第13話 遠い空の下、匂い袋を握りしめ
その朝、第零班の執務室は、まるで葬儀のような重苦しい空気に包まれていた。
原因は、部屋の中央で腕を組み、この世の終わりような顔をしている騎士団長、クラウス・フェン・アルゼインだ。
「……行きたくない」
「駄目です、団長。これは王命による地方視察です」
ベルンは旅支度の荷物を点検しながら、諭すように言った。
今日から三日間、クラウスは王都を離れ、北部の魔獣討伐部隊の視察へ向かうことになっていた。
当然、補佐官であるベルンも同行――するはずだったのだが。
「なんで貴様が留守番なんだ。新人のくせに」
「新人だからですよ。私はまだ、遠征任務の許可が下りていません」
ベルンは苦笑しながら、クラウスのマントの皺を伸ばした。
本来なら、団長の片腕として同行すべきところだが、上層部は「前歴不明の38歳」を地方へ連れ出すことを嫌ったらしい。表向きは本部の警備強化という名目だが、要するにベルンは留守番だ。
「……枕が変わると眠れない」
「向こうの宿舎は高級ホテル並みだと聞いていますよ」
「そういう問題ではない。……貴様の服を一枚寄越せ。それを顔にかけて寝る」
「変態じみたことはやめてください」
クラウスはむすっと唇を尖らせ、子供のように足をぶらぶらさせている。
この数週間、ベルンの作ったスープを飲み、ベルンの近くで仮眠を取ることが習慣化していたクラウスにとって、三日間の分離は死活問題らしい。
ベルンはため息をつき、ポケットから小さな布袋を取り出した。
「……仕方ありませんね。これを持って行ってください」
「なんだ、これは」
クラウスがいぶかしげに受け取る。
手のひらサイズの巾着袋だ。鼻を近づけると、微かに独特の香りがした。
「安眠のお守り(サシェ)です。乾燥させたハーブと……あと、少しだけ天日干しした藁を混ぜてあります」
「……!」
クラウスの目が大きく見開かれた。
干し草の匂い。
それは、ベルンが纏っている「陽だまり」の匂いの主成分だ。
「気休め程度にしかなりませんが、ないよりはマシでしょう」
「……フン。子供騙しだな」
クラウスは憎まれ口を叩きながらも、その袋を宝物のように懐の奥深く、心臓に一番近いポケットへと仕舞い込んだ。
「……行ってくる。留守中、私の席に座ることは許可するが、私のカップを使うことは禁ずる」
「はいはい。行ってらっしゃいませ、団長」
+++
クラウスが出発してから、丸一日が過ぎた。
第零班の執務室は、驚くほど静かだった。
「……静かすぎるな」
ベルンは自分のデスクで、溜まっていた報告書の整理をしていた。
いつもなら、「おいベルン、茶」「ベルン、腹が減った」「ベルン、私の視界から出るな」と、数分おきに飛んでくるワガママな命令がない。
ギルバートも随行しているため、話し相手もいない。
聞こえるのは、壁掛け時計が時を刻む音だけ。
夕方。
ベルンは給湯室で、習慣のように野菜を切り始めた。
カブとベーコンのミルクスープ。クラウスの好物だ。
「……っと、いけない」
鍋に具材を放り込んでから、ベルンは手を止めた。
いつもの癖で、二人分――いや、ギルバートの分も含めて三人分を作ってしまっている。
今日は自分一人なのに。
「……俺も、焼きが回ったな」
ベルンは苦笑し、一人分のスープを皿に注いだ。
湯気は温かいが、広い執務室で一人啜るスープは、どこか味気なかった。
ふと、奥にある主のいない立派な執務机を見る。
そこにあるはずの銀色の髪と、不機嫌そうな青い瞳がないだけで、この部屋はまるでシャンデリアの無い舞踏会場のようだ。
(団長は今頃、晩飯だろうか。俺以外の人が作った料理をちゃんと食べられているだろうか)
ベルンは思考の中で、無意識に「俺」という一人称を使っていた。
上官と部下という建前がない時、ベルンの心はつい、世話焼きの「兄貴分」に戻ってしまう。
あの偏食家の上司が、出された豪華な料理に難癖をつけていないか、心配でならなかった。
その時だった。
ベルンの懐で、緊急連絡用の魔道具が激しく振動した。
掌サイズの水晶板だ。
「……通信? ギルバート一等兵か?」
魔力を通すと、水晶の表面にノイズ混じりの映像が浮かび上がった。
映し出されたのは、顔面蒼白で涙目になっているギルバートの顔だった。
『べ、ベルンさぁあああん! 助けてぇええ!』
「どうしました、襲撃ですか!?」
