旅行結婚を提案した彼女は、俺が選んだウェディングドレスで幼なじみと結婚した
結婚式場を予約した直後、六年間付き合ってきた美和から、旅行先で結婚しようと提案された。
ところが、現地に着くと彼女は姿を消し、俺が帰宅すると、予約した式場で別の男と結婚式を挙げていた。
「悠人は余命半年なの。最後の願いを叶えてあげたいの」
俺は二人を見て、笑った。
「いいよ。ただし、式場代も写真撮影の費用も、両親から贈られた宝飾品も、結婚準備金も返してくれ。悠人のスーツ代だけは、二人への結婚祝いにしておくよ」
1
結婚式場の予約金を振り込んだ直後、六年間付き合ってきた桐谷美和からメッセージが届いた。
「ねえ、普通の結婚式はやめにしない? 北嶺県まで飛行機で行って、そこから車を借りて深森湖へ向かうの。近くの役所で婚姻届を出して、そのあと風見野でカメラマンを探して、自由な感じのウェディングフォトを撮りたいな」
少し気にはなったが、美和は昔から思いつきで予定を変えることが多かった。式場の予約金が戻ってこないのは残念だったものの、本人がそうしたいと言うなら仕方ない。俺は両親に事情を説明し、会社に長期休暇を申請した。
航空券は二人分を予約し、現地で使うレンタカーも手配した。必要な準備を済ませ、久しぶりに二人で旅行できると思うと、自然と気持ちも弾んだ。
ところが、飛行機が着陸した直後、搭乗前に届いていた美和からのメッセージに気づいた。
「急に用事ができちゃった。先に一人で何日か遊んでて」
「どうせ披露宴もしないんだし、親戚への説明もいらないでしょ。片づいたらそっちに行くから」
何度電話をかけても、美和の携帯は電源が切れたままだった。LINEにも返事はない。何かあったのではないかと心配になり、俺は一番早い帰りの便を手配した。
冬凪市に戻り、予約していた結婚式場へ向かった俺が目にしたのは、思いもよらない光景だった。美和が俺の選んだウェディングドレスを着て、その隣には幼なじみの三浦悠人が立っている。美和は彼の指に指輪をはめていた。
会場には桐谷家の親戚が大勢集まり、拍手と祝福の声が飛び交っていた。二人のために用意された席札も、花の飾りつけも、司会者の進行表も、すっかり整っている。どう見ても、急に決まった結婚式ではなかった。
三浦悠人の母親が、笑顔を浮かべて近づいてきた。
「遼介くん、せっかくのおめでたい日に、そんな細かいことを気にしなくてもいいじゃない。悠人は小さい頃から美和のことが好きだったのよ。あなたも二人の関係は知っていたでしょう?」
彼女は俺の腕に手を伸ばした。
「今は悠人の体が大変なときなの。残された時間も少ないんだから、最後の願いくらい叶えてあげたいと思わない?」
俺はその手を避けた。
「宝石も、式が終わったらちゃんと返すから。少しの間、貸してくれたと思ってちょうだい」
俺が黙っていると、悠人の母親はほっとしたように笑った。
「やっぱり遼介くんは話が分かる子ね」
「返してもらわなくて結構です」
彼女の目が輝いた。
「まあ、そう言ってくれると思っていたわ」
「全部で四百五十万円です。購入したときの明細も残っていますから、その金額を美和から振り込んでもらえれば十分です」
彼女の笑顔が固まった。
周囲にいた親戚たちも、互いの顔を見合わせている。そこへ桐谷美和の母親がやってきた。
「遼介くん、こんな日にまでお金の話をするつもり? 美和と悠人の結婚式なのよ。祝福する気がないなら、さっさと帰ってちょうだい。うちの家族にあなたの居場所はないわ」
今日の彼女は、上品なドレスに身を包み、髪も化粧もきれいに整えていた。胸元には見覚えのあるブローチが光っている。俺の両親が美和に贈ったものだった。
この結婚式は、かなり前から計画されていたのだろう。
これ以上ここにいても仕方がない。俺は背を向けて会場を出ようとした。すると、背後から桐谷の母親の声が飛んできた。
「前から言っていたでしょう。私はあの人のことが気に入らなかったのよ。口を開けばお金の話ばかり。悠人くんのほうがよっぽど気が利くわ」
俺は足を止め、振り返った。
「美和、何か言うことはないの?」
彼女は困ったように俺を見ていた。
「俺を北嶺県まで行かせて、その間に俺の親が買ってくれた宝石を身につけて、俺が予約した式場で結婚式を挙げているんだよね。それなのに、何も出していない男のほうを褒めるんだ?」
「その計算、ずいぶん都合よくできているね」
美和の顔が険しくなった。彼女は俺の腕をつかみ、会場の外へ引っ張っていった。
「どうして親戚の前で騒ぐの? 悠人の体に障ったらどうするのよ」
