第12話 慈愛の判事
「……貴様の作った、茶が飲みたい」
甘えるような響きを含んだその声に、ベルンは降参するしかなかった。
この人は、王子様の格好をしていても、中身は寂しがり屋の猫のままだ。
「……分かりました。帰りましょうか」
ベルンが微笑んだ、その時。
「――おや。もうお帰りかな? クラウス」
バルコニーの入り口から、穏やかで深みのある声が響いた。
二人が振り返ると、そこには一人の長身の紳士が立っていた。
銀髪混じりの髪をオールバックにし、仕立ての良い燕尾服を着こなした初老の男性。
その顔には、知性と慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。
その姿を見た瞬間、クラウスの表情が一変した。
「……ヴァルデング様!」
クラウスの手が、ベルンの袖から離れた。
そして、パッと花が咲くような、見たこともないほど純粋な少年の笑顔で、その紳士へと駆け寄っていく。
「来ておられたのですか! お忙しいと聞いていたので、まさかお会いできるとは……」
「ふふ、可愛い息子が主役の夜だ。顔を出さないわけにはいかないだろう?」
ヴァルデングと呼ばれた男は、愛おしそうにクラウスの肩を抱き、その銀色の髪を優しく撫でた。
「よくやっているね、クラウス。君の活躍は耳に入っているよ。……私の自慢の息子だ」
「……ッ、ありがとうございます……!」
頭を撫でられたクラウスは、目を細めてうっとりとしていた。
それは、ベルンが見たこともない姿だった。
氷の処刑人でも、駄々っ子の上司でもない。
ただ父親の愛を乞い、与えられた愛に心から安堵している、無防備な少年の顔。
(……へえ)
ベルンは一歩下がって、その光景を見ていた。
ヴァルデング判事。
王都の治安を守る重鎮であり、亡き先代団長の親友。父の他界後、身寄りのないクラウスの後見人でもある人物だ。
世間では「慈愛の判事」と呼ばれているが、なるほど、その通りの人物に見える。
(普段は狂犬なのに、心を許した人の前ではあんな顔をするのか。……微笑ましいじゃないか)
そう思う反面。
ベルンの胸の奥で、先ほどとは違う種類の「もや」が広がった。
自分だけが知っていると思っていたクラウスの無防備な顔。
それを、もっと深い信頼関係で見せている相手がいる。
それは嫉妬に近い感情だったかもしれない。
だが、ベルンの長年の接客業で培った「観察眼」が、別の信号を送ってきた。
(……ん?)
ベルンは目を細めた。
ヴァルデングの笑顔。それは完璧だ。慈愛に満ちている。
だが、その瞳の奥が、凪ぎすぎている。
まるで鏡のように、何も映していない。
そして、クラウスの頭を撫でるその手つき。
それは我が子を愛でる手というよりは……「手入れの行き届いた、優秀な道具」のメンテナンスをしているような、冷徹な慣れを感じさせた。
風向きが変わった瞬間、ヴァルデングの方から微かな匂いが漂ってきた。
高級なコロンの香り。
だが、その奥底に混じる、異質な臭気。
(……なんだ、この臭いは)
鉄錆のような……熟しすぎて腐り落ちた果実のような、甘ったるくも不快な臭い。
ベルンの背筋に、ゾクリと悪寒が走った。
「……そちらは? 見ない顔だが」
不意に、ヴァルデングの視線がベルンに向いた。
その瞳に見据えられた瞬間、ベルンは蛇に睨まれたような圧迫感を覚えた。
「あ、紹介します。彼はベルン・ガーランド。私の……補佐官です」
「ほう。君が例の」
ヴァルデングはベルンに歩み寄り、手を差し出した。
「噂は聞いているよ。クラウスが随分と世話になっているようだね。……スープが絶品だとか」
「……光栄です、判事殿」
ベルンはその手を握り返した。
ヴァルデングの手は、冷たかった。
まるで爬虫類のように、体温を感じさせない手。
「これからも、彼を支えてやってくれ。……彼は少し、頑張りすぎる所があるからね」
ヴァルデングは意味深に微笑むと、再びクラウスに向き直った。
