第16話 血と包帯
「私の部下の血だ。……返してもらおうかッ!」
クラウスが疾風のごとく踏み込んだ。
怒りに任せた一撃。
銀閃が空中の血糊を目掛けて走る。
ギャッ!
金属音のような悲鳴と共に、虚空から緑色の体液が飛んだ。
手応えあり。
だが、浅い。
負傷した魔獣は後方へ跳び退くと、驚くべき行動に出た。
その長い舌で、自らの爪についたベルンの血を舐め取ったのだ。
「なっ……!?」
血が消え、再び敵の姿は完全な透明へと戻った。
気配が消える。
賢い。ただの獣ではない。
「どこだ……! どこへ行った!」
クラウスが剣を構えたまま周囲を警戒する。
だが、闇雲に振るえば逃げ惑う市民に当たる可能性がある。
焦りが、クラウスの剣先を狂わせる。
(……落ち着け。俺が見るんだ)
ベルンは激痛に脂汗を流しながらも、呼吸を整えた。
左腕の感覚がない。だが、目は生きている。
料理人が、スープに浮かぶ微かなアクを見逃さないように。
熟成肉の表面に浮かぶ、食べ頃のサインを見逃さないように。
ベルンの「観察眼」が、世界をスローモーションに切り取る。
風の流れ。舞い上がる土埃。
そして、石畳の水溜まりに生じた、ごくわずかな波紋。
(……そこか)
ベルンは叫んだ。
「団長!! 3時の方角! 距離5メートル、高さ腰の位置!!」
その指示に、クラウスは微塵の疑いも持たなかった。
彼は振り返りもせず、ベルンが示した空間へと剣を薙ぎ払った。
「凍てつけ!!――氷葬閃技昇ゥ!!」
剣閃と共に、冷気が爆発する。
クラウスの魔力が、指定された空間の大気を一瞬で凍結させた。
バキバキバキッ!
空間に、氷の彫像が出現する。
それは、巨大なカマキリのような姿をした魔獣だった。
ベルンの指示通り、腰を低くして飛びかかろうとしていた姿勢のまま、霜に覆われて実体化している。
「見えたぞ、貴様の醜い姿が……ッ!」
クラウスは氷の像へと肉薄した。
その一撃は、慈悲も容赦もない、純粋な殺意の塊だった。
ズドンッ!!
魔獣の首が胴体から切り離され、氷の破片となって砕け散った。
緑色の体液を撒き散らし、巨大な体が石畳に崩れ落ちる。
「……はぁ、はぁ……」
残心を示すクラウスの背中は、鬼神のように殺気立っていた。
周囲にはまだ数体の気配があったが、親玉が倒されたことで、それらは蜘蛛の子を散らすように撤退していく気配がした。
そして、去り際に残された強烈な残り香。
あの「腐った果実」の臭い。
(……やっぱりだ。これは自然発生した魔獣じゃない。誰かが……まさかあの人が、仕掛けたというのか)
ベルンの中で、ヴァルデングへの疑念は増していった。
だが、思考を続けるには出血が多すぎた。
視界がぐらりと揺れる。
「……団長、お見事です……」
ベルンが膝をつくと同時に、クラウスが血相を変えて駆け寄ってきた。
「ベルンッ! 傷を見せろ!」
クラウスはベルンの左腕を掴んだ。
裂けた肉。白い骨が見え隠れする深い傷。
それを見た瞬間、クラウスの顔から血の気が失せた。
「……なんてことだ。私の……私の部下が……」
手が震えている。
その震えは、怒りによるものだけではない。喪失への恐怖だ。
幼い頃から孤独だった彼にとって、ベルンは初めて得た「温かい居場所」そのものだ。
それが今、目の前で壊れかけている。
「……団長、私は大丈夫です」
ベルンは意識を保とうと、努めて明るい声を出した。
「それより、あっちの男性のほうが重傷です。先にそちらの救護を……」
「黙れッ!!」
クラウスが叫んだ。
周囲の市民も、駆けつけた役人たちもびくりと震え上がるほどの剣幕だった。
「他人のことなど知ったことか! 貴様の血が流れているんだぞ! これ以上一滴でもこぼしてみろ、私が許さん!」
