表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

第4話 森の沈黙、街の偽り

 バルガスの死体が冷たくなった酒蔵から歩き出した時、俺の心を満たしたのは歓喜ではなく、冬の荒野のような空虚さだけだった。憎い男が一人消えた。それでも、その事実が俺の魂に平穏をもたらすことはなかった。むしろ、復讐の道がいかに虚しいものかを、改めて思い知らされただけだった。


 宿に戻った俺は、血に染まったマントを何度も水で洗った。冷たい井戸水に布を浸し、両手で力強く揉む。布から血の色は薄れていくのに、染み付いた鉄錆の匂いだけが、まるで俺を嘲笑うかのように鼻腔から離れようとしなかった。洗えば洗うほど、水が赤く濁り、バルガスの断末魔が耳の奥で蘇る。俺は十回、二十回と洗い続けた。手が荒れ、指先が切れても、それでも匂いは残った。


 やがて俺は諦めて、マントを暖炉の火にくべた。乾いた布が勢いよく燃え上がり、部屋を橙色の光で満たす。炎を見つめながら、俺は理解した。匂いが消えないんじゃない。俺の記憶が、この布に血の匂いを上書きしているだけだ。復讐とは、こういうものだったのか。殺せば殺すほど、俺の中に死の影が蓄積されていく。


 テーブルの上には、バルガスから奪った羊皮紙と金貨が並んでいる。金貨は宿の明かりを受けて鈍く光っているが、俺にはそれが血のように赤く見えた。金貨の輝きには一切の魅力を感じない。この世で最も美しい宝石でも、今の俺には色褪せた石塊にしか見えないだろう。必要なのは、この羊皮紙だけだ。次なる死の道標。残りの標的たちへと続く、血まみれの地図。


 羊皮紙を改めて検分すると、表面には報酬の分配率が記されているが、裏面にはより詳細な情報が小さな文字で綴られていた。各メンバーの得意分野、戦闘スタイル、そして彼らの居住地域。バルガスという男は、見た目以上に几帳面だったようだ。


 次のターゲットは斥候と魔術師のコンビ。ヴェイル・オークハートとロキ・ストームウィーバー。二人は北方の巨大森林地帯を縄張りとしているらしい。羊皮紙には『森の主』という二つ名まで記されている。相当な手練れと見て間違いないだろう。


 俺は羊皮紙を畳み、懐にしまった。そして、金貨は宿の主人への支払いに使った。血で汚れた金など、俺には不要だった。


 翌朝、俺は王都を後にした。


 東門を出た時、守衛の一人が俺を怪訝そうに見ていた。血の匂いでも残っているのか。俺はフードを深く被り直し、北への街道を歩き始める。


 街道は次第に人の気配を失っていく。馬車の通る音も商人の掛け声も、一日、二日と歩くうちに、やがて風の音だけに変わった。三日目の夕暮れ、俺は遂に目的地である北方の巨大森林地帯の入り口に立った。


 看板が一つ、朽ちかけた木に掛けられている。『この先、魔獣出没につき注意』。文字は色褪せ、一部は読めなくなっている。どれほど前に立てられたものか分からないが、この森の危険性を物語っていた。


 エウリュアレがいた森とは、全てが違っていた。


 母の森は俺を優しく包んでくれた。木々の間を渡る風は慈愛に満ち、足元の苔は絨毯のように柔らかく、小鳥のさえずりは子守唄のようだった。陽光は緑の葉を透かして黄金に輝き、花々は季節ごとに美しい彩りを見せてくれた。あの森には、生命を育む母なる大地の温もりがあった。


 されど、この森は俺を『異物』として拒絶し、全ての樹木が敵意を持って俺を見下ろしているようだ。空気は重く、湿り、腐葉土の匂いに混じって何か得体の知れない獣の臭いがする。木々の枝は爪のように俺に向かって伸び、足元の根は罠のように絡み合っている。頭上の枝葉は陽光を遮り、森の内部は昼でありながら薄暗い。まるで、この森全体が一つの巨大な牢獄のようだった。


