第11話 煌びやかな会場と
その夜、王立騎士団の地下にある第零班の執務室は、戦場のような殺気ではなく、悲痛な溜息に包まれていた。
「……クソッ。なんだこの布切れは。私を絞め殺す気か」
姿見の前で悪態をついているのは、騎士団長兼第零班班長、クラウス・フェン・アルゼインだ。
いつもの軍服ではない。
純白の礼服。金糸の刺繍が施された燕尾服に、勲章を下げた姿は、童話に出てくる王子様そのものだ。
ただ一つ、首元のクラバット(装飾ネクタイ)を除いては。
不器用な彼の手によって、最高級シルクのクラバットは無残な団子結びになり、首を締め上げる凶器と化していた。
「……団長。じっとしていてください」
見かねたベルンが、背後から声をかけた。
ベルン自身もまた、慣れないタキシードに身を包んでいる。
貸衣装屋で一番大きなサイズを借りたが、それでも胸板と二の腕がパツパツで、まるでペンギンが無理をして人間の服を着ているような窮屈さだった。
「ベルンか。……これを作った職人を処刑してこい。構造がおかしい」
「構造は正常です。団長が力任せに引っ張るからです」
ベルンはクラウスの正面に立つと、その細い首に絡まったシルクを解き始めた。
身長差があるため、ベルンが見下ろす形になる。
至近距離。
クラウスの陶器のような肌が、魔石灯の光を受けて白く輝いている。
「……少し、顎を上げてください」
「……ん」
素直に顎を上げたクラウスの喉仏が、わずかに動いた。
ベルンの太く、タコだらけの指が、繊細なレースを扱っていく。
元料理人として、繊細な盛り付けや飾り切りで鍛えた指先だ。
ふわり、ふわりと布を重ね、美しい結び目を作っていく。
静寂。
聞こえるのは、二人の呼吸音だけ。
ベルンが作業に集中している間、クラウスはじっとベルンの顔を見上げていた。
その青い瞳が、ベルンの無精髭や、目尻の皺、そして真剣な眼差しを、まじまじと観察している。
「……苦しくないですか」
「……悪くない」
クラウスがポツリと漏らした。
それはネクタイの具合のことなのか、それともこの距離感のことなのか。
ふと、クラウスの鼻先がひくりと動いた。
「……今日の貴様は、いつもの匂いが薄いな」
「借り物の服ですからね。防虫剤の匂いでしょう」
「……つまらん」
クラウスは不満げに眉を寄せると、あろうことか、ベルンの首筋に顔を近づけ、スンスンと匂いを嗅ぎ始めた。
「ちょ、団長!?」
「……裏地からは、微かに干し草の匂いがするな。……よし、これで戦える」
何が「よし」なのか全く分からないが、クラウスは満足げに頷くと、完璧に整えられたクラバットを指で撫でた。
「行くぞ、ベルン。……今夜は長い戦いになりそうだ」
+++
王宮の別邸で開催された夜会は、煌びやかという言葉では足りないほどの豪華絢爛さだった。
シャンデリアの輝き。楽団が奏でる優雅なワルツ。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちと、正装した紳士たちの談笑がさざめいている。
今日は、王都の治安維持に貢献した組織への慰労会。
当然、騎士団の華であるクラウスは主賓の一人だ。
「まあ! アルゼイン卿!」
「今夜も素敵ですわ、クラウス様!」
「こちらのワインはいかが?」
会場に入った瞬間、クラウスは貴族の令嬢たちによる包囲網に捕まった。
だが、そこにはいつもの「氷の処刑人」はいなかった。
「……光栄です。皆様のドレス姿こそ、今夜の花園に咲く大輪の薔薇のようだ」
完璧な角度の微笑み。
甘い声音。
流れるような所作。
クラウスは瞬時に「社交界モード」の仮面を被り、令嬢たちを骨抜きにしていた。
その目は笑っていないが、遠目に見れば、絵本から抜け出した王子様そのものである。
(……へえ。外面はいいんだな、あの人)
従者として一歩下がった場所で、ベルンは感心半分、呆れ半分でその様子を眺めていた。
執務室で「スープを寄越せ」と駄々をこねる姿と同一人物とはとても思えない。
「……まあ、俺の出番はないか」
ベルンは肩の力を抜いた。
正直、居心地が悪い。
周囲は洗練された上流階級の人間ばかり。古傷だらけで、筋肉でパツパツのタキシードを着た中年男など、場違いもいいところだ。
ベルンは気配を消して、壁際のビュッフェコーナーへと退避した。
そこには、王宮料理人が腕を振るった豪華な料理が並んでいた。
ロブスターのテルミドール。フォアグラのテリーヌ。牛フィレ肉のパイ包み。
一般市民なら一生に一度拝めるかどうかの高級食材のパレードだ。
だが。
ベルンの「観察眼」は、別の意味で光ってしまった。
「……なんだ、これは」
ベルンは皿に取ったロブスターを見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。
(火を通しすぎだ。身が縮こまって、ゴムみたいに硬くなっている。これじゃあ、せっかくの海老味噌の風味が台無しじゃないか)
元料理人の血が騒ぐ。
隣のフォアグラを見る。
(……表面の焼き色が甘い。これじゃ脂っこいだけで、香ばしさが足りない。それに、付け合わせのベリーソース……煮詰め方が足りなくて水っぽいぞ)
さらに、メインディッシュの牛フィレ肉。
(ああ! なんてことだ! この霜降り、間違いなくA5ランクの最高級品だぞ! それをこんな……中までカチカチになるまで焼くなんて! 牛への冒涜だ! 俺なら低温でじっくり火を通して、肉汁を一滴も逃さずにロゼ色に仕上げるのに!)
