この事実を、人・物は漠然と隠しながら、終焉に向かっていく。人が時に覚える哀愁は、最後の末路が近いことをどこかで予感するからだろう。末路が具象化できないほど、そして最後の末路が激しいと予感されるほど、人・物は哀愁の輝きを増すのだ。
[8]ショルダーバッグ
ズブッ、ズブッ… ゴミの山は、ゆるみ始めると速い。ズブッ、ズブッ…、足の着地点の感触が消えた。”やばい、もぐる” ズブッ、ズブブッ… あっと言う間に、腰までつかった。
前のめりになった。本当にやばいと思った。慌てて、右手で前のゴミをつかんでは、必死に掻いた。掻いては、ゴミにもぐった。今度は、掻いては、潜る前に足を押し出した。必死だった。このままではまずい、との思いで無我夢中だった。助けを求めたかった。しかし、だた広い、このゴミの野原に龍一以外に人はいない。求めても、無駄だ。今は、とにもかくにも自力でここを脱出しなければならない。必死にもがき続けた。しかし、こんな状況にあっても、龍一の左脇には肩にさげた小さなショルダーバッグがしっかり握られていた。画用紙はとっくに風で吹き飛んでしまっていたが、ショルダーバッグの中にはあの第五福竜丸を画いたスケッチが押し込まれている。龍一は絶対に離すまいと左腕に力を入れ、、バッグを小脇に抱え続けていた。再び、脳裏に以前見た、あの廃船が水の底に沈む光景がよみがえった。背後の第五福竜丸が、この風の中でギシギシと揺り動かされている情景がダブった。
「打ち捨てられた第五福竜丸、これだけは沈没させるわけにはいかない」 激しく、そう思った。そして、こうも思った。「私にできることは、絵として残すことだ」 と。龍一は、改めて小脇に抱えたショルダーバッグを握りしめるのだった。
[9]ダンプカーの温かさ
全身、ぬれ鼠だった、それ以上に、ゴミの汚物に全身汚れきっていた。ようやく、雨が小やみになってきた。もがき苦しみながら、なんとか道らしき道にたどり着いた。まだ、地面は雨の通り道となってはいるが、何度もここを訪れている者にとっては、知った道である。
1968年当時、江東区のこの地に、今の有楽町線『新木場駅』はなかった。従って、地下鉄東西線で当時開通したばかりの『東陽町駅』までは、1時間以上歩かなければならなかった。龍一に他の手段はない。見るも無残な格好でテクテク歩くしかなかった。
雨雲が消え、空は少し明かりが射してきた。とはいえ、濡れた身体に春先の気温はこたえる。ハクション! 大きく1回くしゃみをした。ブルッ、ブルッ、2度大きく震えた。しっかりショルダーバッグを小脇に抱え、少しでも中の大事なものに被害が及ばないようにと念じた。
執念だけが、頼りだった。身体はボロボロ、歩くことも叶わないほど疲れ切っていた。「駅までもつかな」 と心配になった。
ガタン、ガタン… 後ろから、ダンプカーが、荷台を完全に下ろしきらないままの格好で通り過ぎた。そして、前で止まった。横を通り過ぎようとした時、ダンプカーの運転席の窓が空き、中年の男が声をかけてきた。
「おまえさん、どこさ行くと? まぁええ、はよう乗れ」
「……」
「何しとる、風邪ひくどぉ。乗っけていくよって、はよ、乗れ」
「…えっ? いいんですか?」
「ええも悪いもなかぁ、この季節じゃ、その格好ば間違いなく風邪ひくよって、はよっ、乗れってば!」
「は、はい… ありがとうございます」 龍一は、助かったと思った。遠慮なく、助手席に座った。車の中は、暖房がかかっていた。温かいと感じた。しかし、あまりの温度差に、思わずおもいっきり、 ハクション!と、くしゃみが出た。
「ハハハ、大丈夫か」と言うなり、首に巻いていたバスタオルを無造作に龍一の頭にかけてやった。>
「これで、よくふけちゃ」
「はっ、はい、どうもすいません」 ハクション、ハクション… 今度は、くしゃみが暫く止まらなかった。
「おいおい、本当に大丈夫かぁ」
坊主頭で、ごつい顔が心配そうに覗きこんだ。