美和はドレスの裾を整え、少し声を落とした。
「ねえ、こうしましょう。北嶺県への航空券を取り直してあげる。あなたは先に向こうで過ごしていて。こっちのことが片づいたら、私も行くから」
「今日のことは、もう水に流してよ。私たちの生活は今までどおり続ければいいじゃない」
まるで、俺が少し機嫌を損ねただけだと思っているようだった。
「遼介、もう少し待って。私たちにはこれから何十年も一緒に過ごす時間があるでしょ。でも、悠人には半年しか残されていないの」
俺は彼女を見た。六年間一緒にいた相手と、今さら何を話せばいいのか分からなかった。
「美和。俺たちにこれからはないよ」
「式場代も宝石代も、全部返してくれればそれで終わり。あとは三浦悠人と好きに暮らせばいい」
彼女が口を開く前に、悠人が舞台の脇から駆け寄ってきた。目を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「遼介さん、怒るのは分かります。でも、僕は本当に美和さんを奪うつもりなんてなかったんです。半年だけ、そばにいさせてください。その後は、ちゃんと身を引きますから」
悠人は美和の袖をつかんだ。
「さっきの言葉も……僕、すごく傷つきました」
美和はすぐに悠人を背中にかばい、俺を睨んだ。
「今の言い方は何なの? 悠人の気持ちを理解しろとは言わないけど、少しくらい思いやりを持てないの?」
「もういい。悠人、行きましょう。こんな人に何を言っても無駄よ」
彼女は悠人の肩を抱き、再び舞台へ戻っていった。司会者がマイクを持ち直し、美和は悠人の目元を拭いてから、二人で招待客の前に並んだ。
「健やかなときも、病めるときも。豊かなときも、苦しいときも。私はあなたのそばにいます。生涯、あなたと共に歩んでいきます」
会場の外から、その様子を眺めた。
俺が選んだドレスを着て、両親が贈った宝石を身につけた二人が、祝福を受けている。六年間付き合った相手との行き着く先が、これだったとは。
そのまま背を向け、式場を後にした。
外へ出たところで、スマートフォンが震えた。会社の営業本部長からだった。俺が結婚すると聞いたらしく、お祝いのメッセージと一緒に、珍しいウイスキーを何本か贈りたいと書いてある。
俺は返信した。
「ありがとうございます。ただ、美和とは別れることになりました」
すぐに返事が来た。
「何かあったのか? それと、以前君が美和を海外プロジェクトに入れたいと言っていた件だが、少し確認しておきたい」
「正式な責任者の人選はまだ確定していない。人員の変更はいったん保留にしてある。帰ってきたら話そう」
「分かりました。よろしくお願いします」
以前から本部長は、美和を海外プロジェクトに加えることに少し難色を示していた。俺が業界で築いてきた人脈と信用を使い、何度も彼女の実力を保証していなければ、あそこまで早く副部長に昇進することもなかっただろう。
もう、彼女のために責任を引き受ける必要はない。
スマートフォンをしまい、駅へ向かった。
帰宅すると、両親は驚いた顔で俺を迎えた。父の宗一郎はリビングのテーブルに置いてあった株式譲渡の書類を手に取り、不思議そうに俺を見た。
「北嶺県で結婚するんじゃなかったのか? もう帰ってきたのか?」
父は書類をめくりながら、もう一つ尋ねた。
「それと、この株式譲渡の件だが。披露宴で発表するつもりだったんだ。式をやらないことになったなら、美和さんがいつ都合をつけられるか聞いておいてくれないか」
それは、父が経営する東都商事株式会社の株式の八パーセントだった。本来なら、俺の結婚祝いとして譲る予定だったものだ。
ペンを手に取り、書類を引き寄せた。
「もう美和の署名はいらないよ。今日、別の男と結婚式を挙げたから」
両親はそろって言葉を失った。俺は譲渡書類に自分の名前を書き、父に返した。
「この株は、俺がそのまま持っておくよ」
母の佳代は何か聞きたそうにしていたが、結局何も言わず、そっと俺の肩を叩いた。
その夜、自分の部屋に戻ってからも、なかなか眠れなかった。スマートフォンには友人たちからのメッセージが十数件届いている。最後に届いたのは、大学時代の友人からだった。
「遼介、どういうこと? 美和がLINEに載せてる新郎、別の男じゃない?」
少し迷ってから、美和の投稿を開いた。ついさっき更新されたばかりだった。
「たとえ短い時間でも、あなたの人生で一番幸せな思い出にしたい」
添えられた写真には、二人の手が写っていた。指には、見覚えのある指輪が光っている。俺と美和が一緒に選び、代金も俺が全額支払った指輪だった。
