第2話 鉄錆のギルド
王都への街道を歩きながら、俺は左目の奥で燻り続ける鈍い痛みに耐えていた。あの薬草師を石に変えてから、もう四日が過ぎている。それでも、母から受け継いだ瞳が宿す力の代償は消えることがない。
時折、視界の端に彼女の最期の表情が蘇る。恐怖と絶望に歪んだ顔が、まるで残像のように焼き付いて離れない。吐き気が込み上げそうになるのを、俺は歯を食いしばって堪えた。
これが、復讐の代償なのか。
母の記憶が流れ込む度に、俺の魂は少しずつ削られていく。それでも構わない。十二人全てを殺し終えるまで、俺は歩み続ける。たとえこの身が朽ち果てようとも。
左手首の蛇鱗のような痣が、微かに熱を帯び始めた。王都が近づいている証拠だ。二人目の標的――バルガス・フォード。元重戦士にして、現在は王都最大の冒険者ギルド『鉄刃』の教官を務める男だった。
母を殺した十二人の中でも、特に残忍だった一人だ。
街道の向こうに巨大な城壁が見えてきた時、俺の手首の痣は明確に疼いた。間違いない。あの城壁の向こうに、二人目の獲物が待っている。
王都『アストライア』の門をくぐった瞬間、俺は圧倒的な喧騒に包まれた。辺境の静寂とは対照的な、人間の欲望が渦巻く坩堝。商人の呼び声、馬車の轟音、そして冒険者たちの粗野な笑い声が入り混じる。
鉄と汗、それに酒の匂いが鼻を突く。全てが、母と過ごした森の清澄さとは正反対だった。この腐敗した世界に、俺は足を踏み入れた。
メインストリートを抜け、ギルド街へ向かう。道行く冒険者たちの視線が、俺の質素な装いを値踏みするように追いかけてくる。だが、そんな視線など気にならない。俺の関心は、ただ一つ。
復讐を完遂すること。
『鉄刃』ギルドの建物は、想像以上に巨大だった。五階建ての石造りで、正面には巨大な剣の紋章が刻まれている。出入りする冒険者たちの装備も、辺境では見たことがないほど豪華だった。
これが、権力と金の匂いに満ちた王都の現実か。
ギルドの扉を押し開けると、内部の熱気が一気に押し寄せた。受付カウンターの前には長い列ができ、掲示板の前では冒険者たちが依頼書を奪い合っている。
母が最も嫌った光景だった。生きるためではなく、ただ己の欲望のために奪い合う人間の姿。このギルドは、俺たちの幸福を奪った世界の縮図そのものだ。
そんな喧騒の中央に、一際目立つ男がいた。
バルガス・フォード。
身長は二メートル近く、筋骨隆々とした体躯に無数の傷跡。灰色の髭を蓄えたその顔に、俺は見覚えがあった。七年前、母を嬲り殺しにした時と何も変わらない、傲慢な表情。
「新人か?随分と若いな」
突然声をかけられ、俺は振り返った。受付嬢が人懐っこい笑顔を浮かべている。
「冒険者登録をしたい」
「分かりました。こちらの書類に記入をお願いします」
偽名を記入しながら、俺は周囲を観察した。新人冒険者らしき若者が、先輩格の男に囲まれて震えている。金を巻き上げられているようだった。
弱者を食い物にする構図は、七年前から何も変わっていない。
受付嬢が書類を確認する。
「お名前はソル・アッシュさんですね。武器は短剣、魔法は使えない…と。実技試験を受けていただきますが、相手をしてくださるのは――」
「俺が相手をしよう」
低い声が割り込んだ。振り返ると、バルガスが俺を見下ろしていた。その瞳に宿る光は、獲物を品定めする獣のそれだった。
「新人には珍しく、いい目をしている。どこで剣を学んだ?」
「独学です」
「ほう…面白い」
バルガスの唇が歪んだ。それは笑顔ではなく、何かを企む時の表情だった。
試験場は地下にあった。円形の闘技場を模した造りで、周囲には見学用の座席が設けられている。他の冒険者たちが野次馬根性で集まってきていた。
「武器は木剣を使う。相手を戦闘不能にするまでが試験だ」
バルガスは慣れた様子で木剣を構える。対する俺は、母から教わった短剣の構えを取った。
「始め!」
合図と共に、バルガスが踏み込んできた。その動きは確かに熟練者のものだった。しかし――
