第10話 二人の家路、重なる影
「…………チッ」
盛大な舌打ちと共に、塀の陰からぬっと姿を現したのは、やはりクラウスだった。
フードを目深に被っているが、その隙間から銀髪がはみ出し、夕陽を受けてキラキラと輝いている。
これでは「私を見てください」と言っているようなものだ。
「……いつから気づいていた」
「騎士団を出て、二つ目の角を曲がったあたりからです」
「……」
クラウスはバツが悪そうに視線を泳がせた。
普段の氷のような冷徹さはどこへやら、今はただの、悪戯が見つかった子供のような顔をしている。
「勘違いするな。貴様が……その、組織の裏切り者と接触していないか、監視に来ただけだ。これは防諜任務の一環だ」
「はいはい。……休日にまで監視ご苦労さまです」
ベルンは少し掠れた声で笑った。
「……ここで、火事があったのか?」
クラウスが煤けた地面を見て問う。
「ええ。弟が殺された翌晩に。……警察は失火だと言いましたが、俺は誰かが放った火だと確信しています」
「なぜだ」
「弟は、何かを見てしまったんです。殺される数日前から震えていた。……奴らは、弟の口を封じ、さらに弟が何かを残していないか恐れて、店ごと燃やしたんでしょう」
ベルンは瓦礫の中から、焼け残ったコップの欠片を拾い上げた。
「ただの魔獣なら、証拠隠滅なんて知恵は回りません。……この裏には、人間がいる。それも、王都の警察(治安)を動かせるほどの権力者が」
悔しがるベルンの目が赤く腫れ、頬に涙の跡が残っていることに、クラウスは気づいてしまった。
クラウスの足が止まる。
眉間に深い皺が刻まれた。
彼は「泣いている人間」への対処法を知らない。
幼い頃から、涙は弱さの象徴であり、切り捨てるべきものだと教わってきたからだ。
かけるべき言葉が見つからない。
だが、目の前の男が、いつも温かいスープを作ってくれるこの大きな背中が、今はひどく小さく、脆く見えて、胸の奥がざわついた。
「……貴様」
クラウスは懐に手を入れた。
取り出したのは、王家の紋章が刺繍された、最高級シルクのハンカチだ。
それをどう渡すべきか、一瞬迷った挙句。
バサッ。
彼はそれを丸めて、ベルンの顔めがけて放り投げた。
「わっ」
ベルンの顔面にハンカチが直撃し、膝の上に落ちる。
「……目にゴミが入ったんだろう、我が部下よ。見苦しいぞ」
クラウスは顔を背け、あさっての方向を見ながら言い捨てた。
その耳は、夕焼けのせいだけではないほど赤く染まっている。
ベルンは膝の上のハンカチを拾い上げた。
シルクの滑らかな手触り。
そして、そこから漂う微かな香り。
クラウスが愛用している冷涼な香水の匂いと――それに入り混じった、ベルンの作るスープと干し草の匂い。
彼がどれだけベルンに「くっついて」生活しているかが分かる匂いだった。
「……手荒いなぁ」
「うるさい。使わないなら返せ」
「いえ……ありがとうございます。お借りします」
ベルンはハンカチを広げ、顔を覆った。
高級な布地に涙を吸わせるなど勿体無いが、今はその不器用な優しさに甘えたかった。
布越しに、クラウスの体温が残っている気がした。
+++
王都に夜の帳が下りる頃、二人は並んで騎士団への道を歩いていた。
行き交う人々は、草臥れたシャツの中年男と、高級マントを羽織った美青年の奇妙な組み合わせを、不思議そうに振り返っていく。
「……そこが、貴様の『家』だったのか」
長い沈黙の後、クラウスがポツリと聞いた。
「ええ。弟と二人で守ってきた城でした。……今はもう、瓦礫の山ですが」
「……そうか」
クラウスは短く答えた。
彼には、帰るべき「家」の記憶がない。
物心ついた時には騎士団の養成所にいて、殺す技術だけを叩き込まれた。
両親の顔も知らない。温かい食卓も知らない。
だから、ベルンが失ったものの大きさを、正確には理解できないのかもしれない。
だが。
今、隣を歩くこの男の歩幅に合わせて歩いていると、不思議と「帰る」という感覚が分かる気がした。
冷たい地下室の執務室。
そこには今、コンロがあり、ぬか床があり、そしてこの男がいる。
自分にとっての「家」は、場所ではなく、この香源なのかもしれない。
クラウスは無意識に、ベルンの袖をきゅっと摘んだ。
「……腹が減った」
唐突に、クラウスが言った。
ベルンは少し驚いたように顔を上げ、それから柔らかく目を細めた。
「ですね。……執務室に戻ったら、何か作りますよ」
「オムレツだ」
「え?」
「お前の背中を見ていたら……いや、なんでもない。とにかく、貴様が作るオムレツだ。卵は3つ使え。フワフワにしろ」
それは、先ほどの回想でベルンが弟に作ったメニューだ。
盗み聞きしていたのかのような偶然。
どちらにせよ、それは今のベルンにとって、一番作りたくて、一番辛い料理だった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「……贅沢なオーダーですね。材料費、経費として請求させていただきますよ」
「フン。いくらでもしろ。バターも忘れるなよ」
「承知しました、ボス」
ベルンの「過去の家」から、二人の「今の居場所」へと帰っていく。
足元に伸びる影が、街灯の下で一つに重なっていた。
+++
騎士団の本部入り口。
門番の交代時間になり、あくびを噛み殺しながら立っていたギルバートは、前方から歩いてくる二人組を見て目を丸くした。
「……あれ?」
ベルンと、クラウス団長だ。
二人は特に会話をしているわけではない。
ただ並んで歩いているだけだ。
だが、その間には、他人が入り込む余地のない独特の空気が流れていた。
朝、ベルンがギルバートに見せた「他人行儀な壁」は、そこにはない。
また、クラウスが周囲に見せる「氷の壁」もない。
お互いがお互いの存在を当然のように受け入れ、背中を預け合っているような、静かな信頼感。
「……野暮用って言ってたけど、まさか団長とデートだったとはねぇ」
ギルバートはニヤリと笑った。
ベルンの言っていた「階級の壁」なんてものは、あの二人の間ではとっくに溶けてスープになっているらしい。
「おかえりなさい、お二人さん」
ギルバートが敬礼すると、ベルンは穏やかに微笑み返し、クラウスは「厳に努めよ」とだけ言って通り過ぎていった。
その背中からは、微かに同じ――干し草と出汁の――匂いがした。