以前、家に届いた指輪を試したとき、男物のサイズが半号ほど大きかった。交換しようとした俺に、美和は笑って言った。
「男の人って結婚してから太ることもあるでしょ? 少しくらい大きいほうが、あとでちょうどよくなるかもしれないよ」
それもそうかと思い、交換には行かなかった。ところが今、悠人の指にはその指輪がぴったり収まっている。
投稿のコメント欄には、共通の友人たちが次々と書き込んでいた。何人かは俺の名前を直接呼んでいる。
「遼介、どうして新郎が違うの?」
説明する代わりに、自分のアカウントにも投稿した。
「美和とは別れました。今後はそれぞれの道を歩みます。お互いに干渉するつもりはありません」
投稿して間もなく、スマートフォンが何度も震え始めた。最初に届いたのは、美和の従妹からのメッセージだった。音声ファイルを開くと、式場で美和の母親が話していた声が聞こえてきた。
「うちの美和は条件のいい子なのよ。悠人くんみたいに昔からよく知っている人のほうが、ずっとお似合いだわ。あの人は、うちの家の条件目当てで近づいてきたんじゃないの?」
聞き終えて、スマートフォンを脇に置いた。
写真フォルダには、美和の両親が毎年二回受けていた人間ドックの予約記録が残っていた。費用も俺が支払っていた。夏のクルーズ旅行も、行き先を調べて予約したのは俺だ。桐谷家のリビングに並ぶ健康食品やサプリメントも、成分や購入先を夜遅くまで比較して選んだものだった。
美和の母親が、結婚祝いを用意できないと涙ぐんでいたときも、俺はこう言ったことがある。
「気にしなくていいですよ。こちらで準備します。形だけのことですから、あまり気にしないでください」
「俺が結婚したいのは、美和本人ですから」
あのときは、それが一つの家族になるための誠意だと思っていた。
そのとき、電話が鳴った。画面には美和の名前が表示されている。電話に出ると、挨拶もなしに怒鳴り声が飛んできた。
「遼介! あの投稿はどういうつもり?」
「悠人と私のこと、何も知らないくせに!」
「悠人、さっき倒れそうになったのよ。今すぐ投稿を消して!」
俺はベッドの背にもたれ、落ち着いた声で答えた。
「彼がどうなろうと、もう俺には関係ないよ」
「どういう意味?」
「美和。自分がどれだけ魅力的な女だと思っているのか知らないけど、俺だってそこまで未練はない。今日からは、それぞれ自分の人生を生きればいい。俺たちはもう終わったんだ」
「二度と電話してこないで」
電話を切り、彼女の番号を着信拒否にした。
翌朝、海外プロジェクトの件を片づけるため、会社へ向かった。
東都商事株式会社のビルに入ると、受付にいた小野さんが顔を上げた。俺を見るなり、笑顔が少しぎこちなくなる。
「水上さん、今日はどうされたんですか?」
「プロジェクトの引き継ぎで来たんだけど」
彼女は困ったように視線を泳がせた。
「実は、桐谷副部長から昨日連絡がありまして。水上さんの入館証の権限が停止されているんです。プロジェクトチームの再編中なので、関係者以外は事前承認が必要だと……」
「俺がいつ、関係者じゃなくなったんだ?」
ゲートを通ろうとしたとき、扉が閉まり、足を挟まれた。
「っ……!」
鋭い痛みが走り、思わず体勢を崩した。
「何をしているんですか?」
会議室から美和が出てきた。後ろには三浦悠人もいる。悠人の手には見覚えのある革表紙のノートがあった。名前を書いたラベルが剥がれかけ、その端から俺の筆跡がのぞいている。顧客の要望やプロジェクトの進捗を書き込んでいた、俺の仕事用ノートだった。
美和の前に立った。
「俺の入館証を止めたのは君か?」
美和は俺を見ようともせず、受付の小野さんに言った。
「小野さん、関係のない人を簡単に通さないでって、昨日伝えたでしょう?」
「俺たちは同じ役職だ。海外プロジェクトはずっと俺が担当してきた。勝手に権限を止める理由は何だ?」
悠人が先に口を挟んだ。
「遼介さん、誤解しないでください。美和さんはあなたに無理をしてほしくないだけなんです」
美和も頷いた。
「悠人の言うとおりよ。今のあなたに、プロジェクトの判断を任せるわけにはいかないわ。少し落ち着いてから戻ってきて。社内でもあなたのことを心配している人がいるの。お客様にまで、チームがまとまっていないと思われたくないでしょう?」
「それはどういう意味だ?」
美和は声を落とし、俺の耳元に顔を寄せた。
「悠人を傷つけるようなことを言ったって、自分で分かるまで戻ってこなくていいから」
一歩下がり、悠人の手元に目を向けた。
「そのノート、俺のものだ。返してくれ」
