いつの間にか雨はやんでいた
「何してんの」
俺は傘も持たず、雨に濡れながら叫んだ。
「生きてるの」
彼女も傘を持たず、雨に濡れながら叫び返した。その表情は、こちらから見ても分かる程に、あまりにも晴れ晴れとしていて、薄暗い雨の中では浮いて見える。
砂浜に居るのは、俺と彼女だけ。真夏とはいえ、雨の中海水浴に来るなんて人は居ないだろう。しかし、彼女は裸足になって、海辺を歩いている。と、いうことは。
嫌な二文字が頭に浮かび、そして、何でこのタイミングなんだと毒付きたくなった。
「まさか、お前、自殺なんて考えてないよな」
叫びながら、これは、助けるべきなんだろうか、と考える。幸い、あまり強い雨ではないため、海はそこまで荒れていない。止めることは可能だろう。でも、自殺の交渉ほど面倒なものはないと思った。それに、もし自分が止められる立場だったら、余計なお世話だと思うだろう。けれど、やっぱり人が死ぬのを見て見ぬふりをするのは後味が悪い。結局、気づいたら、彼女の元へ走っていた。
「うん。考えてないよ」
どうやら杞憂だったらしい。汗と雨が混ざった雫がくすぐるように頬を伝う。
「だって、入水自殺なんて苦しいだけじゃん。私はお婆ちゃんになって自分の子どもや孫に看取られながら死ぬの」
彼女の能天気な答えに俺は苛立ちがふつふつと沸きあがってきたが、彼女と真正面に向き合うと、その気持ちは情けないくらいに萎んでしまった。彼女は、ひどく美人だった。乳白色をしたキメの細かい肌に、真っ黒でつやつやの髪がへばりついている。長い睫に縁取られた黒い瞳にすべてを見透かされてしまうような気がして、さり気なく視線を下に移す。すると、白い花柄のスリップの下に淡いすみれ色のブラが透けて見えてしまい、もう思いっきり色っぽい。どうしようかと散々視線をさまよわせ、最終的に彼女の眉のあたりに視線を定めた。
「私、雨に打たれるのが好きなの。まあ、土砂降りは流石に痛いから嫌だけど、こんな風に静かな雨は好き」
「あっそう。でも何で海に居るの。雨に打たれたいなら、家の庭でしてくれよ。こんな、誤解を生むような場所で打たれなくてもいいだろ」
「家に庭はないもの。それに、海で雨に打たれるって、すごくロマンチックだと思ったの。でも、心配かけちゃったんだね。ごめんなさい」
彼女は、まったく悪びれる様子なく笑いながら謝ると、視線を逸らし、空を映したような薄い灰色の海を見つめる。雨足は一向にとまる気配はなく、しかし、強くなる気配もない。静かに細く降る雨は、ゆっくりと、俺と彼女の体や衣服を濡らしていく。
「次はきみの番だよ。きみは何で、ここに居るの?」
彼女は、海に視線を置いたまま言った。
「俺、海の家のアルバイト店員なんだよ。折角、客も来ないし、思いっきりサボれるって思って海を見たら、お前が居た」
「で、自殺しているのかと勘違いしちゃったの? ばっかみたい」
そう言って、けらけらと可笑しそうに笑う。からりとした彼女の笑顔は、つくづく雨に似合わないな、と思った。
「普通、そう思うだろ」
「そう思うだろうね、普通」
「だろ?」
「うん」
沈黙。そのあと、彼女はゆっくりと視線を俺に戻し、ゆったりと笑みを浮かべた。
「でも、きみは私を心配して、来てくれたわけじゃないね」
「ああ。他人の命なんて、どうでもいいからね」
「自分の命も、でしょう?」
「……そうかもね」
答えながら、彼女の大きくて黒い目に、彼女の笑顔に、彼女の言葉に吸い込まれそうになる。
「死のうとしているのはきみの方だ」
彼女の鋭利な笑みが、俺の心を突き刺す。
「ほーら、何で分かったのって顔してる」
彼女は、得意気に笑うと、全てを見透かした大きな瞳を、ゆっくりと細めた。
「私ね、海の家のアルバイト店員なの。でも、アルバイト店員は私だけ。ということは、君は嘘を吐いているということになる」
思わず自嘲の笑みが零れた。咄嗟に吐いた嘘が、結局、墓穴を掘ることになっていた。
「そうだよ、嘘。でも、それだけで自殺しようとしてるって決め付ける訳?」
最後の強がり。俺は彼女に負けてばかりだ。冷たい雨の雫が目の中に入り、滲んだ世界にくらくらした。
「ううん。違うよ」
彼女は小さく笑って、びしょ濡れになった俺の頬に手を当てた。長い間、雨に打たれていたせいか、彼女の手はひんやりとして冷たい。冷たくて良かった、と安堵する。もしも温かかったら、俺は彼女を、迎えに来た天使だと錯覚してしまうだろうから。
「だって君、泣いてるもの。気づかないとでも思いました?」
「なるほど」
俺は小さく笑って頬に触れる手を優しく握った。
雨足は少しずつ弱くなる。
ある企画のサンプル小説として提出した作品です。
まだ、誰にも感想を貰っていない作品なので、最後まで読んでいただけた方は是非、お気軽に感想を書き込んじゃってください! 一言でも、激辛感想でも大歓迎です!