第15話 市場の襲撃
王都グラン・アヴェルラの下町エリアは、夕刻の活気に包まれていた。
あちこちの店先から威勢のいい呼び込みの声が響き、夕食の支度をする匂いが漂い始めている。
そんな庶民的な雑踏の中を、明らかに場違いな二人組が歩いていた。
「……団長。これ、本当に『視察』なんですか?」
ため息交じりに尋ねたのは、両手にずっしりと重い買い物袋を提げたベルンだ。
袋からは立派な大根の葉と、長ネギの青い部分が元気に飛び出している。
「当然だ。市民生活の安寧を確認するのも騎士の務めだ」
前を歩くクラウス・フェン・アルゼインは、純白のマントを優雅に翻しながら答えた。
その顔は涼しげだが、やっていることは完全に「補佐官の買い物への付き添い」である。
周囲の主婦たちからは、「あら、騎士様がお買い物?」「新婚さんみたいねえ」などと、的外れかつ微笑ましい視線を向けられていた。
「……それに、貴様の作るスープの在庫が切れかけているだろう。兵站の確保は指揮官の最優先事項だ」
「はいはい。今日のカブは良さそうですよ」
ベルンは苦笑した。
この上司は、自分が行動したいことを遠回しに「任務」と言う癖がある。
だが、その横顔は執務室にいる時よりもずっと柔らかく、年相応の青年のように見えた。
ふと、一軒の金物屋の前でベルンの足が止まった。
店頭に並べられた調理器具の数々。
その中に、鈍い輝きを放つ銅製のレードル(お玉)があった。
鍛冶職人が手打ちした一点物だ。柄のカーブが絶妙で、使い込めば手に馴染むだろう。
(……いい仕事をしてるな。あれでスープを掬えば、冷めにくくて香りも立つだろうに)
ベルンは元料理人の性で、そのレードルを食い入るように見つめてしまった。
だが、今の自分は薄給の二等兵。あのクラスの道具は高嶺の花だ。
ベルンは名残惜しそうに視線を外し、歩き出そうとした。
「……おい、店主」
不意に、クラウスの声が響いた。
彼は金物屋の店主に、懐から取り出した金貨を放り投げた。
「あの銅の杓子を包め。釣りはいらん」
「えっ、団長!?」
「まいどどうも! ありがとうございやす!」
店主が慌ててレードルを最高級の紙で包む。
クラウスはそれを受け取ると、無造作にベルンの買い物袋に突っ込んだ。
大根とネギの間に、ピカピカの銅製レードルが鎮座する。
「……い、いいんですか? これ、私の給料三ヶ月分はしますよ」
「勘違いするな。貴様へのプレゼントではない」
クラウスはふいと顔を背け、少し早口で言った。
「私のスープを作るための『装備品』への投資だ。……大賢者、杖を選ばずと言うが、道具が悪ければ味も落ちる。貴様の腕に見合う道具を使え」
「……はは。厳しい出資者ですね」
ベルンは破顔した。
素直じゃない。だが、その不器用な優しさが、胸の奥をじんわりと温める。
(……大事に使わせてもらいますよ、ボス)
二人は並んで歩き出した。
平和な夕暮れ。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。
そう思った、その時だった。
フワッ……。
風に乗って、奇妙な匂いが鼻を掠めた。
下町の生活臭ではない。
もっと甘ったるく、粘着質な……熟れすぎて腐り落ちた果実のような匂い。
(……なんだ、この臭いは?)
ベルンは眉をひそめた。
記憶にある。
つい先日、舞踏会のバルコニーで、ヴァルデング判事と握手した時に感じた、あの微かな違和感と同じ臭いだ。
「カチ、カチ……」
次の瞬間。
雑踏の喧騒の裏で、硬質な音が響いた。
誰かが石を打ち合わせているような、巨大な昆虫が顎を鳴らすような音。
ベルンの全身の血が凍りついた。
半年前。雨の夜。
弟のエミルが殺された時に聞いた、あの音。
「――ッ!!」
ベルンの「観察眼」が、広場の中心にある噴水付近の空間の「歪み」を捉えた。
そこには誰もいないはずなのに、水しぶきが不自然に弾かれている。
「みんな!! 伏せろ!!」
「なっ……!?」
ベルンは買い物袋を放り投げ、叫んだ。
だが、遅かった。
通行人の男性が、見えない刃に切り裂かれ、突如として鮮血が噴き出した。
「ギャアアアアッ!!」
通行人は、血飛沫を上げて倒れる。
悲鳴。パニック。逃げ惑う人々。
平和な市場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。
「……透明魔獣か!?」
クラウスが瞬時に抜刀する。
だが、敵の姿は見えない。
逃げ遅れた子供が一人、へたり込んでいるのが見えた。
その直前、空気が揺らぐ。
死神の鎌が、子供の首を狙って振り下ろされようとしていた。
「――させねえッ!!」
ベルンは考えるよりも先に体が動いていた。
全速力で駆け出し、子供を抱きかかえて地面に転がる。
その背後を、見えない刃が通過した。
ザシュッ!!
「ぐっ……!!」
鈍い音と共に、ベルンの左腕に灼熱の痛みが走った。
軍服の袖が裂け、鮮血が舞う。
「ベルンッ!!」
クラウスの悲鳴に近い絶叫が響いた。
倒れ込んだベルンの腕から流れる血が、石畳を赤く染めていく。
ベルンは歯を食いしばり、腕を押さえて立ち上がろうとした。
「大丈夫です……浅い……!」
嘘だった。傷は深く、骨まで達しているかもしれない。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「貴様ァッ……!!」
クラウスの青い瞳が、怒りで真っ赤に染まっていた。
彼はベルンを傷つけた「空間」を睨みつけた。
そこには、何もいないように見える。
だが――。
「……見つけたぞ、下郎」
クラウスが低く唸った。
空中に、赤い液体が浮いている。
ベルンの血だ。
透明な魔獣の爪に付着した血が、敵の居場所を如実に示していた。




