借りたミシンが止まりました。返す約束は、明日の朝です
「返すの、午後でもいい?」
送信の手前で、親指が止まった。
午後になれば、動くのだろうか。
ミシンの下に挟まった黄色い布は、四十分前から同じ場所にあった。
針のそばで糸が絡んでいる。踏んでも布が進まなくなって、私は電源を切った。それきり、触っていない。
金曜の、午後四時四十分だった。
明日の朝八時に、春香へ返す約束をしている。
「土曜の教室で使うから、そこだけはお願いね」
借りるとき、春香はそう言った。
私は黄色い布から、机の端へ目を移した。
完成した巾着が四つ、立てて並んでいた。
日曜、初めて出る小さな手作り市。申し込みの写真では、六色を並べた。
残る黄色と青を、今日中に仕上げるつもりだった。
黄色をミシンから外せないうえに、青はまだ、裁った布のままだった。
◇
私のミシンは古く、何枚も重なる口のところで縫い目が揃わなかった。
春香のなら、と思った。
友人にそう言われたわけではない。自分から貸してほしいと頼んだ。
「四つ、出来たよ」
昨日送った写真に、春香は、赤いのいいね、と返してくれた。
私はその赤い巾着を手に取った。
自分の名前を印刷した紙の横へ置くと、やっと、店に見えた。
最後に黄色と青を入れた写真を撮りたかった。
ホームページの出店者紹介にも載せてもらえるはずだった。
携帯の時計を見た。
四時四十三分。
さっきから、返す時間の相談ばかり書いている。
止まったことは、一文字も書いていなかった。
私は打った文章を全部消した。
ミシンと、針のそばの糸を撮った。
『縫っている途中で布が進まなくなった。糸も絡んでる。四時ごろから止めてる。原因は分からない。明日、動く状態で返せないかもしれない』
写真を添えて送った。
最後の二行を読み直しているうちに、電話が鳴った。
「四時から?」
春香は、挨拶をしなかった。
「うん」
「もう、四十五分たってるよね」
「ごめん」
「何か外した? 糸を引っ張ったり」
「してない。電源だけ切った」
私は、布が動かなくなったときのことを話した。何を縫っていたか。急に止まったのか、少しずつだったのか。
急に、だったと思う。
でも、そう言っていいほど、私は機械の音を聞いていなかった。
「止まる前の音は、覚えてない」
春香は、しばらく黙った。
私は黄色い布の端を握って、離した。
「明日の教室、何時からだったっけ」
「十時。最後、私のミシンで口を縫う予定」
そこは知っていた。聞き返すようなことではなかった。
「手縫いにすれば」
言いかけて、口を閉じた。
向こうでは、キーボードを打つ音がした。
「まず、出来るのかどうか、みんなに連絡する」
「私が」
「説明は私がする。申し込んでくれた人たちだから」
「うん」
「今夜、持ってきてくれる?」
「明日の朝じゃなくて?」
「朝まで待って、同じだったら困る」
私は、机の上の青い布を見た。
「持っていく」
◇
春香に聞いたとおり、布を挟んだまま、ミシンを運ぶ支度をした。
工具の箱には触らなかった。
借りたときの袋へ入れるのは、布が飛び出していて難しかった。黄色い布を汚したくなくて、端を小さな袋で覆った。
持ち手を握ると、借りた日の、これなら六つ揃えられるという嬉しさを思い出した。
今は、重いだけだった。
春香の家までは、歩いて駅へ行き、電車で一駅だった。
途中、手作り市の担当者から、紹介写真は今夜までに、というメールが来た。
私は四つの巾着を撮ってある写真を開いた。
机の端に、まだ縫っていない青い布が少し写っていた。
そこだけ切り取って、送った。
『今回は四色です。紹介文の「六色」も、四色に直してください』
その下に、理由を書こうとして、やめた。
借りたミシンが止まったことを、担当者に説明しても、二つは出来上がらない。
◇
春香は、玄関の床を空けていた。
私はそこへ袋を下ろした。
「遅くなって、ごめん」
「七時に着くって言ってたから。そこは大丈夫」
春香は袋を開けた。