悠人は反射的にノートを握りしめ、美和を見た。彼女は表紙に手を置いた。
「プロジェクトの資料は、今はチームで管理しているの。あなたには閲覧権限もないでしょう?」
悠人の手からノートを取り返し、中に挟んであった書類を一枚取り出した。顧客が署名した、正式な協業意向書のコピーだった。
「資料を保管する必要があるのは分かる。でも、これは顧客から俺に渡された確認書だ。持ち帰っても問題ないよね、桐谷副部長?」
美和は答えなかった。
スマートフォンを取り出し、プロジェクトのグループチャットを開いた。
「皆さん、お疲れさまです。海外プロジェクトの今後の進め方について、桐谷美和さんと意見の相違が生じています。顧客との連絡体制を改めて確認しますので、正式な通知があるまで、担当者の確認を経ていない業務指示には従わないようお願いします」
送信を済ませ、役員室のほうへ歩き出した。
ちょうどそのとき、統括部長の部屋の扉が開いた。
「水上、ちょっと中で話そうか」
2
海外プロジェクトは、最初の企画から顧客の背景調査まで、ほとんど俺一人で進めてきた。美和は当初、プロジェクトメンバーの一人として名前が載っていただけで、主に社内調整を担当していた。彼女が副部長にまで昇進できたのも、俺が何度も後ろ盾になっていたからだ。
資料を整理しやすいよう、以前、美和にはプロジェクトの共有フォルダへのアクセス権限を与えていた。必要な資料を確認したり、会議用の書類を準備したりするためだった。まさか、それを利用されるとは思っていなかった。
統括部長の向かいに座ると、彼はすぐにパソコンの画面をこちらへ向けた。
「統括部長、海外プロジェクトについてですが、昨日、営業本部長にも話をしました。桐谷美和を担当から外して、責任者を改めたいと思っています」
統括部長は返事をせず、画面を指した。表示された内容を見て、思わず目を疑った。
プロジェクトはすでに社内審査を通過し、顧客に提出されていた。詳細を開いて提出履歴を確認すると、提出日は俺が北嶺県へ出発した当日だった。
企画書の初稿から最終プレゼンテーション用の資料まで、すべて俺が作ったものだ。ところが、メンバー一覧の責任者欄には美和の名前があり、共同責任者には三浦悠人の名前が記載されていた。悠人がいつ正式にプロジェクトへ加わったのか、俺は聞かされていない。
先週、総務の担当者から資料提出について確認されたことを思い出した。あのときは準備に必要なのだろうと考え、特に気に留めなかった。
俺はすぐにシステム管理を担当している社員へ連絡した。ほどなくして返事が届いた。
「水上さん、以前、桐谷副部長からプロジェクトの提出手続きについて問い合わせがありました。共有フォルダの資料を使って、彼女のアカウントから申請したと聞いています」
「そのとき、俺の名前が責任者から外されていたことは?」
「提出後に変更履歴を確認して、初めて気づきました。すでに承認申請が進んでいたので、こちらでは判断できず……」
「変更履歴を送ってくれる?」
すぐにアクセス履歴と申請記録が送られてきた。提出日の前日、美和は共有フォルダから企画書と顧客資料をダウンロードしていた。その後、自分のアカウントから新しいメンバー構成を申請し、責任者欄まで変更している。
記録を保存し、最初から確認し直した。
美和が俺を北嶺県へ行かせたのは、このためだったのだろう。旅行結婚を提案して俺を遠ざけ、その間に完成済みのプロジェクトを提出する。責任者には自分の名前を、共同責任者には悠人の名前を載せる。そうすれば、俺が戻ったときにはすべて決まっていると考えたのかもしれない。
六年間、俺は美和の仕事を支えてきた。入社したばかりの頃は資料の作り方も分からず、何度も俺の席へ相談に来た。修正箇所を一つずつ教え、取引先との会議にも付き添った。仕事で困ったときには、代わりに対応したこともある。
「この件は私が責任を持ちます。何かあれば、私に連絡してください」
そう言って、彼女を守ってきたつもりだった。
その美和が今、俺の仕事を自分の実績にしようとしている。
統括部長に向き直った。
「このプロジェクトは、最初の交渉から最終案の作成まで、すべて俺が担当しました。桐谷美和は以前のアクセス権限を利用して、俺に無断で責任者とメンバーを変更し、資料を提出しています」
統括部長は数秒黙り、指先で机を軽く叩いた。
「すでに本社の審査を通っている。責任者を変更するなら、顧客側にも説明が必要だ。先方から、君本人に担当してほしいという意思表示をもらう必要がある」
「それに、レイヴン・インターナショナルの本社はノルディア共和国だ。実際に交渉へ行くとなれば、往復だけでもかなりの時間がかかる」
