第6話 資料室の密会
夕方。
ベルンは補佐官としての初仕事で、本部棟にある中央資料室へ向かっていた。
過去の魔獣被害の記録を閲覧するためだ。
すれ違う騎士たちが、ベルンを見てひそひそと噂話をしている。
「あれが噂の中年新兵か」「団長に取り入ったらしいぞ」「料理で懐柔したとか」
資料室に入ると、そこには第一班のエリート騎士たちが数名たむろしていた。
彼らはベルンの姿を見ると、露骨に邪険な顔をして道を塞いだ。
「おいおい、第零班の『コック』殿じゃないか」
「ここはオッサンのような底辺が来ていい場所じゃないぞ」
リーダー格の年下男が、ベルンの胸倉を小突いた。
ベルンは争うつもりはなく、穏やかに頭を下げる。
「失礼します。団長の命令で、資料を取りに来ました」
「団長? 少しばかり剣術がうまいからって『氷の処刑人』なんてもてはやされて、ガキのくせに偉そうなアレ?」
男の一人が、ベルンが手に持っていたバスケットに目をつけた。
中には、夜食の下ごしらえをした容器が入っている。
「なんだこれは。おままごとの道具か?」
ガシャン。
男がバスケットを蹴り飛ばした。
中身が床に散乱する。漬け込んでいたピクルスの瓶が割れ、酸っぱい匂いが広がった。
「あ……」
ベルンが息を呑む。
それは、昨夜クラウスが「食べてみたい」と言っていた自家製のピクルスだった。
「騎士団は神聖な場所だ。こんなゴミを持ち込むな」
「……ゴミではありません。これは大切な……」
「うるさい! 掃除してさっさと消えろ!」
男がさらにベルンを蹴ろうと足を上げた、その時だった。
「――何をしている」
地を這うような、低く、冷たい声が響いた。
室内の気温が一瞬で氷点下まで下がったかのような錯覚。
入り口に、クラウスが立っていた。
朝の輝くような美貌はそのままに、その瞳には絶対零度の殺気が宿っている。
「だ、団長……!? いや、これは、こいつがつっかかって来たもので……」
「私の補佐官に何か用か? ゴミ共」
クラウスが一歩踏み出すだけで、エリート騎士たちは蛇に睨まれた蛙のように縮み上がった。
クラウスは床に散らばったピクルスを一瞥し、さらに深く目を細めた。
「……私の夜食を台無しにした罪は重いぞ。貴様ら、今から極寒の北部へ行軍遠征に行くか。それとも、今ここで私と手合わせするか?」
騎士たちは顔面蒼白になり、「し、失礼しましたァッ!」と叫んで逃げ去っていった。
静まり返った資料室。
ベルンはため息をつき、散らばったガラス片を拾おうと屈み込んだ。
「すみません、団長。ご迷惑をおかけしました」
「……触るな」
クラウスが鋭い声で止めた。
ベルンの手首を掴み、立たせる。
「指を切る。掃除など、後で清掃係にやらせればいい」
「ですが……」
「それより、こっちだ」
クラウスはベルンの手を引くと、資料室の陰、本棚と本棚の間の狭いスペースに押し込んだ。
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「だ、団長?」
至近距離。
クラウスの顔がすぐ目の前にある。
怒っているのかと思ったが、その表情はどこか不安定に揺らいでいた。
呼吸が浅い。
ベルンが罵倒されたこと、ベルンが作った(非)毒が粗末にされたことへの怒りで、アドレナリンが出すぎてしまった反動だろうか。
「……成分が切れた。補給させろ」
「は?」
クラウスは問答無用で、ベルンの広い胸板に自分の額を「ごん」と押し付けた。
そのまま、脱力するように体重を預けてくる。
「……黙っていろ。これは任務だ」
ベルンは両手を空中に彷徨わせたまま、硬直した。
胸元から、クラウスの体温が伝わってくる。
微かに震えているようにも感じられた。
最強の騎士団長。氷の処刑人。
そんな異名で呼ばれていても、中身はまだ二十二歳の、愛を知らない青年なのだ。
ベルンの軍服からは、微かにキッチンでついたベーコンの残り香と、いつもの干し草のような匂いがしているはずだ。
クラウスはそれを深呼吸するように吸い込み、強張っていた肩の力をゆっくりと抜いていく。
「……貴様は、私の『特別』な補佐官だ」
顔を埋めたまま、くぐもった声でクラウスが言った。
「誰にも文句は言わせん。私の許可なく傷つくことも、馬鹿にされることも許さん」
それは所有宣言のようであり、不器用な守護の誓いのようでもあった。
そして、最後にポツリと、一番の本音が漏れた。
「……だから、勝手に私の視界から出るな。……探すのが、面倒だ」
ベルンは気づいてしまった。
命令口調で虚勢を張っているが、クラウスの手が、ベルンの上着の裾をギュッと握りしめていることに。
行くな、と言っているのだ。
(……これじゃあ、どっちが保護者なんだか)
ベルンは苦笑し、空中で迷っていた手をそっと下ろした。
抱きしめることはしなかったが、代わりにその大きな掌を、クラウスの背中に軽く添えた。
それだけで、クラウスの喉が安堵の音を漏らしたのが分かった。
「……了解しました、ボス(団長)」
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十分ほどの「充電」を終えると、クラウスは嘘のように復活した。
キリッとした表情に戻り(耳だけは少し赤いが)、ベルンを引き連れて執務室へと戻る。
「さて、残業だ。ベルン補佐官、夕食の代替案を提出しろ」
執務机に座るなり、クラウスはふんぞり返って言った。
先ほどの弱々しさはどこへやら、完全に「飼い主」の顔である。
いや、餌を待つ「飼い猫」と言うべきか。
「ピクルスは残念でしたが、卵と米は無事です。リクエストにお答えして、オムライスにしましょうか」
ベルンが提案すると、クラウスの青い瞳が星のように輝いた。
だが、すぐに咳払いをして表情を引き締める。
「……ほう、卵料理か。中まで火が通っているか、入念な検査が必要だな。……大盛りで作れ」
「はいはい」
ベルンは給湯室に向かい、エプロンを締めた。
コンロに火をつける。
バターが溶ける甘い香りが漂い始めると、執務室の空気がふわりと緩む。
背後では、クラウスが鼻歌混じりに(本人は隠しているつもりだが)書類に判子を押す音が聞こえる。
奇妙な共依存。
復讐に燃える元料理人と、孤独な不眠症の騎士団長。
二人の夜は、まだ始まったばかりだ。
フライパンの上で踊る黄色い卵を見つめながら、ベルンは「卵料理は、中まで火が通ってない方がいいんですよ」と小さく呟いた。




