第4話 団長の抱き枕
「……その匂い。……干し草の……」
「団長? 匂い? ……うわっ!?」
ベルンが言いかけた途端、強い力で腕を引かれた。
バランスを崩したベルンは、ソファの上に尻餅をつく形になる。
狭い二人掛けのソファだ。ベルンが座ったことで、スペースはぎちぎちになった。
何事かと体勢を直そうとしたベルンの太ももに、重みがかかる。
ごろん。
クラウスが、頭を乗せてきたのだ。
見事な膝枕の完成である。
「ちょ、団長!?」
ベルンは慌てた。三十八歳のオッサンの太ももなど、硬くて寝心地が悪かろう。
だが、クラウスは満足げに喉を鳴らした。
それどころか、両腕を伸ばし、ベルンの太い足を抱き枕のように抱え込んだのだ。
「……んぅ……」
クラウスの顔が、ベルンの腹のあたりに埋まる。
そしてあろうことか、ベルンの匂いを深く吸い込むように、スースーと鼻を鳴らし始めた。
(チョ……マジですか、団チョ)
ベルンは天を仰いだ。
普段は近づくだけで凍りつきそうなオーラを放つ上司が、今はベルンの足を抱きしめ、猫のように丸まっている。
銀色の髪がサラサラとベルンの手に触れる。
その体温は高く、規則正しい寝息が、ベルンの太ももを通して伝わってきた。
どうやら、完全に熟睡モードに入ったらしい。
無理に剥がせば起きるだろうが、先ほどの「行くな」という声を思い出すと、無下にはできなかった。
「……仕方ない」
ベルンは諦め、ソファの肘掛けを即席の机代わりにした。
膝の上には、無防備に眠る美形の上司。
その重みと温もりを感じながら、ベルンは残っていた書類の束を手に取った。
ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響く。
時折、クラウスが寝言のように「……スープ……」と呟き、ベルンの太ももに頬を擦り付ける。
その度に、ベルンの手元が狂い、書類の文字が少し歪む。
+++
翌朝。
第零班の執務室の扉が開いたのは、朝の七時だった。
「おっはよーございまーす! いやー、昨日の雨は凄かったですねえ!」
能天気な声と共に飛び込んできたのは、同僚のギルバートだ。
茶髪で軽薄そうな彼は、いつものように適当な挨拶をして中に入り――そして、硬直した。
彼の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
執務室のソファ。
そこに、あの「氷の処刑人」クラウス団長が寝ていた。
それだけなら、徹夜明けの仮眠として珍しくはない。
異常なのは、その寝方だ。
クラウスは、新人の中年男――ベルンの太ももを枕にし、さらにその足を愛おしそうに両腕で抱きかかえ、幸せそうな顔で熟睡していたのである。
その髪は寝癖で爆発し、口元は僅かに緩んでいる。
肌はツヤツヤと血色が良く、まるで天使の寝顔だ。
そしてその枕にされているベルンは、ソファに座ったまま、首を直角に曲げて器用に船を漕いでいた。
「……えっ、何これ。えっ?」
ギルバートは自分の目を疑い、二度こすった。
あの人間嫌いの団長が? オッサンを抱き枕に?
「……んん……」
ギルバートの動揺をよそに、朝日が差し込んだことでクラウスが身じろぎした。
長い睫毛が震え、ゆっくりと青い瞳が開く。
「……よく寝た……」
これほど深く、子供のように眠ったのは何年ぶりだろうか。
頭が驚くほど軽い。視界もクリアだ。
クラウスは伸びをしようとして――自分が何か温かいものに抱きついていることに気づいた。
硬いが、弾力のある温かい柱。
そして鼻先には、大好きな干し草の匂い。
ゆっくりと視線を上げる。
そこには、口を開けて爆睡しているベルンの顔があった。
「…………」
クラウスの思考が停止する。
現状確認。
自分はソファで寝ている。
ベルンの膝を枕にしている。
ベルンの足を、恋人のように抱きしめている。
入り口では、ギルバートが幽霊でも見たような顔で立ち尽くしている。
カッ。
音が聞こえるほどの勢いで、クラウスの全身に血液が駆け巡った。
「~~ッ!!」
言葉にならない悲鳴を上げ、クラウスはバネ仕掛けのように跳ね起きた。
「き、きき、貴様らッ!! な、何を見ている!!」
その勢いでベルンも目を覚ます。
「うおっ!? 敵襲!?」
寝ぼけて周囲を見回すベルンを、クラウスは真っ赤な顔で突き飛ばした。
「無礼者ッ! 誰が膝枕など許可した! これは……そう、不可抗力だ! 貴様の足が邪魔で、排除しようとして……!」
支離滅裂な言い訳を叫びながら、クラウスは乱れた髪と服を必死に直す。
その耳まで真っ赤に染まっているのは、誰の目にも明らかだった。
ギルバートは口をポカンと開けたまま、ベルンと団長を交互に見ている。
「……団長、顔、赤いっすよ」
「う、うるさい! 業務に戻れ! 今すぐだ!」
クラウスは脱兎のごとく自分の机に戻り、書類の山に顔を埋めた。
だが、書類を持つ手は小刻みに震えている。
ベルンは痛む腰をさすりながら、のっそりと立ち上がった。
足が痺れて感覚がない。
だが、その顔には苦笑いが浮かんでいた。
「……まったく、寝起きの悪い上司だ」
ベルンが空になった鍋を片付けようと給湯室に向かうと、背後からボソリと、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「……スープの味は、評価してやる」
「……え?」
「二度は言わん! さっさと片付けろ!」
振り返ると、書類で顔を隠したクラウスの耳が、まだ熟したトマトのように赤かった。
ベルンはふっと笑い、「了解しました」と短く答えた。
団長の機嫌がいいその日一日、第零班の執務室には、いつもより少しだけ和やかな空気が流れた。
そしてベルンは悟った。
この「氷の処刑人」を攻略する鍵は、剣技ではなく、胃袋と「抱き枕」にあるのかもしれない、と。




