第8話 琥珀色に染まるのを待つように
夕方になり、しごかれたギルバートが医務室へ運ばれていくと、第零班の執務室にはまた静寂が戻ってきた。
窓の外は茜色に染まり始めている。
クラウスは窓際の棚の前で、腕を組んで立っていた。
その視線の先にあるのは、ベルンが入団当初に持ち込んだ「果実酒の瓶」だ。
氷砂糖と、季節の果実が漬け込まれている。
まだ砂糖は溶けきっておらず、底の方に白く溜まっていた。
「……遅い」
クラウスが苛立たしげに呟いた。
彼が気にしているのは、酒のことだけではない。
弟を殺した「見えない魔獣」。その正体に繋がる手がかりが、一向に掴めないことへの焦りだ。
第零班の総力を挙げても、目撃情報は少なく、敵の正体は霧の中。
若き天才指揮官としてのプライドと、ベルンの期待に応えたいという思いが、彼を急かしていた。
「振れば、早く溶けるか?」
クラウスが瓶に手を伸ばし、乱暴に揺すろうとした。
結果を急ぐあまり、過程を飛ばそうとする子供の手つき。
「――いけません、団長」
ベルンの大きな手が、横からそっと伸びてきた。
クラウスの手首を優しく、しかし力強く制止する。
「無理に揺すれば、果実が崩れて濁ってしまいます。……美味しくなりませんよ」
「だが、待っていられん。時間が惜しい」
「時間は、奪うものじゃありません。……味方につけるものです」
ベルンは瓶をそっと取り上げ、夕陽にかざした。
琥珀色の液体の中で、果実と砂糖がゆっくりと、目に見えない速度で混ざり合っている。
「料理も、捜査も、そして人間関係も同じです」
ベルンは静かに語りかけた。
それは三十八年という月日を、喜びも、そして取り返しのつかない喪失も味わってきた男だけが持つ、凪のような言葉だった。
「焦って蓋を開ければ、空気に触れて腐ってしまうこともある。今は何も変わっていないように見えても、中でじっくりと味が染みている途中なんです」
「……味が、染みる」
「ええ。待つ時間は、ただの空白じゃありません。美味しくなるための、必要な工程です」
ベルンは目を細め、かつて弟と並んで厨房に立った日々を思い出すように言った。
復讐に燃えて入団したベルン自身、最初は焦っていた。
だが、この執務室でスープを作り、クラウスと過ごすうちに、少しずつ澱のような焦燥感が沈殿し、澄んできたのを感じていた。
「だから、信じて待ちましょう。私たちのやってきたことは、無駄にはなりません。……必ず、飲み頃の時は来ます」
クラウスは、ベルンの横顔を見上げた。
夕陽に照らされたその顔は、皺の一つ一つに年輪のような深みがあり、不思議なほどの安心感を放っていた。
自分は「剣の天才」と呼ばれ、最年少で今の地位に就いた。
常に最短距離を走り、効率を求め、結果だけを見て生きてきた。
だが、この男は違う。
立ち止まることの強さ。待つことの豊かさ。
自分に欠けている「大人」の余裕を、この男は持っている。
悔しいが、その包容力に、どうしようもなく惹かれている自分がいた。
「……貴様は、如才ない男だな」
クラウスはふいと視線を逸らし、瓶から手を離した。
だが、その指先が離れる寸前、ベルンの手の甲を一度だけ、ぎゅっと握った。
「……分かった。貴様の言う通り、待ってみることにする」
「それがいいです」
「ただし」
クラウスは上目遣いにベルンを睨んだ。
「完成した時の封明けの一杯目は、私が貰う。……誰にもやるなよ」
「もちろん。オーナーは団長ですから」
ベルンが笑うと、クラウスもつられて、僅かに口元を緩めた。
+++
夜。
執務室のドアが再び開き、包帯だらけのギルバートがゾンビのように帰還した。
「うぅ……死ぬかと思った……。ベルンさぁーん、癒やしてぇ……湿布貼ってぇ……」
懲りない男である。
ギルバートは涙目でベルンの方へよろめき、その腕に縋りつこうとした。
「まったく、しょうがありませんね」
ベルンが苦笑して手を貸そうとした、その瞬間。
バシッ!
乾いた音が響いた。
クラウスの手が、ギルバートの手首を空中で掴み、万力のように締め上げていた。
「いっ、痛い痛い! 団長!?」
「……二度は言わんぞ」
クラウスは氷の瞳でギルバートを射抜くと、乱暴にその手を振り払った。
そして、空いた手でベルンの腕をぐいと引き寄せ、自分の背中に隠すように抱え込んだ。
「こいつは私の部下……いや、補佐官だ」
クラウスはベルンの二の腕を抱きしめ、威嚇する猫のように鋭く宣言した。
「気安く触るな。……私の許可なくな」
それは上官としての命令というより、自分のお気に入りの宝物を取られまいとする子供の独占欲そのものだった。
だが、その声には夕方の会話を経て生まれた、確かな信頼と執着が滲んでいた。
「え、あ、はい……すんません……(あれ? これってもしかして……)」
ギルバートはポカンとして、団長とベルンを交互に見比べた。
ベルンは捕まえられた腕を解こうとはせず、やれやれと肩をすくめただけだった。
「……団長、あんまり強く掴むと鍋を振れなくなっちゃいますよ」
「うるさい。……罰だ。黙って掴まれていろ」
クラウスは顔を背けたが、その耳はほんのりと赤く染まっていた。
未完成の果実酒が棚の上で静かに琥珀色を深める中、第零班の夜は、少し騒がしく、そして甘やかに更けていった。