黄色い布を見て、眉を寄せた。
「これ、日曜に出すやつ?」
「うん。でも、今は布より、ミシンを」
春香は一度、私を見た。
私は、その続きが分からなくなった。
「布も、一緒に見てもらうから」
春香は袋を閉じた。
「いつも頼んでる店に持っていく。勝手に直そうとしないでいてくれたのは、助かった」
ありがとう、と言いそうになった。
褒めてもらいに来たわけではなかった。
「修理代は、私が全部」
「原因も値段も、まだ分からないよ」
春香は、玄関の壁に掛けた予定表を見た。
土曜の欄に、巾着教室、と太く書いてある。
「先に言ってくれれば、店に電話する時間もあったんだけど」
「ごめん」
今度は、それ以上言えなかった。
「運ぶのは、手伝わせてほしい。店に行くとき」
「日が決まったら連絡する」
「明日の教室も、手伝う」
春香は首を振った。
「明日は、来なくていい」
私は、下げていた手を袋の持ち手へ戻しかけた。
袋は、もう春香の足元にあった。
「分かった」
自分の手だけを握って、ほどいた。
◇
土曜の朝、春香から短い連絡が来た。
『今日は作業を途中までにすることにした。仕上げの日は参加者と相談する』
私は、うちのミシンなら持っていける、と書いた。
昨夜から出してみてはいた。
同じ厚さの余り布で試すと、前と同じところで縫い目が詰まった。
『ただ、厚いところがうまく縫えない』
そう付け足したところで、全部消した。
春香は、今日は来なくていいと言った。
私の機械が使えるかどうかを調べる仕事まで、春香に増やすのは嫌だった。
『連絡ありがとう。店へ運ぶ日は、空けておく』
返事は来なかった。
机の前へ戻って、完成した四つをもう一度並べた。
青と黄色の札は、もう書いてあった。
六枚を重ねて、下からその二枚を抜いた。
その紙を捨てる気にはなれず、裁った布の下へ置いた。
四色、と書いた新しい札だけを、四つの巾着の前に置いた。
◇
日曜の朝、隣の出店者が、私の机へ顔を寄せた。
「これ、初めて?」
「はい」
「私も最初は四つだった。売れたら帰れる、と思って」
「帰れました?」
「二つ残った」
その人は、笑って自分の机へ戻った。
私は四つの口の向きを揃えた。
十時を過ぎて、紹介の写真を携帯で見ながら来た人がいた。
「青いの、ありますか」
古い六色の写真だった。申し込みのときに送った、布を並べた写真。
紹介ページの文は直っていたけれど、この人の携帯には、前の案内が残っていた。
「今回は、ありません」
「そうなんだ」
「楽しみにしてくださってたなら、すみません」
その人は、赤い巾着を持ち上げた。
私はミシンのことを言わずに、袋の寸法を答えた。
その日の終わりに、机には二つ残った。
売れた二つの札を片付けてから、黄色と青の札を持ってこなくてよかった、と思った。
四つで始めた店は、ちゃんと四つ分の場所を使った。
◇
帰宅すると、春香から連絡が来ていた。
『見てもらえるの、水曜になった。十時に店へ持っていく。来られる?』
私は手帳を開いた。
水曜の午前には、仕事の打ち合わせが一つ入っていた。
時間を変えられるか確認する前に、行けるよ、と書きかけた。
消して、先に職場の連絡画面を開いた。
十時の打ち合わせを、十一時にずらせないかと送った。
返事が来るまで、春香には、確認して今夜中に連絡する、と返した。
机の端には、完成しなかった二色があった。
青い布を、そのままの形で引き出しへ戻した。
電話が鳴った。
職場からだった。
時間を変えてもらえたので、私は春香へ、行ける、と送った。
『九時半、家に来て。借りた日の写真も、一緒に送っておいて』
私は写真を探した。
まだ何も挟まっていないミシンと、袋の中の付属品。
借りた日に、念のため、と撮っていたものだった。
それを送って、手帳の水曜の欄に、九時半、と書いた。
原因も、費用も、まだ分からない。
春香にもう一度、赤いのいいねと言ってもらえるかも。
でも、水曜に持つ袋は、分かっていた。




