第7話 独占欲
王立騎士団、特別捜査局・第零班の執務室は、最近になって劇的な変化を遂げていた。
かつては「墓場」と呼ばれ、カビと埃とインクの臭いが充満していた地下室。
だが今は、何とも言えない芳醇で独特な――香りが漂っている。
その発生源は、部屋の隅にある給湯室だった。
「よし、今日もいい発酵具合だ」
ベルンは給湯室の床に置いた大きな陶器の甕を覗き込み、満足げに頷いた。
袖を捲り上げた太い腕を、甕の中身へと突き入れる。
ぬちゃ、ぬちゃ、という粘着質な音と共に、熟成された酸味がふわりと舞い上がった。
ぬか床である。
ベルンが友人の食堂から頼み込んで分けてもらって持参し、こっそりと(そして今は公然と)育成している菌の寝床だ。
一般的に、騎士団の、それも貴族出身者が多い職場において、この庶民的かつ強烈な発酵臭は「異臭騒ぎ」になりかねない。
しかし、この第零班の支配者であるクラウス・フェン・アルゼイン団長の反応は違った。
「……ふむ」
いつの間にか、クラウスがベルンの背後に立っていた。
そしてあろうことか、ベルンが底から掻き混ぜて立ち上らせたぬかの匂いを、目を閉じてスゥーッと深く吸い込んだのだ。
「……落ち着く匂いだ」
「そうですか? 普通は『臭い』と言われるんですが」
「いや、これは……『生命』の匂いだ。貴様の手の匂いと同じだな」
クラウスは陶酔したように呟き、ベルンの作業をじっと見守っている。
どうやら、この「氷の処刑人」にとって、ベルンに関連する匂いはすべて極上のアロマとして認識されているらしい。
ベルンは苦笑しながら、漬かっていたキュウリと大根を取り出した。
飴色に染まった野菜は、宝石のように艶やかだ。
「ちょうどいい漬かり具合だ。昼飯のおかずにしましょうか」
「……許可する。毒見は私が引き受けよう」
食い気味に答える上司に、ベルンは「はいはい」と肩をすくめた。
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昼食時。
執務室のデスクには、炊きたての白米のおにぎりと、切り分けられたぬか漬け、そして即席の味噌汁が並べられていた。
質素だが、最強の布陣だ。
クラウスは優雅な手つきでおにぎりを手に取り、無言で頬張っている。
その表情は至福そのもので、時折、漬物を齧っては「……ん」と喉を鳴らす。
平和な午後だった。
その男が現れるまでは。
「おーっす! 戻りましたぁー!」
バン! と扉を勢いよく開けて入ってきたのは、第零班のムードメーカー(自称)、ギルバート一等兵だった。
茶髪を遊ばせた軽薄そうな青年で、手には市中の巡回報告書を持っている。
「いやー、今日も平和でしたよ。猫の喧嘩を仲裁したくらいで……って、うわっ! 何このいい匂い!」
ギルバートの鼻がピクピクと動く。
そして、ベルンのデスクにある山盛りの漬物にロックオンした。
「ベルンさん! これ、もしかして手作りっすか!? うまそー!」
「ああ、ギルバートさん。戻りましたか。食べるのでしたらまだありますよ」
「マジで!? 出来る後輩持ててうれしー!」
ギルバートは遠慮という言葉を知らない。
洗っていない手でキュウリを摘み、パクリと口に放り込む。
バリボリと小気味よい音が響いた。
「うんめぇえええ!! 何これ、売り物より美味いじゃん! 塩加減が神! 米が進む味!」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいです」
「ベルンさん、マジで俺の嫁に来てよ! いや、俺が嫁いじゃおっかなー」
感極まったギルバートが、背後からベルンに抱きついた。
大柄なベルンの背中に頬を擦り付け、肩に顎を乗せる。
男同士のスキンシップとしては過剰だが、人懐っこいギルバートにとってはいつもの距離感だ。
「……勘弁してくださいよ。暑いですから」
「いいじゃないっすかぁ。ベルンさん、いい匂いするし。お父さんみたいな匂い……」
和気藹々《わきあいあい》とした空気。
だが、次の瞬間。
執務室の気温が、体感で十度は下がった。
カチャン。
フォークが皿に当たる、硬質で冷たい音が響いた。
ギルバートの動きが止まる。
ベルンも視線を上げた。
向かいの席。
クラウスが、おにぎりを手にしたまま静止していた。
その青い瞳からは、光という光が消失していた。
ハイライトのない、深海のような暗く冷たい瞳が、ベルンに抱きつくギルバートの腕を一点に見つめている。
「……ギルバート一等兵」
名前を呼ばれただけなのに、ギルバートは「ひっ」と悲鳴を上げた。
死刑宣告のような響きだったからだ。
「は、はいっ! なんでしょう団長!」
「貴様、随分と体力が有り余っているようだな。……外回りの後で、そんなにはしゃぐ元気があるとは」
クラウスがゆっくりと立ち上がる。
その背後には、可視化できそうなほどのどす黒いオーラが揺らめいている。
「食後の運動が必要だな。……ついてこい」
「え、あ、ちょ、飯……俺の漬物……!」
「貴様ごときが口にしていいものではない!」
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午後一番の修練場は、地獄絵図と化していた。
「ほら、足が止まっているぞ! 次は泥の中を匍匐前進だ! 50メートル!」
「ひええええ! 勘弁してください団長ぉおお!」
泥まみれになって這い回るギルバート。
その頭上から、クラウスが容赦ない罵声を浴びせている。
通常の訓練メニューではない。明らかに私怨の籠もった、理不尽極まりない「しごき」だった。
修練場の端にあるベンチで、ベルンはその様子を眺めていた。
手には、クラウスに「貴様はそこで茶でも飲んでいろ」と渡された水筒がある。
「……やりすぎじゃないですかね」
ベルンは恐る恐る声をかけた。
ギルバートはもう涙目だ。
「団長、彼はただじゃれついてきただけで……」
「甘やかさん」
クラウスはベルンの方を見向きもせず、冷たく言い放った。
「あいつは、私の所有……部下に、許可なく接触した。衛生管理上の重大な問題だ」
「衛生管理?」
「そうだ。外の菌を持ち込まれたら、貴様の……料理の味が変わる」
無理やりな理屈だった。
要するに、「自分の気に入っているクッションに泥をつけられたくない子供」の癇癪だ。
だが、その横顔があまりにも必死で、不機嫌そうに尖らせた唇が妙に幼く見えて、ベルンは何も言えなくなってしまった。
「……貴様もだ」
クラウスが、ふと声を落とした。
「安売りするな。誰にでも料理を振る舞うな。誰にでも背中を預けるな」
「……はあ」
「貴様は私の専属だ。……自覚を持て」
それは命令というより、懇願に近い響きを含んでいた。
ベルンは水筒のお茶を一口飲み込み、小さく苦笑した。
(……やれやれ。手のかかる上司だ)




