第3話 秘密のスープ
王立騎士団、特別捜査局・第零班の執務室は、今日も今日とて墓場のように静まり返っていた。
聞こえるのは、雨が石壁を叩く音と、書類をめくる乾いた音だけ。
そして時折、不健康な「じゅるり」という音が響く。
部屋の最奥。書類の塔に埋もれるようにして、騎士団長のクラウス・フェン・アルゼインは、紫色をしたゼリー状の物体を吸っていた。
『完全栄養食・バイオレット』。
魔導研究所が開発した、人間が生きていく上で必要な栄養素をすべて含んだ携帯食だ。味は「濡れたダンボール」と評されるほど酷いが、食事の時間を惜しむクラウスにとっては主食だった。
「……ベルン二等兵」
「はい」
部屋の隅で、埃を被った過去十年分の事件資料を整理していたベルンが顔を上げる。
入団から一週間。ベルンに与えられた仕事は、この終わりの見えない雑用だけだった。
「その資料の分類、あと一時間で終わらせろ。終わらなければ……」
「終わらなければ?」
「貴様を『栄養剤買いたし係』に降格する」
理不尽な命令だが、クラウスの声には覇気がない。
ベルンはそっと上司の顔を盗み見た。
美しい銀髪は乱れ、目の下の隈はさらに濃くなっている。肌は陶器のように白いが、それは健康的な白さではなく、透けてしまいそうな病的な蒼白さだ。
聞けば、ここ数日、一睡もしていないらしい。
不眠症と過労、そして味気ないゼリーだけの生活。
二十二歳の若さで国一番の「処刑人」を演じる青年の体は、悲鳴を上げていた。
(……見ていられないな)
ベルンは溜息をついた。
復讐のためにここに来た。上司のご機嫌取りをするつもりはない。
だが、元料理人として、そして三十八歳の大人として、目の前で餓死しかけている青年を放置するのは寝覚めが悪かった。
「……少し、休憩にしましょうか」
「休憩だと? そんな暇が……」
クラウスが立ち上がろうとした瞬間、体がぐらりと揺れた。
書類棚に肩を強打し、そのままズルズルと床に座り込む。
「団長!」
「……触るな。ただの、立ちくらみだ……」
強がる声は震えている。クラウスは壁に手をつき、這うようにして執務室のソファへと移動した。
そのまま、糸が切れたように倒れ込む。
数秒もしないうちに、浅く、苦しげな呼吸音が聞こえ始めた。気絶に近い仮眠だ。
ベルンはしばらくその様子を見ていたが、やがて決意したように自分の荷物袋を開いた。
「……バレたら懲罰房行きかもしれないが、まあいいか」
取り出したのは、金属製の四角い箱だった。
表面には複雑な魔術回路が刻印されている。
携帯用魔導熱源機。
一般的には野営や遠征で湯を沸かすために使われる魔道具だが、ベルンが持ち込んだこれは、火力を細かく調整できるように裏ルートで改造した代物だ。
要するに、カセットコンロである。
ベルンは給湯室――といっても、流し台が一つあるだけの狭い空間――にイグニス・ポットを設置した。
小鍋に水を張り、魔石のスイッチをひねる。ボッ、と青白い炎が灯る。
「さて、冷蔵庫の余り物は……と」
共有の魔導冷蔵庫には、いつ買ったかも分からない萎びた野菜が転がっていた。
カブ、人参、そして塩漬け肉の端切れ。
十分だ。
ベルンは慣れた手つきでナイフを滑らせる。
トントントン、と軽快な音が響く。
カブは皮を厚めに剥いてくし形に。人参は乱切り。塩漬け肉は細かく刻んで旨味のベースにする。
鍋に具材を放り込み、弱火でじっくりと煮込む。
味付けはシンプルに塩と、隠し味に持参していた乾燥ハーブを少々。
十分もすれば、殺風景な地下室の空気が変わり始めた。
インクとカビと湿気の臭いが消え、代わりに、野菜の甘い香りと、肉の脂が溶け出した芳醇な香りが漂う。
それは、生活感のある「家」の匂いと言ってもいい。
+++
「……なんだ、この匂いは」
ソファの方から、不機嫌そうな声がした。
