2話 水の巫女、実奈萌
神社横の家は空橋家の家屋で、ロの字の建物になっていた。その中央には砂利の敷き詰められた中庭があり、洗濯物が風に揺れていた。乾燥して風もあり、よく乾く日だった。中庭を囲うように廊下があり、庭側は大きなガラス戸となっていた。廊下を挟んで反対側は壁であったり、襖や障子であったり、奥への廊下であったりしていた。
中庭から廊下を挟んで北側の部屋は障子戸となっており、直射日光が紙で遮られて散乱し、部屋の中を照らしていた。
そこに少女が一人、ほつれた巫女服を縫って直していた。彼女にとって黙々と単純作業をすることが気分転換だった。
私の名前は空橋実奈萌。高校一年生で巫女をやっているわ。四姉妹の中では一番頭がいいと思う。それならリーダーなのかと思われるだろうけど、リーダーは歌雁で私じゃない。
私は野心や競争心が弱く、勝ちたいとか見返したいとかはあまりなく、自分が満足ならそれでいいと思う。だからリーダーには不向きで、歌雁にリーダーを任せて私はサポートに徹しているの。
野心や競争心が弱いのは別に悪いとは思ってないわ。全員が全員強かったら争いばかりで大変でしょう?それに餅は餅屋に、ということわざの通り、得意な人に任せればいいもの。何もかもで自分が勝つ必要はない。餅を作るのも自分が一位じゃないと嫌で自分でやる、なんて全部のことでやってたら大変だわ。私は餅づくりが下手でも悔しくなくて、人に頼める。それはそれでいいことだと思うわ。
障子越しに廊下に2人の人影が立ち止まったのが見えた。
「実奈萌ちゃん、俺は帰るみゃあ。婆ちゃんをお大事にみゃあ」
「待って先生」
実奈萌は立ち上がって障子戸を開けた。医者鞄を持った壮年の男と歌雁がそこにいた。
「ありがとうございました」
実奈萌は頭を下げて医者の男にお礼を伝えた。
「これは丁寧に。説明は神主さんと歌雁ちゃんにしたから、詳しくは2人に聞くといいみゃあ」
実奈萌が歌雁を見ると無言で頷いた。
「はい。いつもありがとうございます」
「見送りはボクがするから大丈夫だよ」
「じゃ、実奈萌ちゃんお元気でみゃあ」
「はい」
医者と歌雁は廊下を進み、角を曲がって見えなくなった。
実奈萌は戸を閉めて座り、縫う作業に戻った。
そして全ての服を直し終え、両手を上げて伸びをした。裁縫道具を棚に片付け、畳んだ服を籠に入れて部屋を出て、廊下を出てすぐ横の物置部屋の所定の場所に置いた。
2階の自室に戻ろうとする途中、廊下で歌雁と会った。
「歌雁、ほつれていた巫女服、直しておいたわ」
「ありがとう。いつも助かるよ」
「どういたしまして。お婆ちゃんの様子はどう?」
「良くなってるみたいだよ。来週にはまた仕事に戻れるだろうって」
「もう歳なんだから私たちに任せてのんびりしていて欲しいわ」
「ボクたちじゃ不安なんだよ。なにせ60近く離れているからね、60年の経験の差があると不安になるのも無理ないよ」
「それは分かってるけど…。差は永久に縮まらないじゃない。また転んで怪我しないか心配だわ」
お婆ちゃんは祭りの片づけ中に布を踏んでバランスを崩し転んで怪我をしたのだ。今は寝かせている。
「ボクたちが安心させないとね。でもそう肩肘張らずに。一日二日頑張ればできるものじゃないから」
「そうね。…ちょっと出かけて外の空気を吸ってくる」
「行ってらー」
実奈萌は自室に戻って仕度をして外に出た。
近所を散歩して人気のない公園横を通りかかると、ブランコに俯いて座っている少女の姿が見えた。
「友子?どうしたの?」
「実奈萌…」
少女は話しかけられたのに気づいて顔を上げた。表情を取り繕う余裕もなく、どんよりとした表情を相手に見せた。
友子は実奈萌の通う学校の友人だ。彼女は公立高校に通い、その辺の公園や広場で見かけることがあるが、実は資産家のお嬢様だ。実奈萌たちの神社は、彼女の両親が所有する会社のいくつかから寄付金を貰ったことがある。
「大丈夫?何かあったの?」
「ただの失恋…」
「ただのって…大丈夫なの?辛いなら私の胸で泣くといいわ」
友子は実奈萌の豊かな胸を見た後、フイと向こうを向いた。
「私は泣いてはいけない。こんな風に悩むことすら烏滸がましい」
「どうして?」
「……」
友子は喋ろうとせず、実奈萌は隣のブランコに座って言い出すのを待つことにした。
こんな状態で放っておけないわ。迷惑かもしれないけど、聞き出して励ましたい。
友子はちらりと実奈萌を見て、全てを包み込むような雰囲気にあてられ、ボソリと口を開いた。
「…世の中には、」
実奈萌は集中して聞き耳を立てた。
「戦争の暴力で酷い目に遭って苦しむ人や、その日の食事にすらありつけない人もいる。それなのに、私みたいな不自由なく平和に暮らしている人が失恋程度のことで泣いていたら皆に悪いよ。こうやって落ち込むことすら、ふざけるなと怒鳴られたって文句言えない。でもどうしても元気が出なくて…」
友子は項垂れて地面をぼんやりと見た。荒い呼吸で肩が動いているのが実奈萌から見えた。
「友子が優しいからそう思うのよ。誰にだって悩みや苦しいことはあるわ。もっと苦しい目に遭っている人がいるからって自分を追い詰めることないわ」