「行きます」
迷わず答えた。
「もともと俺が担当していた案件です。必ず取り戻します」
統括部長は頷いた。
「分かった。こちらで資料を整理して営業本部長にも報告しておく。君は企画書の原本と、顧客とのやり取り、それからアクセス履歴を揃えてくれ」
部屋を出て廊下の角を曲がると、美和が待っていた。俺を見るなり、小さくため息をついた。
「遼介、ここ数日、私も少し言い過ぎたと思ってる。悠人のことを前もって話さなかったのは、私が悪かったわ」
美和はスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けた。
「だから、これでどう? 海外旅行を十日間予約しておいたの。少し気分転換してきたら? 帰ってきたら、あなたの話もちゃんと聞くから」
画面をちらりと見ると、旅行サイトの格安ツアーだった。割引クーポンを使って、一万九千八百円ほどになるらしい。
一方、悠人はプロジェクトチームの席の真ん中に立ち、結婚式の引き菓子を配っていた。
「美和さんと二人で、モルディブに二か月くらい滞在する予定なんです。帰ってきたら、皆さんに絵はがきを送りますね」
二か月のモルディブ旅行。九十八万円の結婚指輪。四百五十万円の宝飾品。それに比べて、俺に渡されたのは二万円にも満たない旅行クーポンだった。
「いらないよ」
スマートフォンを美和に返した。
「三浦悠人とのモルディブ旅行を楽しんで。こんなことで彼の機嫌を損ねたら大変だからね」
エレベーターに乗り、「閉」ボタンを押した。扉が閉まる直前、美和の顔から血の気が引いていくのが見えた。
俺はスマートフォンを取り出し、ノルディア共和国行きの一番早い便を予約した。
今度は自分の手で、あのプロジェクトを取り戻す。
3
出発までの数日間、必要な資料をすべて整理した。最初の顧客とのメールから企画書の修正履歴、顧客が署名した協業意向書まで、時系列に沿ってまとめていく。営業本部長も協力してくれ、本社には正式な担当者変更に関する異議申し立てが提出された。
調査が終わるまでは、美和も悠人もプロジェクト責任者として新たな対外的な約束をすることはできない。社内でも噂になり、俺と美和の間に何があったのか、遠回しに聞いてくる人もいた。結婚式の話を知っている同僚もいたらしいが、詳しい説明は避けた。
今は仕事に集中したかった。
ノルディア共和国は、想像していた以上に寒かった。レイヴン・インターナショナルの本社に到着すると、先方のプロジェクト責任者と二度にわたって会議を行い、企画の内容を改めて説明した。
先方も、責任者の変更について最初は慎重だった。提出済みの資料には美和と悠人の名前が記載されている。途中で何があったのか、先方には分からないのだから当然だろう。
俺は個人的な事情には触れず、プロジェクトの初期構想から顧客が求めていた修正内容、各段階で自分が担当した業務記録まで、一つずつ説明した。
先方の責任者は資料をめくり、あるページで手を止めた。
「この市場調査報告書は、あなた自身が作成したのですか?」
「はい」
「こちらが最初に提示した条件と、分析内容がよく合っていますね。後半の修正も?」
「御社からいただいたご意見をもとに、私が修正しました」
相手はさらに数ページを確認し、資料を閉じた。
「今後の窓口は、あなたにお願いしたいと思っています。以前の担当者変更については、こちらでも改めて確認します」
「承知しました。必要な手続きには協力いたします」
その後も数日間、現地に残って必要な手続きを進めた。最終的に、レイヴン・インターナショナルは俺を正式なプロジェクト責任者として認め、提出済みの資料も実際の担当者に合わせて修正することになった。
帰国前、先方の責任者はわざわざ握手を求めてきた。
「今回は本当にお疲れさまでした。今後もよろしくお願いします」
「こちらこそ。引き続きよろしくお願いいたします」
冬凪市に戻ってから三週間後、海外プロジェクトは正式に実行段階へ入った。レイヴン・インターナショナルから最初の前金が振り込まれると、統括部長がプロジェクトのグループチャットに画面の写真を投稿した。
「水上が自分の力で取り戻した案件だ。年末の人事評価では、個別に実績を考慮する」
すぐに祝福のメッセージが並んだ。特に返事はしなかったが、その日の夜、残業を終えて会社を出たときには久しぶりに気分がよかった。
十一月も半ばを過ぎ、風はずいぶん冷たくなっていた。マフラーを引き上げて駅へ向かっていると、スマートフォンが震えた。母からだった。
