第14話 雷鳴の夜
その夜のことだった。
王都の空が急に暗転し、激しい雷雨が襲いかかったのは。
ベルンは残業で執務室に残っていた。
ソファでは、クラウスが泥のように眠っていた。
あまりに深く眠っているので、着替えさせるのも忍びなく、靴だけ脱がせて毛布を掛けておいたのだ。
ドォォォオオオン!!
窓の外で、一際大きな雷が炸裂した。
建物全体が揺れるほどの衝撃。
同時に、執務室の魔石灯がフツリと消え、辺りは闇に包まれた。
「――ッ!?」
ソファから、布が擦れる激しい音がした。
ベルンが振り返ると、暗闇の中でクラウスが跳ね起きていた。
「いやだ……来ないでくれ……ごめんなさい、先生……ッ!」
「団長?」
雷光が一瞬だけ室内を照らし出した。
そこにいたのは、冷静沈着な指揮官ではなかった。
ソファの隅に小さく丸まり、頭を抱えてガタガタと震える、一人の怯えた青年だった。
「……あ、あ……閉じ込めないで……暗い、怖い……」
錯乱している。
目は見開かれているが、焦点が合っていない。
過呼吸のような浅い呼吸。
(……トラウマか)
ベルンは瞬時に悟った。
雷鳴と暗闇。それが引き金となって、幼少期の記憶――おそらく、躾と称した虐待の記憶がフラッシュバックしているのだ。
普段の「氷の処刑人」という仮面が剥がれ落ち、傷ついた素顔が露呈している。
「団長、落ち着いてください。私がいます」
ベルンは駆け寄り、声をかけた。
だが、クラウスの耳には届いていない。彼はパニック状態で、近づくベルンを手で払いのけようとした。
「来ないで! 叩かないで……!」
「クラウス!」
ベルンは強く名前を呼んだ。
上官への敬称ではなく、一人の人間としての名を。
そして、暴れるクラウスの両手首を掴むのではなく、その震える両手を、自分の大きな掌で優しく包み込んだ。
温かく、分厚く、タコだらけの料理人の手。
それが、クラウスの冷え切った手をサンドイッチにする。
「……ひっ」
「見ろ。こっちを見ろ」
ベルンは、クラウスの視線を自分に向けさせた。
再び雷光が走る。
そこにいるのは、恐ろしい父親でも、躾に厳しい家庭教師でもない。
心配そうに眉を下げた、とぼけた顔の中年男だ。
「……べ、るン……?」
「そうだ。ベルンだ。お前の部下で、お前の飯係だ」
ベルンは片手でクラウスの手を握ったまま、もう片方の手で、彼の背中を叩き始めた。
トントン、トントン。
心臓の鼓動よりも少しゆっくりとした、一定のリズム。
昔、夜泣きする弟のエミルを寝かしつけた時のリズムだ。
「息を吸え。……そうだ。ゆっくり吐け」
ベルンの低い声が、雷鳴の合間に響く。
背中を叩く振動が、暴走するクラウスの心臓を、強制的に落ち着かせていく。
「怖いものは何もない。雷も、幽霊も、過去の亡霊もだ」
ベルンは力強く言った。
その時、咄嗟に口をついて出たのは、部下としての「私」ではなかった。
「大丈夫だ。《《俺》》がここにいる」
俺。
それは庇護者としての、心が繋がった兄弟としての宣言だった。
その言葉は、どんな気休めよりも深く、クラウスの心の深淵に届いた。
「……俺が……いる……?」
「ああ。朝まで離れない。だから、安心しろ」
クラウスの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼はベルンの手を握り返してきた。
痛いほど強く。縋るように。
「……行かないでよ……」
「ああ、行かないさ」
二人は暗闇の中、ソファに座り込んだまま寄り添った。
外では嵐が吹き荒れているが、ベルンの腕の中だけは、静寂で温かいシェルターだった。
ベルンの体温。匂い。そして、背中をトントンと叩く一定のリズム。
クラウスの意識は、恐怖から安堵へと切り替わり、やがて深い安息の眠りへと落ちていった。
+++
翌朝。
嵐は嘘のように去り、窓からは眩しい朝日が差し込んでいた。
「……ん……」
クラウスは目を覚ました。
体が重い。だが、不快な重さではない。
温かい毛布と、何より――背中にある巨大な熱源のせいだ。
状況を確認する。
自分はソファに座っている。
隣にはベルンが座り、自分の肩を抱くようにして眠っている。
そして自分の両手は、ベルンの左手からの熱(安心)をむさぼるように握りしめている。
「…………ッ!!」
記憶が、雪崩のように蘇った。
雷。パニック。号泣。
そして、「俺がここにいる」という甘い囁きに縋り付いて眠ったこと。
ボッ!
と音がする勢いで、クラウスの顔が沸騰した。
「~~ッ!!」
クラウスはバネ仕掛けのように飛び起きた。
その勢いでベルンも目を覚ます。
「……ん、あ? おはようございます、団長……」
「お、おお、おはようではない! 貴様、いつまで私の横で寝ている! 仕事の時間だぞ!」
クラウスは乱暴に手を振り払った。
だが、その顔は真っ赤で、耳まで茹で上がっている。
昨夜の幼児退行ぶりを思い出せば、羞恥で死にたくなるのも無理はない。
「……あれは、その……不可抗力だ! 嵐の気圧変化による一時的な自律神経の乱れで……!」
「はい、分かっておりますとも」
ベルンは何も追求せず、ただ穏やかに微笑んだ。
その大人の対応が、逆にクラウスのプライドを刺激する。
クラウスは咳払いをし、必死に「氷の処刑人」の仮面を被り直そうとした。
執務室を出る間際、クラウスは足を止めた。
ベルンの方を振り返らず、背中を向けたまま、ボソリと言った。
「……昨夜のことは忘れろ。記憶から消去しろ。これは命令だ」
「了解しました。団長。きれいさっぱり忘れましょう。」
ベルンの返事に、クラウスは一瞬だけ肩を揺らした。
そして、逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
残されたベルンは、やれやれと肩を回し、ポキポキと音を鳴らした。
変な体勢で寝たせいで体はバキバキだが、心は不思議と晴れやかだった。
そして、自分の左手を見つめる。
そこには、クラウスが強く握りしめていた跡が、赤く残っていた。
「……素直じゃないねえ」
ベルンはニヤリと笑った。
「ま、これだけの重労働だ。……今月は特別手当(何かいいこと)を期待していますよ、団長」
ベルンは給湯室へと向かった。
遠征から帰ってきたばかりの彼には、栄養たっぷりの朝食が必要だ。
包丁を握るベルンの背中は、昨日までの「一人分」の寂しさを振り払い、活気に満ちていた。