 俺は慎重に歩を進めた。エウリュアレから教わったサバイバル技術を総動員し、一歩一歩、足音を殺しながら森の奥へと向かう。落ち葉を踏む音、枝を払う音、衣擦れの音、全てを最小限に抑える。


 最初に気づいたのは、地面に張られた極細のワイヤーだった。足首の高さに、ほぼ透明な糸が張り巡らされている。踏めば間違いなく鈴の音が響くだろう。俺はそれを跨いで進む。次に見つけたのは、巧妙に偽装された落とし穴。新緑の枝葉で覆われているが、母に教わった目で見れば、周囲の地面との微妙な色の違いから、不自然な平坦さがすぐに分かった。


 俺は、あえて罠のすぐ脇を、音もなく通り過ぎる。まるで、蜘蛛の巣の存在に気づきながら、そのすぐ横を嘲笑うように飛ぶ蝶のように。


 ――まだ、届かない。


 お前たちの牙では、俺の喉笛には。


 俺がそう思った時、森の奥から、聞き覚えのある声が響いてきた。


「ソレン……どうして、そんなに苦しそうな顔をしているの?」


 母の声だった。俺の足が止まる。振り返るが、そこには誰もいない。風に揺れる木々があるだけだ。幻聴だ。ロキが仕掛けた幻惑魔法に違いない。俺は頭を振り、再び前に向かう。


 声は、むしろ強くなる一方だった。


「お兄ちゃん……なんで僕たちを置いて、一人だけメドゥーサに助けられたの?」


 今度は、山賊に殺された弟の声だった。俺の足が再び止まる。心臓が激しく脈打ち、冷や汗が背中を流れる。これは幻聴だ。分かっている。俺は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。しかし、指一本動かせない。声が、過去の扉をこじ開けていく。炎に包まれた家。両親の悲鳴。弟の小さな手が、俺に向かって伸ばされていたこと。あの時の弟の目には、恐怖と、そして――俺への期待があった。兄が助けてくれると信じていた。


「お前だけが、幸せになって……ずるいよ……」


 その声は恨みに満ちていた。俺は奥歯を噛み締める。これは敵の術だ。惑わされるな。そう頭では分かっているのに、その声はあまりにも真に迫っていて、俺の胸を締め付けた。確かに俺は、家族の中で唯一生き延びた。メドゥーサに救われ、愛情を受けて育った。弟も妹も、そんな幸福を知ることなく死んでいったのに。


 俺が罪悪感に囚われている隙に、森の深部から新たな気配が近づいてくる。足音は聞こえない。だが、殺気が空気を震わせている。相手は俺の心理状態を完全に把握しているのか。幻聴で動揺させておいて、その隙を突くつもりか。


 俺は蛇眼を発動し、辺りの魔力の流れを探った。すると、見えた。木々の間に張り巡らされた、極めて精巧な魔力の網。普通の魔術師では気づかないレベルの偽装が施されている。魔力の流れは自然な風の動きを模し、鳥や小動物の生体魔力に紛れるように調整されている。この蛇眼の前では、無意味だ――


 いや、待て。この魔力の流れ、どこか不自然だ。まるで俺の蛇眼で見ることを前提として作られているような……。俺が気づくことを計算に入れて、わざと発見しやすい位置に配置されている?


 俺の能力まで研究しているのか?