クラウスは自分のマントを引き裂き、それを止血帯としてベルンの腕に巻き付けた。
震える指で、きつく、きつく縛り上げる。
「ぐっ……! だ、団長、痛いです! そんなに強く結んだら血が止まります(私)!」
「……止まればいい! 二度と、流れないように……ッ!」
クラウスの声は泣きそうに歪んでいた。
ベルンの腕を縛るその力は、傷を塞ぐためというより、ベルンという存在をこの世に繋ぎ止めようとする必死の足掻きだった。
「衛兵の役人ども! 衛生兵を呼べ! 市民の救護も必要だが、ベルンを最優先だ!」
めちゃくちゃな命令が飛ぶ。
だが、誰も逆らえない。
今のクラウスは、触れれば爆発する火薬庫だ。
(……やれやれ。これじゃあ、どっちが怪我人か分からないな)
ベルンは痛みの中で苦笑した。
きつく縛られた包帯の痛み。
だが、その痛みこそが、この不器用な上司からの歪んだ愛情表現なのだと思うと、不思議と悪くない気分だった。
「……おじちゃん!」
その時、小さな声がした。
ベルンが助けた子供が、母親に手を引かれて近づいてきたのだ。
子供は涙目で、ベルンの血まみれの腕を見て震えている。
「助けてくれて、ありがとう……。痛い?」
「ああ、平気だよ。おじちゃんは頑丈だからな」
ベルンは右手で子供の頭を撫でた。
子供は安心したように笑ったが、隣にいる鬼の形相のクラウスを見て、「ひっ」と怯えて母親の後ろに隠れた。
クラウスは「フン」と顔を背ける。
「……礼などいらん。さっさと帰って寝ろ」
冷たい言葉。
だが、その瞳が一瞬だけ、寂しげに揺れたのをベルンは見逃さなかった。
彼は孤独だ。人々を守っても、その凶暴さと冷徹さ故に恐れられ、遠巻きにされる。
ベルンは子供に向かって言った。
「ボウズ。一番強かったのは、この白いお兄ちゃんだぞ。お兄ちゃんが悪い怪物をやっつけてくれたんだ」
「……え?」
「ほら、お礼を言いな」
子供はおずおずと顔を出し、クラウスを見上げた。
「……ありがとう、おにいちゃん。かっこよかったよ」
「…………」
クラウスは目を見開いて硬直した。
褒められ慣れていない子供のような反応。
やがて、彼はバツが悪そうに咳払いをし、ぶっきらぼうに言った。
「……当然だ。私は騎士団長だからな」
そう言って立ち上がり、背を向けたが、その耳がほんのりと赤い。
ベルンは薄れゆく意識の中で、安堵の息を吐いた。
(……よかった。これで少しは、報われたかな)
視界の端に、踏み潰された買い物袋が見えた。
大根は折れ、飛び出したネギは泥まみれだ。
そして、あの銅のレードルも、泥の中に転がっている。
「……ああ、せっかくの道具が……」
「……また買えばいい」
クラウスが、汚れるのも構わずレードルを拾い上げ、ハンカチで丁寧に泥を拭った。
「道具も、食材も、何度でも買ってやる。……貴様が生きてさえいてくれればな」
クラウスはベルンの前にしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。
青い瞳が、揺るぎない執着の光を宿してベルンを射抜く。
「普段は街に現れるはずのない魔獣がどうしてここに……まぁいい帰るぞ、ベルン。俺につかまれ。今日は豪華な病人食を作らせてやる。……貴様が指示して、私が作る」
「……それは、別の意味で命がけですね……」
ベルンが軽口を叩くと、クラウスはようやく少しだけ口元を緩めた。
その笑顔は、相変わらず不機嫌そうだったが、今だけはどんな痛み止めよりもベルンの傷に効く気がした。
路地裏には、まだ微かに腐った果実の臭いが漂っている。
見えない敵との戦いは、まだ始まったばかりだ。
だが、今はただ、この強く結ばれた包帯の痛みが、二人の絆の証のように感じられた。