「はっ、はい、大丈夫です。本当にすいません」
「おまえさん、日曜のたんびにここさ来るが、何しとるべぇ、一人で… 最初、おらぁ、おまえさん自殺でもしでかすんじゃないかとドキドキしたもんだ。んだけど、ゴミ捨て場で自殺もなかんべぇな…。あのおんぼろ船見て、何か画いているみてぇだが、おまえさん画家さんかね」
「えっ…いえ、ちょっと興味がありまして…」鼻水で鼻がぐちょぐちょ、話どころでなかった。
「まぁ、何でもええか、しかし、たいしたもんだなぁ、東陽町の駅まで1時間以上あるべぇ…歩いてなぁ、こんなだれも来ねぇ所になぁ」
ごつい顔が、少し感心したように言う。最初に笑った時の顔を見逃していた。だけど、悪い人ではなさそうだ。>
「それにしても、さっきの雨は、ちとたまげたなぁ。前が見えねぇで、危ねぇったありゃしねぇ」
龍一は、なおも鼻をぐしゅぐしゅさせていたが、ホカホカと温かく、気分もようやく癒えてきた。br>
「おまえさん、東京駅でええか」
「え、いえ、東陽町で…」
「どうせ、通り道だ。東京駅で落とすからな」
「はっ、はい…すいません
「おらぁ、ここの仕事、今日が最後でなぁ、出稼ぎでよ、明日ようやっと、いなかさ帰れるよって、嬉しくてよ、ハハハ…」 今度は、笑顔を見た。50才くらいだろうか。ゴツイ顔に似合わない、無邪気な笑いだ。やっぱり、いい人だ。龍一は、ホッとした。
「今年も忙しくてなぁ、いなかさ帰りそびれちまった。しかし、東京さってとこは、スゲェなぁ。おら、ここさダンプ5年になるんけど、毎年、ゴミの量が増える一方だ。しかし、おら、いなかもんじゃどうして東京さ人ちゃ、まだ使える物をこんなにも簡単に捨てるきゃ、全くわからんちゃ… 物ば大事にせんといつか罰に当たるってもんじゃがのぅ」 龍一も頷いた。
「ゴミの島なんちゃ、おらたち悪い目で見られるんけど、おらたちも生活あるしのぉ、それ以上に、おらたちのような出稼ぎなけりゃ、今の東京もないちゃわけよ」 龍一も、”なるほど、そうだ”と、思った。
「しかし、ここの処分所も、今年限りちゃ聞くし、おらも来年はどうなることか、年だしな、冬の雪さえなけりゃ、本当は、いなかで百姓やっとた方がよっぽどええんじゃが…おぉ、ようやっと雨も上がったようじゃ」
風で雲がとっぱ払われたかのように、サーァッと晴れ広がった。
「さぁ、着いたぞ、東京さ駅、悪いのぉ、ここさ降りてくれちゃ、おまえさん。来年は、おらもここさもう来ないと思うんけど、おまえさんも達者でな。そのタオル、おらんでよけりゃ、持ってけ、よく身体ふいとった方がええぞ。それと、顔もな、鼻水と雨で顔ぐちゃぐちゃだど。ええか、身体は大事にせにゃいかんぞ、じゃぁな」
バタン! 行ってしまった。龍一は、乗っている間、鼻をグスグスするのに忙しく、終始、話に頷くだけだった。しかし、嬉しかった。ゴツイ顔の彼の話に、心が温まった。鼻をグスグスしていたのも、頭から落ちる雨の水を流れるのに任せていたのも、実は、こぼれる涙を隠すためであった。
龍一は、この温かいものを失わせてはならない、と思った。そして、手にしたタオルで顔を拭きながら、左脇に抱えたショルダーバッグを改めて強く抱きしめた。
龍一は、ダンプカーが行ってしまった方向に向かって、一礼した。
[10]保存運動の広がり
1969年(昭和44年)、龍一が死の灰をイメージする第五福竜丸を平和展に発表したその翌年、日本各地で、保存のための募金や署名活動が行われ、時の美濃部都知事の後押しもあり保存委員会が発足されるなど、第五福竜丸の保存運動が一気に高まった。
龍一は、保存運動が盛んに広がっているとの報道に接するたびに、「よかった」と安堵するのであった。
その後、龍一は、廃船をモチーフに朽ち行く船を精力的に画き続けた。しかし、第五福竜丸の絵は、「よかった」との安堵を機に、その後、画くことはなかった。
画:本間 龍松
完
制作:2010年(平成22年)秋