「今週末、会社の忘年会があるから帰ってきなさいって。お父さんが言ってたわ」
「分かった」
スマートフォンをポケットにしまおうとしたとき、大学時代の同級生から音声メッセージが届いた。
「遼介、三浦悠人のことなんだけど、ちょっと聞いてほしいことがあるの」
「どうした?」
「実は、最近あいつのSNSを見かけたんだ。新しい職場が決まったらしくて、入社前の研修に参加するって投稿してた」
「仕事を始めるのか?」
「そうみたい。最近は美容施術を受けたとか、旅行に行ったとか、普通に楽しそうな投稿ばかりしてるの」
「余命半年だって話、覚えてるよね?」
スマートフォンを握ったまま、しばらく黙っていた。
「もちろん、投稿だけで病気の有無までは分からない。でも、あれだけ深刻な話をしていたのに、今の様子を見ると少し気になって」
「同じ人だと間違いないのか?」
「間違いないよ。名前も写真も確認したから」
「半年も嘘をついていたのか……」
その夜、美和にメッセージを送った。
「三浦悠人が最近、新しい職場に入る準備をしていると聞いた。余命半年という話が本当なのか、一度本人に確認したほうがいい」
送信したあと、スマートフォンをサイレントモードにした。これから何が起きても、もう俺が関わることではない。
その日は会社で一日中仕事をし、夜八時になってようやく退勤した。サイレントモードを解除すると、未読メッセージが十数件たまっていた。一番上には、美和からのメッセージがあった。
「どこにいるの?」
返信しないでいると、すぐに次のメッセージが届いた。
「悠人に聞いた。病気の話は嘘だったって。余命半年なんて、全部作り話だったの」
その二分後、またメッセージが届いた。
「遼介、電話に出てくれない?」
画面を数秒見つめてから、届いた番号を着信拒否にした。
その夜、美和の友人がSNSに投稿していた。
「半年もかけて作った嘘が、今日ようやく全部ばれたらしい。美和は今日一日、ずっと会社を休んでいたみたい」
添えられていた写真には、誰もいないリビングのテーブルが写っていた。その上には健診の書類と、二つの結婚指輪が置かれている。俺と美和が一緒に選び、俺が代金を支払った指輪だった。
SNSを閉じ、プロジェクトの報告書を確認し始めた。そのとき、またスマートフォンが光った。母からだった。
「明日の忘年会、遅れないでね。お父さんが株のことを発表するって」
「分かった」
忘年会は土曜日の夜だった。新しく買ったチャコールグレーのスーツを着て、髪を整える。出かける前には母がネクタイまで確認してくれた。
会場に着いた頃には、すでに大勢の人が集まっていた。父の会社の共同経営者や役員、重要な取引先の人たちも顔をそろえている。父は俺を見つけると手招きし、隣の席を空けてくれた。
酒が何度か注がれ、会場がほどよく賑わってきた頃、父が立ち上がった。手にしたグラスを軽く叩くと、少しずつ話し声が静まっていく。
「今年、皆さんに一つお知らせがあります」
父は俺を一度見てから、続けた。
「取締役会での協議を経て、今後の株式構成を一部変更することになりました。息子の水上遼介が、当社の株式の八パーセントを正式に保有することになります。今後は取締役への就任手続きも進め、経営に携わってもらう予定です」
会場に拍手が広がった。隣に座っていた佐藤顧問がグラスを持ち上げ、俺に笑いかけた。
「お父さんも、もっと早く君を取締役にすればよかったのに」
笑って、軽くグラスを合わせた。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。知らない番号からのメッセージだった。
「遼介、会場の外にいるの。少しだけ会えない? 五分でいいから」
スマートフォンを伏せ、隣の取引先の人との話に戻った。十分ほど経つと、またメッセージが届いた。
「悠人から全部聞いた。最初から最後まで、あの人が作った嘘だったの。私、騙されていた」
「あなたのアカウントでプロジェクトを提出したのも、悠人が自分の名前を載せたいと言ったからだった。そうすれば安心できるって……」
「本当にごめんなさい。お願いだから、一度だけ会って話をさせて」
メッセージは保存したが、返事はしなかった。
会場の扉は少しだけ開いていて、廊下の照明が細い帯のように床へ伸びていた。美和がその先のどこかにいるのは分かっていたが、今さら何を考えているのか確かめる気にもなれなかった。
忘年会の後半、父に連れられて重要な取引先へ挨拶に回った。席へ戻る途中、何気なく廊下の奥へ目を向けると、人影が一つ見えた。暗い色のコートを着た女性だった。
