第17話 氷の城の食卓
王都の高級住宅街、第一地区。
重厚な鉄柵の門が開き、王立騎士団の紋章が入った馬車が滑り込む。
車輪が砂利を踏む音だけが、静寂に包まれた夜の庭園に響いた。
「……団長。本気ですか」
「二度は言わん。降りろ」
馬車から降りたベルン・ガーランドは、目の前に聳え立つ豪邸を見上げ、深いため息をついた。
そこは「家」というよりは「城」だった。
冷たい石造りの外壁、一切の装飾を削ぎ落とした鋭角的なデザイン。窓からは明かりが一つも漏れていない。
まるで、主人の心を具現化したような、拒絶と孤独の要塞。
騎士団長兼第零班班長、クラウス・フェン・アルゼインの私邸である。
「貴様は負傷者だ。そして、私の部下の血を舐めた魔獣が、その味を覚えて追ってくる可能性はゼロではない」
クラウスはマントを翻し、玄関の鍵を開けながらもっともらしい顔で言った。
「よって、完治するまでは私の監視下に置く。……これは護衛任務の一環だ。拒否権はない」
「……はいはい。お邪魔しますよ」
ベルンは諦めて、吊っている左腕を庇いながら敷居を跨いだ。
建前は護衛だが、本音は「怪我をしたベルンが目の届かない場所にいると不安で眠れない」という一点に尽きるだろう。
この不器用な上司の思考回路は、もう手に取るように分かってしまう。
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通されたリビングは、予想通りというべきか、想像以上というべきか。
広大な空間には、最低限のソファとテーブル、そして壁一面の本棚があるだけだった。
床には埃一つないが、生活の匂いもしない。
まるで家具屋の展示場が、閉店後にそのまま廃墟になったような寒々しさだ。
「……殺風景ですね。引っ越してきたばかりですか?」
「いや、住んで四年になる」
「四年!? 泥棒が入っても盗むものがなくて泣いて帰りますよ、これ」
ベルンが呆れて周囲を見回すと、クラウスは不満げに眉を寄せた。
「必要なものは揃っている。寝る場所と、書斎と、風呂だ。……それ以外に何が要る」
「『生活』ですかね。温かみとか、彩りとか……」
ベルンはキッチンへと歩み寄った。
大世帯用の魔導コンロに、広々としたシンク。設備は一流だが、シンクは乾ききっており、一度も水が流された形跡がない。
そして、巨大な冷蔵庫。
「失礼しますよ」
勝手に扉を開ける。
庫内灯が冷たく照らし出したのは、整然と並べられた紫色のパックの列だった。
上段から下段まで、すべて『完全栄養食・バイオレット』。
「…………」
ベルンはそっと扉を閉めた。見なかったことにしたかったが、現実は無情だ。
「団長。貴方はあれですね、光合成でもする植物のように偏ってますね」
「……効率的だと言え。食事に時間を割くのは無駄だ」
「味気ない人生ですねえ。……よくもまあ、こんな食生活であんなに我儘な舌に育ったもんだ」
ベルンは苦笑し、持参した荷物袋を開けた。
中には、市場での襲撃前に購入し、泥まみれになった後にベルンが執念で回収した「銅のレードル」が入っている。
そして、途中で買い直した最低限の食材。
「腹、減ってるんでしょう? 何か作りますよ」
「……腕は大丈夫なのか」
「片手でもできる料理にします。……それに、この家のキッチンにも、そろそろ仕事を与えてやらないと可哀想だ」
ベルンがエプロン(これも持参だ)を片手で器用に締めると、クラウスはソファに座ることもせず、キッチンの入り口でじっとその背中を見つめ始めた。
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カチャ、カチャ。
静寂だった「城」に、初めて調理の音が響く。
ベルンは片手で玉ねぎを刻み、鍋にバターを落とした。
ジュワァ……という音と共に、芳醇な香りが立ち上り、冷え切っていた空気を黄金色に染めていく。
「……いい匂いだ」
背後でクラウスが呟いた。
ベルンは米を透き通るまで炒め、そこにスープを少しずつ加えていく。
今日は「キノコとチーズのクリームリゾット」。
スプーン一本で食べられ、消化にも良く、何より心身を温めるメニューだ。
「手伝うことはあるか」
「ありません」
「だが、貴様は負傷者だ。私が……」
「団長。以前、ゆで卵を作ろうとして鍋を爆発させたのを忘れましたか? 貴方がキッチンに入ると、リゾットが炭や蒸気になります。座っていてください」