俺は半歩だけ横に身体をずらし、バルガスの剣線を紙一重で躱す。そのまま懐に潜り込み、木剣の柄で彼の鳩尾を突いた。
「ぐっ!」
バルガスが苦悶の表情を浮かべる。だが、すぐに立て直して再び攻撃を仕掛けてきた。
今度は俺から動いた。低い姿勢で接近し、バルガスの足元を狙う。彼が剣で防御しようとした瞬間、俺は軌道を変えて彼の手首を狙った。
鈍い音と共に、バルガスの木剣が宙を舞う。
「勝負あり」
審判役の冒険者が声を上げた時、周囲の観客たちがざわめいた。新人が教官を一方的に圧倒したのだから、当然の反応だった。
「……大したものだ」
バルガスは手首を摩りながら立ち上がった。その目に宿る光が、興味から欲望に変わったのを俺は見逃さなかった。
「お前のような人材を埋もれさせるわけにはいかない。俺の直属になれ」
これは好機だった。俺は素直に頷く。
「光栄です」
「よし。なら早速、お前にやってもらいたい仕事がある」
バルガスの笑みが、より邪悪になった。
その夜、俺はバルガスに連れられてギルドの地下深くへ降りていった。公式の施設とは明らかに異なる、湿った空気と血の匂いが立ち込める暗い回廊。
「ここは何ですか?」
「『奈落闘技』の会場だ」
バルガスの声に、隠しきれない興奮が混じっていた。
「新人冒険者に実戦経験を積ませるための……特別な訓練場だ。もちろん、ギルドの公認ではない」
嘘だった。これは明らかに、金持ちの娯楽のための賭博場だ。回廊に響く歓声と怒号がその事実を物語っている。
「勝者には報酬を出す。負けた場合は…まあ、運が悪かったということだ」
つまり、死ぬ可能性もあるということか。
「お前なら大丈夫だろう。昼間の実力を見れば、相手が誰であろうと負けることはない」
バルガスは俺の肩に手を置いた。
肌に触れた瞬間、母の血の匂いが蘇る錯覚に陥り、息が詰まる。俺はこみ上げる吐き気を、呼吸一つで喉の奥に押し殺した。
その手に込められた力は、拒絶を許さない圧力だった。
「断ることもできるが…そうすれば、お前の素性について詳しく調べさせてもらう。辺境から来た新人が、なぜあれほどの実力を持っているのか、興味深いからな」
脅迫だった。しかし、俺にとってはむしろ好都合だ。バルガスが俺を利用しようとするなら、俺もまたそれを利用できる。
「分かりました。やります」
「よし、いい返事だ」
地下闘技場は想像以上に大規模だった。円形の檻のような闘技場を、階段状の観客席が取り囲んでいる。貴族らしき男たちが金貨を握りしめ、興奮した表情で次の試合を待っていた。
「今夜の新人は、なかなかの腕前らしいな」
「賭けるなら今のうちだぞ」
観客席から聞こえてくる会話に、俺は表情を変えない。彼らにとって、俺は金を稼ぐための道具に過ぎない。
「最初の相手はあいつだ」
バルガスが指差した先に、俺より二回りは大きな巨漢が立っていた。全身に無数の傷跡を刻み、獣のような目つきで俺を睨んでいる。
「『絞殺鬼』のガルムだ。これまで新人を十七人殺している」
十七人。つまり、俺のような新人冒険者を、この男は娯楽のために虐殺してきたのか。
「心配するな。お前になら勝機はある。ただし……」
バルガスの声が低くなった。
「絶対に勝て。負ければ、お前の情報を全て洗い出してやる」
脅しではない。本気だった。バルガスは俺を完全に支配できる駒だと思っている。
だが、それは大きな誤算だ。
俺は既に、彼を殺すことを決めている。
「試合開始!」
司会者の声と共に、ガルムが雄叫びを上げながら突進してきた。その巨体から繰り出される拳は、まともに受ければ致命傷になるだろう。
左の瞳が、囁く。『使え』と。だが、まだだ。
しかし、俺には母から受け継いだ技術がある。
ガルムの拳を紙一重で躱し、懐に潜り込む。そのまま彼の脇腹に短剣を刺そうとした瞬間――彼の反応は予想以上に早かった。
巨腕が俺の胴を鷲掴みにし、骨が軋むほどの力で宙に持ち上げる。観客席から、獣の檻を覗き込むような野蛮な歓声が上がった。
「死ね、小僧!」
ガルムが、俺を虫けらのように地面に叩きつけようと腕を振りかぶる。だが、俺の心は氷のように静かだった。