「では、私は挨拶回りがあるから失礼するよ。……無理はいけないよ、クラウス」
「はい! ありがとうございます、ヴァルデング様!」
ヴァルデングが去っていく背中を、クラウスは崇拝者のような目で見送っていた。
ベルンは、握手した自分の掌に残る冷たさを、無意識にズボンで拭っていた。
(……気のせいか? いや、あの目は……)
あの目は、客が大切な人たちと料理を楽しむような時の目ではない。
料理人が、食材の質を見定める時の目だ。
+++
帰りの馬車の中、クラウスはずっと上機嫌だった。
窓の外を見ながら、「あの方は変わらない」「私の目標だ」と熱っぽく語っている。
ベルンは相槌を打ちながらも、心の中の違和感を拭えずにいた。
だが、今ここでそれを口にして、クラウスのこの幸福そうな顔を曇らせるわけにはいかない。
それに、あの「腐った果実」のような臭いは、一瞬のことだった。自分の鼻がおかしかっただけかもしれない。
「……おい。聞いているのか」
「え? ああ、すみません。少しボーッとしてしまって」
ベルンが我に返ると、クラウスが不満げにこちらを見ていた。
そして、その顔が微かに歪んでいることに気づいた。
「団長? どうかしましたか」
「……なんでもない」
「足、痛いんじゃありませんか?」
「……ッ」
図星だったようだ。
クラウスはバツが悪そうに顔を背けた。
無理もない。慣れない革靴で、あんな勢いで走り回れば靴擦れもできるだろう。
「……失礼します」
ベルンは馬車の床に片膝をついた。
「おい、何を……」
「じっとしていてください。……これじゃ、歩くのも辛いでしょう」
ベルンはクラウスの革靴を強引に脱がせた。
白い靴下のかかと部分に、赤い血が滲んでいる。
「やっぱり。皮がめくれていますよ」
「……うるさい。貴様が逃げるからだ」
「はいはい、私のせいです」
ベルンはポケットから、いつも携帯している救急用の軟膏と絆創膏を取り出した。
靴下を少し下げ、傷口に薬を塗る。
ベルンの大きくて温かい手が、クラウスの冷えた足首を包み込む。
「……んッ」
クラウスの体がびくりと震えた。
薬が染みたからではない。
ベルンの手のひらの熱が、足先から伝わってきたからだ。
ヴァルデングの手とは違う。
血の通った、生きている人間の温かさ。
「……私の手は、温かいですか」
ベルンが上目遣いに聞いた。
それは、先ほどのヴァルデングへの対抗心が言わせた、少し意地悪な質問だったかもしれない。
クラウスは顔を真っ赤にして、ベルンの肩を蹴ろうとしたが――結局、足指を丸めてその温もりを受け入れた。
「……熱いぐらいだ。……火傷しそうだ」
「それは良かった。冷え性の団長にはちょうどいいでしょう」
ベルンは丁寧に絆創膏を貼り、靴下を戻してやった。
そして、自分のタキシードの上着を脱ぐと、それをクラウスの足元にかけた。
「今日はもう、靴を履かない方がいい。……執務室まで、おんぶしましょうか?」
「ふざけるな! ……肩を貸せば、それでいい」
クラウスはベルンの上着に足を包まれたまま、座席の背もたれに深く体を預けた。
先ほどのヴァルデングとの再会の興奮は去り、今はベルンの匂い――干し草と出汁の匂い――に包まれて、急速な睡魔が襲ってきているようだった。
「……ベルン」
「はい」
「……今日のロブスターは、不味かった」
クラウスが目を閉じたまま、夢ごこちで呟いた。
「……次は、貴様が作れ。……もっと美味いやつを」
その言葉に、ベルンの胸のわだかまりが、すうっと溶けていった。
ヴァルデングがどうであれ、今、この人が求めているのは「俺の味」だ。
それだけで、今日は十分すぎる戦果だろう。
「……了解しました、ボス。最高の一皿を用意しますよ」
ベルンは優しく微笑み、眠りに落ちていく上司の頭が窓にぶつからないよう、そっと自分の肩に引き寄せた。
馬車は石畳を揺らしながら、二人の「家」である騎士団へと帰っていく。
その夜の闇の向こうで、慈愛の仮面を被った男が、静かにその爪を研いでいるとも知らずに。