「違う…私は優しくなんかない」
「そんなことない。この前だって怪我した子を手当してたじゃない」
「違う…私は報復を恐れているだけ、優しい訳じゃない!」
友子は体を起こして振り向きながら実奈萌に泣きそうな顔で言い、再び下を向いた。
「小学校の頃…私はまだ自分の家が裕福だとは分かってなかった。だから失敗した」
「何があったの?」
「両親…特に母が旅行好きで家族でよく旅行に行った。国内も国外も。でも私には歴史的建造物とか文豪所縁の地とか、良さが分からなくて退屈だった。友達たちに旅行は退屈だと愚痴っていたら、金持ちの嫌味だと言われて嫌われ、無視されるようになった。あの時の私は浅はかだったんだ。普通の家はそんなに頻繁に旅行に行かないなんて考えもしなかった。自分は違うんだとそれまで気づかなかった」
「だから今は必至に隠しているのね」
余計な争いを避けるために隠しているのかと思っていたけど、トラウマによるもので恐れていたからなのね。うちの学校は私立じゃなくて公立でお金持ちばかりというわけではないし、猶更警戒していそうね。
「実奈萌にはバレているけどね…。神社への寄付で」
「そうね。でも皆に言い回ったりしていないわ」
「秘密を守ってくれてありがとう」
「うん」
「でもやっぱり怖い。暢気に過ごしやがって、酷い目に遭わせてやると恨まれるに違いない。この情報社会じゃ特に怒りが増幅される。私が暢気にも失恋で苦しむことをしなければ恨まれることもない。酷い目に遭わされない。なのに苦しくて仕方ない…そうあっちゃいけないのに…」
友子は両腕を抱えて震えてうずくまった。
「それは違うわ」
「え…?」
友子は顔を向けて実奈萌を見た。
「私は親がいないけど、友子が親の不満を言っても恵まれているくせにと恨むことはないわ。皆が皆、恨むわけじゃない。それにきっと恨みがあればどんな理由でも怒りに繋がるのよ。そんな綺麗な服を着るなんてとか、お前たちは楽してると想像するとか、何かしら怒る箇所を見つけ出すと思うわ。それまで気にしてなかったことだったとしてもね。だから、〇〇さえしなければもう恨まれることはない、なんて万能薬は存在しないわ。友子が苦しみから逃れたくて万能薬を幻視しているのよ」
「そんな…」
そうだ、私も万能薬を幻視している。私たち四姉妹が頑張りさえすればお婆ちゃんは安心できると信じている。そんな確証なんて無いのに、どうすればいいのか分からない不安から逃れるために。
「どんな人だって苦しむことはある。例え全てを手に入れたように見える成功者にだって。だから、苦しんで悩んだり、泣きたくなったりして無理に我慢することないわ」
「……」
まだ納得できないみたいね。もし私が経験豊富なお婆さんだったら説得力が違ったかな。同い年だものね。私じゃ友達を励ますことができないの…?
どこからともなく焦げたような臭いがして通りの向こうの方から煙が上がっていくのが見えた。
「火事だー!」
誰かの叫び声が聞こえた。
「灯油タンクに移りそうだ、早く消防を!」
「友子」
「?」
「雨の中なら泣いてても分からない。泣くといいわ」
実奈萌は立ち上がって上着と鞄を投げ渡し、燃える家の方を一目見て、口ずさみ始めた。
快晴の空がみるみる曇り空となっていき、実奈萌が一回転すると衣装が変わった。
彼女の歌う物悲しい旋律に、天が涙を流すように雨が降り出した。くるりと回れば水飛沫が飛び、広がるスカートが薄暗い雨天の中、可憐に咲く美しい花のように華やかにそこにあった。
クライマックス、実奈萌は飛び上がって両腕を広げると、その身が光り輝く羽衣に包まれた。腰の後ろでリボン結びされた帯が伸び、2つの尻尾のようにひらひらと揺らめきながら地上に降り立った。
右手の掌を上に向け、ゆったりと胸の前から前へと動かし、火事の家を指し示すとその上に黒く分厚い雲が集まり、滝のような雨がそこに降り注いで、火を完全に消し去った。
友子は雨の中、物悲しい雰囲気に飲みこまれ、涙が溢れ出した。失恋によるものなのか、曲を聞いて引きおこされた感情か、区別がつかなくなっていたがそんなことはどうでもよくなっていた。
「ふぅ…」
実奈萌は息を吐き、体の力を抜いた。すると羽衣が消えていき、元の衣装に戻った。雨雲は消えずに小雨がまだ続いていた。
友子の前に行き、彼女を胸に抱いて頭を優しく撫でた。涙は肌を伝う雨と混じって、雨なのか涙なのか分からなくなった。
暫くして友子は泣き止み、空は晴れて虹がかかった。
その後、冷えた体で風邪をひかないように、公園から近い空橋家のストーブで体を温め、服はその間に乾燥機で乾かすことにした。
2人は着替えてタオルを被り、薪ストーブの前に座って体を温めた。
「泣いたらすっきりした。ありがとう」
「どういたしまして」
「気づいたよ。既婚者だと分かっても諦める必要なんてないよね?」
「え…!?そ、それはどうかしら…?私には分からない…。新しい恋を見つけた方が…」
「元気出て来たしやるぞー!」
あはは…これで良かったかしら…?
こうして実奈萌の力によって火事は消火され、延焼も防ぎ、街の人たちの命は守られた。
これが四歌の巫女が一人、水の巫女、実奈萌の力。