 背筋に冷たいものが走る。相手はただの狩人ではない。俺という存在を完全に分析した上で、この森を巨大な罠として仕立て上げているのだ。まるで、俺を捕獲するために特別に設計された牢獄のように。


 その時、木陰から何かが動く気配を感じた。身構える俺の前に現れたのは――一匹の子鹿だった。ただ、その瞳には人間のような知性と悪意が宿っている。普通の鹿の目ではない。血走り、憎悪に満ちた人間の目だ。これも幻覚か。俺は蛇眼を使おうとして、咄嗟に思い直した。魔法で作られた幻像を石化しようとすれば、魔力の反動で正確な位置が相手にバレる。


 俺は子鹿を無視して歩を進めた。すると、それは煙のように消え去った。


 やはり幻覚だった。それにしても、この程度で済むはずがない。相手はプロの狩人だ。必ず、もっと巧妙な――


 その時、背後から風を切る音がした。


 俺は咄嗟に身を屈める。頭上を矢が通り過ぎ、目の前の樹木に深々と突き刺さった。矢羽根は鷹の羽で作られており、矢尻は見事に研ぎ澄まされている。職人の技が光る一品だ。振り返ると、二十歩ほど離れた木の陰から、フードを被った男が姿を現す。


「よく避けたな、小僧」


 低く、しかし良く通る声。斥候のヴェイル・オークハートに違いない。痩身で機敏そうな体つき、手には短弓、腰には短剣を帯びている。その動作の一つ一つに無駄がなく、長年の実戦経験を物語っている。足音一つ立てずに俺の背後を取ったその技術は、確かに一流だった。


「バルガスを殺したのは貴様か」


「ああ」俺は短剣の柄に手をかけながら答えた。「そして、次は貴様たちの番だ」


「ほう」ヴェイルは薄い笑みを浮かべる。「報復に来たのか。だが、小僧よ。我々を甘く見過ぎている。ここは俺たちの庭だ。貴様は既に、蜘蛛の巣に絡め取られた虫に過ぎん」


 彼が指笛を吹くと、俺の右側から別の気配が近づいてきた。魔術師のローブを纏った、長身の男。ロキ・ストームウィーバーだ。手には魔法陣が刻まれた杖を握り、その先端には紫色の魔力光が灯っている。杖の装飾は精緻で、間違いなく高級品だ。王立魔術学院で研鑽を積んだ本格派の魔術師と見える。


「まさかメドゥーサの仇討ちとはな」ロキの声は、ヴェイルとは対照的に重く、威圧感に満ちていた。「あの時の盲目の餓鬼か。よく生きていたものだ」


 二人は俺を挟み撃ちにする形で立っている。逃げ道は背後の一方向のみだが、そこは深い森の奥。逃げれば完全に相手のペースに巻き込まれる。


「あの狩りは最高だったぞ」ロキが懐かしそうに呟く。「メドゥーサの石化能力を完全に封じた時の快感といったら。まさに至上の獲物だった」


 俺の左眼が熱を帯びる。蛇眼が怒りに反応しているのか、それとも母の残留思念が疼いているのか。


 ――黙れ。


 俺は、内なる声にそう命じた。今は、まだ冷静になるべき時だ。


 二人の連携は完璧だった。ヴェイルが左右に動いて俺の注意を引きつける間に、ロキは詠唱を開始する。口の動きから判断すると、中級の攻撃魔法だ。俺は蛇眼でヴェイルを狙おうとしたが、彼は木から木へと素早く移動を続け、視線を定めることができない。まるで森そのものと一体化しているかのような動きだった。


 そして、ロキの魔法が完成した。


「『風刃乱舞』!」


 旋風と共に、無数の風の刃が俺に向かって飛んでくる。俺は木の陰に身を隠そうとしたが、風刃は樹木をも切り裂いて進んでくる。咄嗟に地面に伏せたものの、右腕と肩に深い切り傷を負った。


 焼けるような痛みが神経を駆け上がる。傷口から温かい血が溢れ出し、衣服を濡らしていく。短剣を握る指から力が抜けていく感覚に、俺は歯を食いしばった。想像以上に深い傷だ。骨まで達しているかもしれない。


 痛みに顔を歪める俺を見て、ヴェイルが嘲笑う。


「どうした、復讐者よ。その程度か?バルガスの野郎でも、もう少しは粘ったぞ」


 俺は立ち上がろうとして、左腕の激痛に呻いた。予想以上に深い傷だった。血が滴り落ち、足元の落ち葉を次々と赤く染めていく。視界の端が白く霞み始める。失血が始まっているのか。