美和は俺の視線に気づくと、背筋を伸ばし、会場の入口へ二歩ほど近づいた。だが、俺が向きを変えたとき、ちょうどスタッフが扉を閉めた。グラスを手に取り、何事もなかったように席へ戻った。
会が終わりに近づいた頃、またメッセージが届いた。今度は数百文字にも及ぶ長い文章だった。
「最初に悠人から病気のことを聞いたとき、診断書を見せてもらうべきだった。今になって思えば、どうしてあんなに簡単に信じてしまったんだろう」
「目の前で泣いていたから、本当にそうだと思ってしまって……」
通知を消した。
忘年会が終わると、父と一緒に会場を出た。非常階段の近くを通りかかったとき、壁際に立っている人影が見えた。美和だった。
彼女は俺に気づくと、こちらへ近づくこともせず、数歩離れた場所から口を開いた。
「遼介」
足を止めず、父と並んで出口へ向かった。背後から追いかけてくる声はなかった。ただ、廊下に残った呼び声だけが、少しずつ遠ざかっていった。
帰りの車の中で、父が運転しながら尋ねた。
「さっき会場の外にいたのは、桐谷さんだろう?」
「うん」
「何をしに来たんだ?」
「話をしたかったみたい」
「聞いたのか?」
「聞いてない」
父はそれ以上何も言わず、ハンドルを切って交差点を曲がった。しばらくしてから、ぽつりと言った。
「それならいい」
翌朝、目を覚ますと、また新しい番号からメッセージが届いていた。美和が送ってきた写真には、デスクの上に置かれた手書きの書類が写っている。表紙には『海外プロジェクトに関する経緯説明書』と書かれていた。
内容は、プロジェクトの企画、顧客との交渉、最終案の作成まで、すべて水上遼介が担当したことを認めるものだった。美和自身は補助的な立場で参加しただけであり、プロジェクト責任者の立場を退く意思も記されていた。
その下には、短い文章が添えられていた。
「この書類は月曜日に人事部へ提出します。あなたに許してほしいとは思っていません。ただ、これからは幸せに暮らしてほしいです」
読み終えて、こう返した。
「もういいよ。最初から君のものではなかったんだから」
その番号も着信拒否にした。
月曜日の午後、人事部から全社員に社内メールが送られた。美和が海外プロジェクトの経緯に関する書面を提出し、俺が正式な責任者であることを認めたうえで、プロジェクトから離れるという内容だった。
俺が自席で確認していると、プロジェクトのグループチャットが賑やかになった。
「どういうこと? 桐谷副部長が自分からプロジェクトを降りたの?」
「水上さん、海外案件はどうやって取り戻したんですか? すごく気になります」
「まあ、今は何も聞かずに、おめでとうございますってことで!」
俺は何も書き込まなかった。
しばらくすると、統括部長から個別にメッセージが届いた。
「今朝、彼女が私のところへ来たよ。書類を机に置いて、そのまま帰ろうとした。もう一度考え直さなくていいのかと聞いたら、『もともとこうするべきだったんです』とだけ言っていた」
返信はしなかった。
それから日々は過ぎていった。
海外プロジェクトは順調に進み、レイヴン・インターナショナルの李承宇氏が冬凪市まで来て、二日間にわたって進捗状況を確認した。帰る前、彼は俺の肩を軽く叩いた。
「次にノルディアへ来るときは、食事をごちそうしますよ」
「楽しみにしています」
会社の同僚たちも、海外プロジェクトについては直接俺に報告するようになった。美和に確認を取る人も、ほとんどいなくなった。
副部長という肩書きは残っていたが、海外案件はすべて彼女の手から離れていた。残ったのは規模の小さな国内案件が二つほどで、その一部も自分から手放したらしい。
同僚の話では、ある日、美和は一日中自分の席に座ったまま、パソコンを開こうともしなかったという。また、最近は夜遅くまで残業しているとも聞いた。俺から彼女の様子を尋ねたことは一度もない。
十二月半ば、会社のレクリエーションで、冬凪市郊外にある温泉旅館へ行くことになった。プロジェクトメンバーのほとんどが参加したが、美和は体調不良だと聞いて、忘年会を欠席していた。
温泉の湯船に浸かっていると、誰かが悠人の話を持ち出した。
「そういえば、三浦悠人って今どうしてるんだろう?」
「何かあったの?」
「実家に帰ったらしいよ。最近、SNSに再出発とか、人生をやり直すとか、そんな投稿ばかりしてるんだって」
「この前はミルクティーの写真を載せて、『もう演技をしなくて済む』って書いていたらしい。余命半年の話も、全部削除したみたい」
誰かが鼻で笑った。