『ちげぇよ! 団長だよ! 団長が魔王化してるんだよぉ!』
ギルバートがカメラを少しずらすと、背景には高級宿の食堂らしき場所が映った。
そこでは、シェフたちが一列に並んで震え上がっており、その前でクラウスが仁王立ちしていた。
映像越しでも伝わる、絶対零度の殺気。
クラウスは、ベルンが渡した「匂い袋」を片手で握りしめ、もう片方の手でテーブルを叩いていた。
『味が違う! 温度が違う! このスープは泥水か!?』
『ひぃいい! も、申し訳ございません閣下!』
『匂い袋も効果が切れてきた……! 薄い、薄すぎる! これでは眠れん! 今すぐ王都へ帰還する!』
映像がブレる。ギルバートが泣きながらカメラに戻ってきた。
『……ってな感じで、もう手がつけられないんすよ! 「成分が足りない」とかブツブツ言ってて……ベルンさん、何か遠隔魔法で匂い送れません!?』
「……無理を言わないでください」
ベルンは頭を抱えた。
だが、ここで突き放せばギルバートの命(と現地のシェフの命)が危ない。
ベルンは一つ深呼吸をして、水晶板に向かって声を張った。
「――団長! 聞こえますか!」
その怒鳴り声に、画面の奥で暴れていたクラウスがピクリと反応した。
のっそりと水晶板に近づいてくる。その目は血走り、亡霊のような顔色だ。
『……ベルンか。……貴様、今すぐこちらへ来い』
「……無理を言わないでください」(2度目)
ベルンは、駄々っ子を諭すように、しかし毅然と言い放った。
「王命を受けた騎士団長が、スープの味が違う程度のことで任務を放棄するのですか? 現地の兵士たちが貴方を見ていますよ。……『氷の処刑人』の名が泣きます」
『……ッ』
「あと二日です。その匂い袋を鼻に押し当てて、私の顔でも思い浮かべて我慢してください。……帰ってきたら、最高に美味いスープを作って待っていますから」
クラウスは画面越しにベルンを睨みつけ、ギリリと歯軋りをした。
だが、彼は根っからの軍人であり、任務を何よりも重んじる男だ。
ベルンの「正論」と「ご褒美」を提示されれば、引くしかなかった。
『……覚えておけ。……帰還したら、貴様を鍋で煮込んでやる』
「はいはい、光栄です」
プツン。
通信が切れた。
後に残されたのは、嵐の後の静けさだけだった。
「……やれやれ。ギルバート一等兵、生きて帰ってこいよ」
+++
それから二日後。
予定通りの刻限に、遠征部隊が王都に帰還した。
だが、その凱旋は異様なものだった。
先頭を行くクラウス・フェン・アルゼイン団長。
彼は馬上で背筋を伸ばし、完璧な「氷の処刑人」の表情を崩していなかった。
しかし、その周囲に漂う空気は、触れれば即死するレベルの瘴気を放っていた。
目の下の隈は限界突破し、頬はこけ、肌は透けるほど白い。
三日間、一睡もしていないのは明白だった。
「……団長、本部に到着しました。解散式を……」
「お前たちでやっておけ」
副官の言葉を遮り、クラウスは馬を降りるなり、執務棟へと直行した。
足取りは速いが、どこか幽鬼のようにふらついている。
ガチャリ。
第零班の執務室の扉が開いた。
「お帰りなさいませ、団長」
ベルンはデスクから立ち上がり、出迎えた。
その瞬間だった。
ドサッ。
クラウスが、無言のままベルンに倒れ込んできた。
泥と埃にまみれたマントのまま、ベルンの胸に顔を埋め、その広い背中に腕を回してしがみつく。
全身の体重を預けてくるその体は、鉛のように重かった。
「団長? お疲れのようですね」
「……黙れ。……動くな」
クラウスの声は掠れていた。
ベルンの胸元に鼻を押し付け、深呼吸を繰り返す。
スゥーッ、ハァーッ。
三日間、渇望していた「匂い」。
ベルンから漂う、温かいスープと、日向のような干し草の香り。
それを肺いっぱいに吸い込むたびに、千切れていたクラウスの神経が、一本、また一本と修復されていくのが分かった。
「……やっと、味がする」
クラウスは意味不明なことを呟いた。
空気の味が違う、ということだろうか。
ベルンは苦笑し、立ったまま気絶しそうな上司の背中を、ポンポンと軽く叩いた。
「……よく我慢しましたね。えらいえらい」
「……子供扱いするな。……不敬罪だぞ」
言い返す声には覇気がない。
クラウスはそのままズルズルと崩れ落ちそうになり、ベルンは慌てて彼を支え、ソファへと運んだ。
まさに「限界突破」の帰還だった。