 再び、ヴェイルの矢が飛んできた。今度は太股を狙っている。俺は何とか避けたが、体勢を崩し、木の根に足を取られて転倒した。膝をつき、片手で身体を支える格好になる。地面の冷たさが、損傷した身体に痛々しく伝わってくる。


「見事だ、小僧」ヴェイルが俺に近づきながら言った。「我々の負けを認めよう」


 何を言っているのか分からない。俺はまだ何もしていない。むしろ完全に劣勢だ。


「我々は確実に勝てる相手しか狩らない」ロキが杖を構えながら続ける。「――貴様はその法則を破った。メドゥーサの遺児としての力を見せてみろ。我々を楽しませられるなら、苦痛なく殺してやる」


「終わりだ」


 ロキが杖を構える。その先端に、先程とは比べ物にならない魔力が集まり始めた。殺気が空気を震わせ、俺の肌を刺す。


 全身の筋肉が、死への恐怖で硬直する。


 それでも、俺の指先は、無意識に地面の土を掴んでいた。


 指先に、冷たい土の感触。


 ――蘇る。


 母との、訓練の日々が。


 あの日、母は森の川辺で、流れる水に手をかざしていた。夕日が水面を金色に染め、魚たちが静かに泳いでいる。俺は岸辺の石に腰を下ろし、母の横顔を見つめていた。


 『ソレン。この世界にあるものは全て、形は違えど同じ源から生まれています。水も、石も、木も…そして、人が使う魔法の光さえも』


 母の指先から淡い光が放たれ、川の水が一瞬だけ氷の結晶に変わった。美しい光景だった。俺は意味が分からず、首を傾げる。


 『全ては同じ素材でできている。だから、形を変えることができるのです。石化とは、物質の本質を暴き、別の姿へと導く技術なのですよ』


 あの時の俺には、意味が分からなかった。だが、今なら分かる。


 ――同じ源からできているのなら。


 ――石に変えられないはずがない。


「『雷光破』――」


 ロキが詠唱を完了する瞬間、俺は蛇眼を彼の杖先に集まる魔力に向けた。集約された紫の光球が、見る見るうちに灰色の石塊へと変わっていく。重力に従い、石となった魔力は彼の足元に落下した。


「馬鹿な――!魔力を石化だと?」


 ロキの驚愕の表情を見ながら、俺は立ち上がった。足に力が戻る。血は流れているが、まだ戦える。俺は彼に向かって駆け出した。


 油断はしなかった。彼は魔術師であると同時に、歴戦の冒険者だ。案の定、杖を捨て、懐から短剣を抜いた。その動きに迷いはない。近接戦闘の心得もあるらしい。


 俺たちの刃が交錯する。金属音が森に響く。彼の剣術もなかなかのものだった。しかし、純粋な剣技だけで俺を超えることはできない。近接戦闘に持ち込めば、俺の方が有利だ。母から教わった技術と、森で培ったサバイバル技能が俺を支える。


 一方、ヴェイルは俺たちの戦いを見守りながら、新たな矢を番えていた。隙を見て俺を射抜くつもりだろう。と思いつつ、俺はロキとの戦いに集中した。


 数合打ち合った後、俺は彼の懐に潜り込み、短剣を腹部に突き立てた。刃が肉を裂き、内臓に達する手応えがあった。ロキは苦悶の表情を浮かべながら、それでも俺の首に手をかけてくる。