俺は抵抗せず、逆に奴の力を利用して身体を振り子のように捻る。一瞬の無重力状態。その刹那、隠し持っていた短剣を抜き放ち、ガルムの剥き出しになった手首の腱、その一点を寸分の狂いなく抉った。
「がああああ!」
獣の絶叫。それは痛みよりも、己の絶対的な力が赤子の腕のようにいなされたことへの、驚愕に満ちていた。奴の力が緩んだ一瞬、俺は猫のようにしなやかに砂地に着地する。
舞い上がる砂塵の中、俺は間髪入れずに次の動作に移っていた。狙うは、あの巨体を支える唯一の弱点、アキレス腱。躊躇なく振り抜いた短剣が、分厚い筋肉と腱を断ち切る鈍い、湿った音を立てる。
巨体が、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ち、砂埃の中に膝をついた。
砂埃の中で、ガルムの恐怖に歪んだ瞳が、俺の視線と絡み合った。
その瞳に、かつて母に向けられた下劣な光と同じものを見た気がした。途端に、左の瞳を通して母の絶望が流れ込んでくる。殺せ、殺せ、殺せ――母のものではない憎悪の残響が、俺の思考を塗り潰そうとする。
だが、俺は歯を食いしばり、その残響に抗った。違う。こいつは母を殺した十二人ではない。ただの獣だ。この獣に、母の憎しみをぶつけることは、母の魂を汚すことになる。
こいつに、母の力を使う価値はない。
「ま、待て…降参だ、降参――」
俺は迷わず、彼の首筋に短剣を突き立てた。
血飛沫が宙を舞い、ガルムの巨体が地に倒れる。観客席からは興奮した歓声と、賭けに負けた者の怒号が同時に響いた。
「勝者、ソル・アッシュ!」
司会者の声が地下闘技場に響く中、俺はバルガスを見上げた。
一瞬だけ、高揚感が胸に宿る。血に染まった闘技場で浴びる歓声に、獣のような喜びを覚えてしまった自分に気づく。俺もこいつらと同じ血に喜ぶ獣になりかけているのか。
彼の表情に満足の色が浮かんでいるのを確認し、俺は感情を押し殺した。
これで、俺は彼の信頼を得た。あとは機を見て――
左手首の痣が、再び疼いた。まるで、獲物に近づいていることを知らせるように。
バルガスよ。お前はまだ知らない。お前を見つめる俺の瞳が、何を宿しているのかを。
母を殺した十二人の中で、特に残酷だったお前を。俺は絶対に許さない。
「素晴らしい戦いぶりだった」
バルガスが俺に近づいてくる。その笑顔の裏に隠された邪悪さを、俺は見抜いていた。
「これからも俺の下で働けば、金も地位も手に入る。どうだ、悪い話ではないだろう?」
「はい、是非お願いします」
俺は素直に答えた。演技ではない。本心から、彼の提案を受け入れたいと思っている。
なぜなら、それが復讐を完遂するための最良の手段だからだ。
バルガスは俺の返事に満足したようで、肩を叩いてきた。
「よし、では明日から本格的に指導してやる。お前のような逸材を、俺が完璧に仕上げてやる」
その時だった。観客席の一角から、小さな悲鳴が聞こえてきた。振り返ると、バルガスの部下らしき男たちが、若い女性冒険者を取り囲んでいた。
「頼む、もう少し待ってくれ。来月には必ず――」
「待てるわけがないだろう。利子も含めて、今すぐ払え」
「それとも……身体で払うか?」
男たちの下卑た笑い声が、闘技場の残響に重なる。取り囲まれた女性冒険者の瞳に浮かぶのは、抵抗を諦めた家畜のような色だった。
――ああ、そうだ。こいつは、こういう目をする獣だった。
新人から希望を搾り取り、返せなくなった弱者の尊厳を踏みにじる。その姿が、七年前の森で、恐怖に震える母を見下ろしていたあの男の顔と、完璧に重なった。
場所が違うだけ。相手が違うだけ。やっていることは、何一つ変わらない。
弱き者を嬲り、その苦痛を糧にする、ただの獣だ。
「あれは何ですか?」
俺がバルガスに問いかけると、彼は何でもないことのように肩を竦めた。
「借金の取り立てだ。冒険者稼業は危険が多い。怪我をして働けなくなった時のための、保険のようなものさ」
保険?あれが?