ピシャリと言い放つと、クラウスは不貞腐れて椅子に座った。
だが、その視線はずっとベルンの手元――正確には、鍋の中を回る動き――を追っている。
「……その杓子」
「ん?」
「私が買ったものだ。所有権は私にある」
「ええ、存じてますよ」
「だから……それで作られる料理も、全て私のものだ」
遠回しで、独占欲に満ちた宣言。
ベルンは鍋をかき混ぜながら、くすりと笑った。
「はいはい。全部貴方のものです、オーナー」
十分後。
湯気を立てる二つの皿がテーブルに並んだ。
濃厚なチーズの香りと、キノコの旨味。
一口食べたクラウスの瞳が、パァッと輝く。
先ほどまでの不機嫌さはどこへやら、彼は夢中でスプーンを動かし始めた。
その光景を見ながら、ベルンはふと、昼間の出来事を切り出した。
「……団長。あの魔獣のことですが」
「ん……なんだ」
「妙だと思いませんか。透明魔獣は本来、人里離れた森の奥に棲む魔獣です。警戒心が強く、あんな風に白昼堂々、街中で人を襲うなんて習性はない」
ベルンの指摘に、クラウスの手が止まった。
食事の快楽に緩んでいた表情が引き締まり、指揮官の顔に戻る。
「……ああ。私も同意見だ。奴らは本来、単独行動を好む。だが今回は群れで現れ、しかも市民を襲った。無差別なのか狙ってなのか」
「狙ってたとしたら、誰かに誘導されたか」
ベルンが言葉を継ぐと、クラウスは沈黙した。
その瞳には、認めたくない疑念と、冷徹な理性がせめぎ合っている。
「……誰かが意図的に魔獣を王都に招き入れたと? だが、そんなことが可能なのは、結界の管理権限を持つ上位の……」
そこまで言って、クラウスは口を閉ざした。
王都の結界管理。それは治安判事であるヴァルデングの管轄だ。
だが、クラウスにとって彼は「父」であり「恩人」。疑うことすら不敬だと、無意識に思考をブロックしているのが分かる。
(……まだ、言えないな)
ベルンは心の中で溜息をついた。
あの時、現場に残っていた「腐った果実」のような甘ったるい悪臭。
それは、舞踏会の夜にヴァルデングから漂っていた臭いと同じだった。
だが、確証がないまま告げれば、クラウスを傷つけるだけだ。
「……まあ、野生の魔獣が餌を求めて迷い込んだだけかもしれません。野良にしては、出現場所が街中過ぎましたが」
ベルンが話題を濁すと、クラウスは少し安堵したように息を吐き、再びリゾットに向き合った。
「……調査は続ける。私の街で、好き勝手はさせん」
その横顔は凛々しいが、どこか危うい。
ベルンは決意した。この人が真実に直面して砕け散る時、支えられるのは自分しかいないのだと。
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食後の片付けを終えたベルンは、リビングの一角にある飾り棚に目を留めた。
殺風景な部屋の中で、そこだけが異質なほど豪華だった。
飾られているのは、アンティークの置時計。
精巧な細工が施された、一級品だ。
「……綺麗な時計ですね」
「ああ。私が騎士団長に就任した時、ヴァルデング様が贈ってくださったものだ。『時は公平だが、使い手を選ぶ』とな」
風呂上がりで髪を拭きながら現れたクラウスが、誇らしげに言った。
ベルンは何気なく、その時計に近づいた。
そして、鼻をひくつかせた。
(……ッ!?)
心臓が跳ねた。
その時計から、微かに――だが確実に、あの臭いがしたのだ。
高級な木材の香りに混じって漂う、鉄錆と腐った果実の臭い。
昼間の路地裏で嗅いだ、あの死臭。
「……どうかしたか?」
「い、いえ……。素晴らしい細工だなと」
ベルンは咄嗟に作り笑いを浮かべ、一歩下がった。
間違いない。
この家の中にも、あの男の影が入り込んでいる。
クラウスが最も信頼し、大切にしているこの贈り物が、実は彼を縛り付ける呪いのように見えて、ベルンは背筋が寒くなった。
「……ベルン?」
不審に思ったのか、クラウスが覗き込んでくる。
風呂上がりの彼は、濡れた銀髪を下ろし、いつもの軍服ではなくラフな寝間着姿だ。
その姿はあまりに無防備で、あどけない。
この無垢な忠誠心を利用している者がいるとしたら――。
「……なんでもありませんよ。さあ、髪を乾かさないと風邪を引きます」
ベルンは暗い感情を腹の底に押し込め、努めて明るく振る舞った。