「貴様も……道連れだ……」


 その言葉が、彼の最期となった。手は俺の首を絞めることなく、力なく落ちる。ロキの身体が前のめりに倒れ、俺の短剣から血が滴る。


 次の瞬間、ヴェイルの矢が俺の左肩を掠めた。


 新たな痛みが走る。俺は短剣を引き抜き、ヴェイルに向き直った。油断はなかった。彼は既に次の矢を番えている。


「流石はメドゥーサの息子だ」ヴェイルは感心したように頷いた。「良かろう。まだ終わりではない」


 彼が矢を放つ。俺は横に飛んで避けるが、着地と同時に足元に仕掛けられた罠が作動した。地面から鋭い杭が飛び出し、俺の右足を貫く。


 激痛に呻きながら、俺は杭を引き抜いた。血が噴き出し、立っているのがやっとの状態になる。


 ヴェイルがゆっくりと近づいてくる。手には短剣。俺を仕留めるつもりだ。


 俺は膝をつきながらも、蛇眼をヴェイルに向けた。それに反応した彼は、俺の視線を読み、巧妙に死角に回り込む。まるで蛇眼の射程と効果範囲を完全に把握しているかのような動きだった。


 そして、俺の背後に回り込んだヴェイルが、短剣を振り上げる。


 その時だった。


 俺の手首に刻まれた蛇の鱗の痣が、急に熱を帯びた。エウリュアレの残留思念が、俺に何かを伝えようとしているのか。痣の疼きに意識を向けると、森の地面に流れる微細な魔力の脈動が見えた。


 この森全体に、地下水脈のように魔力が流れている。そして、その魔力は全て――地面の下の岩盤に集約されている。


 俺は地面に手をつき、蛇眼を大地に向けた。


「石化」


 俺の魔力が地面に流れ込み、半径十歩ほどの範囲の土が瞬時に石へと変わった。同時に、地下の魔力脈も石化し、この森に張り巡らされた魔術的な警戒網が一瞬で無力化される。ヴェイルもロキも、足場を失って体勢を崩す。


 この瞬間を待っていた。


 俺は石化した地面を足場に跳躍し、体勢を崩したヴェイルに向かって短剣を振りかざす。完璧な奇襲のはずだった。彼の反応が、俺の予測を上回ってさえいなければ。短剣で俺の攻撃を受け止め、同時に膝蹴りを腹部に叩き込んでくる。


 息が詰まる。胃の中身が逆流しそうになり、酸っぱい液体が喉まで上がってくる。肉体は悲鳴を上げている。それでも、俺の心は折れていなかった。


 ヴェイルの短剣と俺の短剣がぶつかり合う。火花が散り、金属音が森に響く。彼の技術は確かに優れていた。無駄のない動き、的確な間合い、そして何より、俺の蛇眼の能力を見切った上での戦術。それでも、覆せない差があった。俺には母から受け継いだ技がある。


 そして、一瞬の隙が生まれた。


 ヴェイルが攻撃に集中している間に、俺は蛇眼を彼の右足に向ける。石化が始まり、彼は動きを封じられた。


「なんだと――」


 驚愕の表情を浮かべるヴェイルの胸に、俺の短剣が深々と突き刺さる。刃が心臓を貫く感触。温かい血が手に流れ、柄を濡らす。彼は膝をつき、口から血を吐いた。その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。むしろ、プロとしての敗北を受け入れるような、静かな光だった。


 瀕死のヴェイルが最後の力を振り絞って俺の足首を掴んだ。


「お前の復讐は、母親が望んだものか?」


 血まみれの唇から搾り出されたその問いに、俺の脳裏にエルノアの笑顔がよぎった。あの純粋な瞳。光魔法で人々を癒したいと語っていた彼女の夢。俺の手は血に濡れ、俺の道は死体の山で舗装されている。


 母さんが望んだ道ではないかもしれない。だからこそ、あの子のような人間が、もう二度と俺のような絶望を味わわないために。俺は、俺の意志で復讐する。


「母さんの意志ではない」俺はヴェイルを見下ろした。「これは、俺の意志だ」


 短剣を引き抜き、ヴェイルの心臓を再度貫く。彼は静かに息を引き取った。最後まで、狩人としての誇りを失うことはなかった。命乞いをするでもなく、泣き叫ぶでもなく、ただ静かに死を受け入れた。


