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38歳の新人衛兵、不眠症の年下騎士団長に「抱き枕」として徴用される  作者: 団田図


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第10話 二人の家路、重なる影

「…………チッ」


 盛大な舌打ちと共に、塀の陰からぬっと姿を現したのは、やはりクラウスだった。

 フードを目深に被っているが、その隙間から銀髪がはみ出し、夕陽を受けてキラキラと輝いている。

 これでは「私を見てください」と言っているようなものだ。


「……いつから気づいていた」

「騎士団を出て、二つ目の角を曲がったあたりからです」

「……」


 クラウスはバツが悪そうに視線を泳がせた。

 普段の氷のような冷徹さはどこへやら、今はただの、悪戯が見つかった子供のような顔をしている。


「勘違いするな。貴様が……その、組織の裏切り者と接触していないか、監視に来ただけだ。これは防諜ぼうちょう任務の一環だ」

「はいはい。……休日にまで監視ご苦労さまです」


 ベルンは少しかすれた声で笑った。


「……ここで、火事があったのか?」


 クラウスが煤けた地面を見て問う。


「ええ。弟が殺された翌晩に。……警察は失火だと言いましたが、俺は誰かが放った火だと確信しています」

「なぜだ」


「弟は、何かを見てしまったんです。殺される数日前から震えていた。……奴らは、弟の口を封じ、さらに弟が何かを残していないか恐れて、店ごと燃やしたんでしょう」


 ベルンは瓦礫の中から、焼け残ったコップの欠片を拾い上げた。


「ただの魔獣なら、証拠隠滅なんて知恵は回りません。……この裏には、人間がいる。それも、王都の警察(治安)を動かせるほどの権力者が」


 悔しがるベルンの目が赤く腫れ、頬に涙の跡が残っていることに、クラウスは気づいてしまった。


 クラウスの足が止まる。

 眉間に深いしわが刻まれた。

 彼は「泣いている人間」への対処法を知らない。

 幼い頃から、涙は弱さの象徴であり、切り捨てるべきものだと教わってきたからだ。

 かけるべき言葉が見つからない。

 だが、目の前の男が、いつも温かいスープを作ってくれるこの大きな背中が、今はひどく小さく、もろく見えて、胸の奥がざわついた。


「……貴様」


 クラウスはふところに手を入れた。

 取り出したのは、王家の紋章が刺繍された、最高級シルクのハンカチだ。

 それをどう渡すべきか、一瞬迷った挙句。


 バサッ。


 彼はそれを丸めて、ベルンの顔めがけて放り投げた。


「わっ」


 ベルンの顔面にハンカチが直撃し、膝の上に落ちる。


「……目にゴミが入ったんだろう、我が部下よ。見苦しいぞ」


 クラウスは顔を背け、あさっての方向を見ながら言い捨てた。

 その耳は、夕焼けのせいだけではないほど赤く染まっている。


 ベルンは膝の上のハンカチを拾い上げた。

 シルクの滑らかな手触り。

 そして、そこから漂う微かな香り。

 クラウスが愛用している冷涼な香水の匂いと――それに入り混じった、ベルンの作るスープと干し草の匂い。

 彼がどれだけベルンに「くっついて」生活しているかが分かる匂いだった。


「……手荒いなぁ」

「うるさい。使わないなら返せ」

「いえ……ありがとうございます。お借りします」


 ベルンはハンカチを広げ、顔を覆った。

 高級な布地に涙を吸わせるなど勿体無いが、今はその不器用な優しさに甘えたかった。

 布越しに、クラウスの体温が残っている気がした。


   +++


 王都に夜のとばりが下りる頃、二人は並んで騎士団への道を歩いていた。

 行き交う人々は、草臥くたびれたシャツの中年男と、高級マントを羽織った美青年の奇妙な組み合わせを、不思議そうに振り返っていく。


「……そこが、貴様の『家』だったのか」


 長い沈黙の後、クラウスがポツリと聞いた。

「ええ。弟と二人で守ってきた城でした。……今はもう、瓦礫の山ですが」

「……そうか」


 クラウスは短く答えた。

 彼には、帰るべき「家」の記憶がない。

 物心ついた時には騎士団の養成所にいて、殺す技術だけを叩き込まれた。

 両親の顔も知らない。温かい食卓も知らない。

 だから、ベルンが失ったものの大きさを、正確には理解できないのかもしれない。


 だが。

 今、隣を歩くこの男の歩幅に合わせて歩いていると、不思議と「帰る」という感覚が分かる気がした。

 冷たい地下室の執務室。

 そこには今、コンロがあり、ぬか床があり、そしてこの男がいる。

 自分にとっての「家」は、場所ではなく、この香源なのかもしれない。


 クラウスは無意識に、ベルンの袖をきゅっと摘んだ。


「……腹が減った」


 唐突に、クラウスが言った。

 ベルンは少し驚いたように顔を上げ、それから柔らかく目を細めた。


「ですね。……執務室に戻ったら、何か作りますよ」

「オムレツだ」

「え?」

「お前の背中を見ていたら……いや、なんでもない。とにかく、貴様が作るオムレツだ。卵は3つ使え。フワフワにしろ」


 それは、先ほどの回想でベルンが弟に作ったメニューだ。

 盗み聞きしていたのかのような偶然。

 どちらにせよ、それは今のベルンにとって、一番作りたくて、一番辛い料理だった。

 だが、不思議と嫌ではなかった。


「……贅沢なオーダーですね。材料費、経費として請求させていただきますよ」

「フン。いくらでもしろ。バターも忘れるなよ」

「承知しました、ボス」


 ベルンの「過去の家」から、二人の「今の居場所」へと帰っていく。

 足元に伸びる影が、街灯の下で一つに重なっていた。


   +++


 騎士団の本部入り口。

 門番の交代時間になり、あくびを噛み殺しながら立っていたギルバートは、前方から歩いてくる二人組を見て目を丸くした。


「……あれ?」


 ベルンと、クラウス団長だ。

 二人は特に会話をしているわけではない。

 ただ並んで歩いているだけだ。

 だが、その間には、他人が入り込む余地のない独特の空気が流れていた。

 朝、ベルンがギルバートに見せた「他人行儀な壁」は、そこにはない。

 また、クラウスが周囲に見せる「氷の壁」もない。

 お互いがお互いの存在を当然のように受け入れ、背中を預け合っているような、静かな信頼バディ感。


「……野暮用って言ってたけど、まさか団長とデートだったとはねぇ」


 ギルバートはニヤリと笑った。

 ベルンの言っていた「階級の壁」なんてものは、あの二人の間ではとっくに溶けてスープになっているらしい。


「おかえりなさい、お二人さん」


 ギルバートが敬礼すると、ベルンは穏やかに微笑み返し、クラウスは「厳に努めよ」とだけ言って通り過ぎていった。

 その背中からは、微かに同じ――干し草と出汁の――匂いがした。

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