「半年も嘘をついて、桐谷副部長をあんな目に遭わせたんだからね」
湯船の反対側で目を閉じたまま、何も言わなかった。湯気がゆっくりと立ち上り、顔の周りを白く包んでいく。
年末が近づくと、会社では人事評価が始まった。俺のプロジェクト貢献度は部署内で一位だった。統括部長は評価欄に、短くこう記していた。
「独立して業務を遂行できる。高い実行力を持つ」
一方、美和の評価は中の下まで落ちていた。海外プロジェクトの実績が評価対象から外れたことで、年間を通じて彼女が達成した主要目標はほとんど残らなかった。同僚の一人から、今年の美和の賞与は大幅に減額されたと聞いた。
大晦日、俺は両親と家で年越しをした。母が正月用に用意していたおせち料理を囲み、父と仕事の話をする。海外プロジェクトの進捗を簡単に説明していると、スマートフォンに新しいメッセージが届いた。
美和からだった。デジタルギフトが一つ添付されている。
「明けましておめでとう。返信はいらないよ。ただ、新しい一年があなたにとっていい年になりますように」
ギフトは受け取らず、返信もしなかった。
正月二日、友人と食事に出かけた。食事の途中、彼女が少し言いにくそうに尋ねてきた。
「ねえ、三浦悠人がその後どうなったか知ってる?」
「何かあったの?」
友人は箸を置き、声を落とした。
「美和の会社の前で、泣きながら騒いだらしいよ。余命半年の話が嘘だとばれたあと、美和から出ていくように言われたんだって。でも、悠人はどうしても納得できなかったみたい」
友人は少し間を置いて続けた。
「自分は美和のために半年も病気のふりをしたのに、どうしてこんな扱いを受けるんだって。そんなことを言っていたらしい」
「それで?」
「結局、美和はこう言ったんだって」
友人は一度息をついた。
「『悠人の嘘を信じて、私……あなたにひどいことをした』って」
箸を止めた。
それから、また料理を口に運んだ。
「その後は?」
「結局、悠人は出ていったらしいよ。帰るとき、美和の家の鍵を床に投げつけたんだって」
友人は呆れたように笑った。
「そのとき、悠人が美和に聞いたらしい。『水上遼介のどこがそんなにいいんだ? あいつはもう会おうともしないのに、どうしてまだあいつのことばかり考えてるんだ』って」
「美和は何も答えなかったらしいけどね」
味噌汁を一口飲んだ。
4
正月五日の午後、買い物を終えて駐車場へ戻ると、一人の女性が車のそばに立っていた。
美和だった。
濃いグレーのダウンジャケットを着ている。以前より一回り痩せたようで、目元も少し窪んで見えた。俺から二、三歩離れた場所に立ち、こちらを見つめている。
「遼介」
足を止めた。
「復縁したいと思って来たわけじゃないの。あなたが応じてくれないことくらい、分かってる」
美和の声は以前よりずっと静かだった。
「一つだけ伝えたかったことがあるの。あのウェディングドレスの内側に縫ってあった名前、まだ外していないから」
「ドレスを着たとき、初めて気づいたの。あなたが自分の名前を刺繍してくれていたことに。そのとき、私……」
そこまで言って、美和は言葉を詰まらせた。
俺は彼女を見たまま、静かに言った。
「そのとき、君は三浦悠人の指に指輪をはめていたよね」
美和は小さく頷いた。駐車場を車が通り過ぎ、遠くでドアの閉まる音がした。
「話はそれだけ?」
「うん。それだけ」
美和はうつむいた。
「ごめんなさい」
返事はせず、車のドアを開けて乗り込んだ。エンジンをかけ、バックミラーを確認する。美和はまだその場に立っていた。両手をポケットに入れたまま、追いかけてくることもなかった。
車を発進させ、駐車場を出て大通りへ合流した。ナビが三キロ先の渋滞を知らせてきたので、ハンドルを切って隣の道へ入る。窓から差し込む日差しが、手元を暖かく照らしていた。
センターコンソールには、一冊のファイルが置いてある。表紙には『新規プロジェクト企画書』と書かれていた。来週、俺はこの企画書を、自分の力で獲得した新しい取引先に提出する予定だった。
窓の外には正月飾りが残っている。店先には門松が並び、街には初詣に出かける人たちの姿があった。
赤信号で車を止めたとき、スマートフォンが鳴った。李承宇からの電話だった。新年の挨拶を交わしたあと、彼は三月に中東地域で新しいプロジェクトが始まる予定だと話し、俺にも参加する意思があるか尋ねてきた。
「ぜひ、詳しく話を聞かせてください」
電話を切ると、ちょうど信号が青に変わった。アクセルを踏み、車を前に進める。
バックミラーの中から、さっきの駐車場が消えていった。
俺は前を向いたまま、アクセルを踏み込んだ。