 俺は立ち上がり、二人の死体を見下ろす。また二人、母を殺した者たちが消えた。満たされるはずの心が、逆に凍てついていく。心に生まれるのは達成感ではなく、いつもの空虚さだった。まるで、深い井戸の底で一人佇んでいるような、底知れぬ孤独感。


 森に静寂が戻った。風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが響いている。鳥のさえずりも、虫の羽音も、何故かこの場所だけは避けているようだった。まるで死が支配する領域を、生き物たちが本能的に察知しているかのように。


 俺は二人の懐を探った。ヴェイルからは手製の地図と、数枚の銀貨。ロキからは魔術学院の身分証と、魔法の触媒となる宝石が数個。どれも俺には必要のないものだった。そう思い、立ち去ろうとした、その時だった。ロキの懐の奥から、もう一枚の羊皮紙が出てきた。


 それは、残りのメンバーとの連絡手段を記したものだった。王都にいる『情報屋』の名前と、接触方法。どうやら、彼らは組織的に動いていたらしい。復讐は、思っていた以上に複雑になりそうだった。


 俺は羊皮紙を懐にしまい、森を後にした。振り返ることはしない。死者に向ける言葉など、俺にはなかった。


 街道に戻った時、月が雲間から顔を出した。その光は美しく、母がいた頃の夜を思い出させる。それなのに、今の俺には、その美しさも色褪せて見えた。復讐とは、こういうものなのだろう。世界から色を奪い、音を消し、全てを灰色に変えてしまう呪いなのだ。


 それでも俺は歩き続ける。残るは八人。


 俺がこの復讐を終わらせるまで、この虚しい旅は続くのだろう。エルノアの笑顔を守るために。そして、母の記憶に誓った約束を果たすために。


 北方の森を後にしながら、俺は次の目的地へ向かって歩き出した。蛇の鱗のような痣が新たに手首に浮かび上がり、次のターゲットの方角を示している。その痣を見る度に、右手首が疼く。まるで俺の嘘を咎めるかのように。エルノアには「探し人がいる」と答えた。確かに探してはいる。ただ、それは再会のためではなく、殺害のためだった。


 羊皮紙によれば、次は王立魔術学院に籍を置く上級魔術師だ。アルカード・フォン・ライヒェンバッハ。名前からして貴族の出らしい。厄介な相手になりそうだが、今更引き返すつもりはない。王都への帰路は長い。それでも、俺の足取りは重くなかった。


 歩きながら、俺は考える。ヴェイルの最後の問いが頭から離れない。「お前の復讐は、母親が望んだものか?」


 母さんが望んだものではないだろう。母さんなら、きっと俺に赦しを説いたはずだ。憎しみではなく、愛を選べと言ったはずだ。そんなことは、もう、できなくなってしまった。母さんを失った時、俺の心の中で何かが壊れた。そして、その破片で俺は復讐という刃を研いだのだ。


 それでも、と俺は思う。あのエルノアという少女の笑顔を思い出すたび、俺の胸に小さな温もりが宿る。彼女のような純粋な魂が、この世界にまだ存在している。その事実だけが、俺にとって唯一の救いだった。


 復讐の道が虚しいことは、もう知っている。この先に待つのが、さらなる灰色の空虚だけであることも。それでも俺は歩き続ける。それが、俺が選んだ道だからだ。


 あの少女――エルノアの笑顔を守るために、俺はこの手を血で染め続ける。では、最後の復讐を終えた時。この血塗られた手で、俺は一体、何を掴むことができるのだろうか。


 答えのない問いを胸に、俺は夕闇に染まる街道を、ただひたすらに歩き続けた。月明かりが俺の影を長く伸ばし、それはまるで俺の後ろに続く死者たちの列のように見えた。


 風が頬を撫でていく。その風は、母がいた森から吹いてきているような気がした。優しく、温かく、そして少しだけ悲しい風だった。


 俺の長い旅は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