母
余命宣告をされた母、そしてその母と父と息子。
家族の架け橋だった唯一の存在だった母……
そんな母へ、想いを寄せて。
先日、母親が死んだ。
病名は癌だった……
気が付いた時にはすでに余命二ヶ月と宣告されるほど末期になっていた母は、入院治療をすることもなく、ただ痛み止めを処方してもらい家族との日常を選んだ。
悲鳴を上げることもあるほど母は常に襲ってくる激痛と闘っていた。
その姿を見ていた俺は、どうすることも出来ずに、ただひたすら母の身体を抱き背中をさすることしか出来なかった。
——代われるものなら代わってあげたい...
涙を流し、何度も奇跡を願ったが神様なんてこの世には存在はせず……
母の身体がどんどん小さくなっていくのを、無力な俺と父は何も出来ないまま、ただ見守っていくしかなかった。
そして医者が余命宣告をした月より一ヵ月も早く、あんなにも激痛に苦しんでいた筈の母は、最後だけは安らかに眠るように天国へと旅立っていった。
近しい親族だけの簡単な葬儀を済ませると、残された俺と父親だけの生活が始まった。
思春期を迎えてから、あまり会話らしい会話を交わすことの無かった俺たち親子は、家族を結ぶ唯一の存在の母が居なくなったことで、さらに家の中は静まり返っていた。
「飯……どうする?」
父がポツリと呟く。
「……何でもいい」
「そうか……弁当でも頼むか……」
「うん」
しばらくして配達の弁当が届き、小さな机に向かい合わせに座った俺たちは、会話をすることなく静かに弁当に口を付けた。
「おい、お茶」
キッチンに向かって父が呼び掛ける。
「あ……」
いつもの癖が出てしまい、気まずそうな表情を浮かべた父は深い溜息を吐き出す。
「よっこいしょ……」
父は小さく声を漏らし、母がいつも笑って立っていたキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。
お茶を注ぐ父の後ろ姿を何気なく見ていると、コップからお茶が溢れ出しているのに気が付いた。
「親父!」
俺が父に呼び掛けると、ハッとしたように慌てて傾けていたボトルを持ち上げた。
「はは……何やってんだろうな? 歳を取るとホントにダメだな……?」
父は布巾で零れたお茶を拭きながら呟くが、その手は小刻みに震えている。
「……親父」
「何だ? お前も父さんを年寄り扱いしようとしてるのか?」
そう言った父の目から涙が零れ落ち、さっき拭いたばかりのキッチンカウンターをポタポタと濡らしていく。
「ふたりで……生きていこう。……母さんの分まで」
「流星……」
俺の方へ振り返った父は、膝の力を失ったように床へと崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。
母が癌と宣告を受けて、最後の灯火が消えるまで涙を流すことの無かった父が、こんなにも涙を流している。
そんな姿を目の当たりにして、気が付けば俺は父の傍に駆け寄り、強く抱き締めていた。
——父さん、いつの間にこんなに小さくなったんだろう……?
子供の頃から父はとても逞しく、大きな存在だったのに、今の父はとても小さな背中をしている。
ふたりの愛情をもらい大きく育った俺は、いつの間にやら父親よりも大きく成長していたのだ。
『拝啓...母さんへ
そっちの暮らしはどうですか?
もう慣れたかな?
人と喋るのが大好きな母さんだから、すでに皆と仲良くなってるかもね?
こっちはね、母さんが居なくなって困ることも多いよ。
洗濯やご飯、全部母さんがしてくれてたから……
今まで当たり前だと思ってたことは、全て当たり前じゃなかったんだと痛感したよ。
でもね、安心して。
苦手だった家事も父さんとふたりで協力するようになったし、母さんを通してじゃなきゃ会話も無かった父さんと、今じゃ寝る前に晩酌をするぐらいに話をするようになったんだ。
それに俺、ずっと母さんのこと、たくさん困らせてたよな。
だけどいつも寄り添って、俺を守ってくれていたのも分かってたから。
あの時は素直になれなくて、本当にごめん。
母さんが最後に言ったあの言葉を胸に、父さんとふたりで生きていくよ。
母さん、俺を産んでくれてありがとう。
本当に、ありがとう……
俺たちは、いつも母さんのことを想って空を見てるよ』
亡くなった母に感謝の手紙を書いた。
それを紙飛行機にして、昔、小さい頃に母とふたりで手を繋いで歩いた堤防から空に向かって飛ばす。
夕焼けの空は、オレンジ色と紫がとても綺麗に混ざり合い、白い雲でさえ美しく染め上げていた。
飛ばした紙飛行機は、そんな空に向かってグングンと飛んで行く。
俺の感謝の想いを乗せて……
《お父さんと流星は、私の人生の宝でもあり、誇りなのよ》
母の最後の言葉が風に乗り、微かに俺の耳に聞こえた気がした。
振り返ると、堤防に咲いた小さな花が風に吹かれてユラユラと揺れている。
もう一度オレンジ色に染まった空を見上げ、両腕を空に大きく伸ばして手を振った。
「母さん……今、母さんの言葉、ちゃんと聞こえたよ?
ありがとう」
俺は伸ばした両腕を下に降ろし、深々と礼をした。
歩き出した俺を応援するように、小さな花は優しく揺れていた。