「……もったいない」
ベルンは小さく呻いた。
高級食材が、そのポテンシャルを生かしきれないまま皿の上に並んでいる。
周囲の貴族たちは「美味しいですわね」と食べているが、ベルンに言わせれば「食材の墓場」だった。
(俺なら、このロブスターの殻で濃厚なビスクを作って、身はレアで添える。フォアグラはバルサミコと醤油を隠し味にしてソテーし、大根のコンフィに乗せれば、脂もさっぱりと……ああ、厨房に入りたい!)
ベルンが一人、脳内で料理の改善案と格闘していると、会場の中心から歓声が上がった。
ふと視線を向けると、クラウスが令嬢たちに囲まれながら、グラスを傾けていた。
シャンデリアの光を浴びる彼は、眩しいほどに美しい。
ここにある「最高級」の空間に、彼は自然に溶け込んでいる。
「…………」
ベルンはふと、手元の冷めたロブスターを見た。
そして、煌びやかなシャンデリアの下にいるクラウスを見る。
「……やっぱり、あっちが本来のいるべき世界だよな」
地下室で、栄養剤と安っぽいスープを啜っている姿の方が異常なのだ。
彼は名門貴族の当主であり、若き英雄。
自分のような、下町の食堂のオヤジが、貴重な時間を占有していい相手ではない。
胸の奥に、チクリと小さな棘が刺さったような感覚。
ベルンは苦笑して、飲みかけのグラスをテーブルに置いた。
「……俺がいると、彼の品位に関わるな」
ベルンは誰にも気づかれないよう、静かにその場を離れ、夜風に当たるためにバルコニーへと向かった。
+++
バルコニーに出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
眼下には王都の夜景が広がっている。
ベルンは手すりに寄りかかり、大きく深呼吸をした。
「はあ……。やっぱり、俺にはぬか床の匂いの方が合ってるよな」
タキシードの襟を緩めようとした、その時だった。
バンッ!
背後のガラス戸が、乱暴に開け放たれた。
驚いて振り返るベルンの目に飛び込んできたのは、鬼の形相で走ってくる「王子様」だった。
「――見つけたぞ! この脱走兵!」
「うおっ!?」
クラウスはタックル気味にベルンに詰め寄ると、その胸倉をガシッと掴んだ。
「だ、団長? どうしたんですか、その顔」
「どうした、ではない! なぜ勝手に消える! 私の視界から出るなと何度言えば分かるんだ、この学習能力ゼロのジャガイモが!」
クラウスは息を切らしていた。
整っていた髪は少し乱れ、額には汗が滲んでいる。
さっきまでの「優雅な貴公子」の仮面は粉々に砕け散り、いつもの「駄々っ子の上司」がそこにいた。
「いや、俺なんかが近くにいたら、団長のエレガントさに影がつくかと……。あちらの世界の方が、貴方にはお似合いですし」
「はあ?」
クラウスは底冷えする声を出した。
掴んでいた胸倉を引き寄せ、ベルンの顔を睨みつける。
「私の世界は、私の視界が届く範囲だけだ。……そこに貴様がいないなら、どんな豪華な場所でも、ただの空虚な箱庭に過ぎん」
その瞳は真剣そのもので、揺らぎがない。
「それに……あの女たちの香水の匂い、頭が痛くなる。……貴様の干し草臭い匂いの方が、百倍マシだ」
「それ、褒めてるんですか?」
「褒めている。……帰るぞ。もう限界だ。腹も減った」
クラウスはベルンの袖をギュッと握った。
まるで、迷子にならないように親の服を掴む子供のように。