ベルンが振り返ると、クラウスが上半身だけを起こし、鼻をヒクつかせていた。
その瞳は眠気でとろんとしているが、眉間には深い皺が刻まれている。
「ここは神聖な執務室だぞ。厨房と勘違いしているのか、貴様は」
「起きましたか、団長」
ベルンは悪びれもせず、湯気の立つマグカップを持って近づいた。
「毒見をお願いします」
「……は?」
「新種のハーブを手に入れたんですが、効能が未知数でして。一人で飲むのは少々怖い。そこで、最強の毒耐性を持つ団長に毒味のご協力を頂けないかと」
見え透いた嘘だった。
だが、「腹が減っているだろうから食え」と言えば、このプライドの高い上司は間違いなく拒絶する。
ベルンなりの、大人の配慮だった。
クラウスは訝しげにマグカップを睨んだ。
中身は、黄金色のスープ。くたくたに煮込まれたカブが、肉からわずかに出た油を纏い宝石のようにひかり、透き通っている。
ゴクリ、とクラウスの喉が鳴った。
本能が、理性を凌駕した瞬間だった。
「……フン。今回だけだぞ。早く終わらせて仕事へ戻らせてやる」
クラウスはふんだくるようにカップを受け取った。
スプーンで慎重に一口、液体をすくい、啜る。
その瞬間、クラウスの動きが止まった。
カッと目を見開き、カップの中身とベルンの顔を交互に見る。
(……なんだ、これは)
舌の上で優しく広がる、野菜の甘み。
塩漬け肉の力強い旨味がそれを支え、ハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
栄養剤の、あの科学的で冷たい味気無さとは対極にある味。
喉を通ると、熱い塊が胃袋に落ち、そこからじわりと手足の末端まで温もりが広がっていく。
凍えていた内臓が、歓喜の声を上げて動き出すのが分かった。
「……毒、ではないようだな」
クラウスは誰に言うともなく呟くと、次はカブを口に運んだ。
噛む必要もないほど柔らかく煮込まれたカブが、口の中でほろりと崩れ、ジュワッと出汁が溢れ出す。
「……っ」
あとは、無言だった。
スプーンを動かす手が止まらない。
カチャカチャと食器の音が静かな部屋に響く。
あっという間に固形物を平らげると、クラウスは机にあったパンの欠片を千切り、スープに浸して、最後の一滴まで拭うようにして食べた。
「……毒耐性がなくても、問題ない」
空になったカップをテーブルに置くと、クラウスはふぅ、と長い息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの険しい鬼気はなかった。
満腹になった子供のような、呆気ないほど無防備な表情。
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お腹が満たされると、次にやってくるのは抗いようのない睡魔だ。
消化器官に血液が集まり、脳の覚醒レベルが急速に低下していく。
加えて、クラウスは数日間の徹夜続きだ。限界はとっくに超えていた。
「……少しだけ、目を閉じる」
クラウスの瞼が重力に負けて落ちていく。
「五分だ。五分後に起こせ……。起きなければ、水をぶっかけてもいい……」
言うが早いか、クラウスはソファに横倒しになった。
ベルンは苦笑して、自分の仮眠用に使っている厚手の毛布を掛けてやる。
使い古して毛羽立っているが、肌触りは悪くないはずだ。
「さて、俺も仕事に戻るか」
ベルンは空のカップを片付けようと、ソファから離れようとした。
その時だった。
グイッ。
軍服の裾を、強い力で引かれた。
振り返ると、半ば夢の中にいるクラウスが、ベルンの服を握りしめている。
「……行くな」
それは、昼間の冷徹な「氷の処刑人」からは想像もつかない、弱々しい声だった。
迷子が親を呼ぶような、切実な響き。