「もちろん、利息は多少高いが、それも商売だ。嫌なら借りなければいいだけの話だろう?」
バルガスの表情に、微塵の罪悪感も見えなかった。彼にとって、弱者を食い物にすることは当然の権利なのだろう。
これで確信した。こいつは、七年前から何一つ変わっていない。
母を殺した時も、きっとこんな表情をしていたのだろう。罪悪感など欠片もない、純粋な悪意に満ちた笑顔を浮かべて。
俺の左目の奥で、何かが疼いた。怒りか、それとも母の憎悪が共鳴したのか。
だが、今はまだその時ではない。俺は感情を抑え込み、バルガスに従順な部下を演じ続けた。
「分かりました。勉強になります」
「そうだ、その調子だ」
バルガスは満足そうに頷いた。
地下闘技場を後にして、俺たちはギルドの上層階へ向かった。バルガスの個人的な執務室があるらしい。
「お前の次の仕事について説明しよう」
執務室は意外に質素だった。だが、壁に飾られた武器や防具は明らかに高価な品ばかりだ。新人冒険者から巻き上げた金で購入したのだろう。
「来週、貴族主催の『狩猟大会』がある。お前にも参加してもらう」
狩猟大会。それは貴族たちが、強力なモンスターと冒険者の戦いを観戦して楽しむイベントだった。
「もちろん、ただの参加ではない。特別な役割がある」
バルガスの目が、再び邪悪な光を放った。
「貴族たちの『お気に入り』を、適当に負傷させろ。重傷でなくていい、軽い怪我で十分だ」
「それは…なぜですか?」
「賭けだ。俺たちは、そいつが負傷することに金を張っている。お前が上手くやれば、大金が転がり込むという仕組みだ」
八百長か。つまり、俺は他の冒険者を騙し討ちしろと言われているのか。
「心配するな。相手を殺せと言っているわけではない。ちょっとした『アクシデント』を起こすだけだ」
バルガスは俺の肩を叩いた。
「これも修行の一環だ。実戦では、正々堂々と戦えることばかりではない。時には汚い手段も必要になる」
修行。この男は、自分の私利私欲のための犯罪を、そんな言葉で正当化している。
母を殺した時も、きっと似たような理屈をつけていたのだろう。『モンスター退治は正義だ』『世界のためになる』とでも言いながら。
俺の拳が、無意識に握りしめられていた。
「どうした?顔色が悪いぞ」
「いえ、何でもありません」
俺は表情を取り繕った。今はまだ、演技を続けなければならない。
母なら、今の自分を見て何と言うだろうか。復讐のためだと自分に言い聞かせるたび、魂が少しずつ摩耗していく感覚に襲われる。
「それより、その狩猟大会について詳しく教えてください」
「そうだな。まず相手だが――」
バルガスが説明を始めた時、俺の左手首の痣が再び疼いた。まるで、復讐の時が近づいていることを告げるように。
もう少しだ。もう少し我慢すれば、こいつを殺せる。
母よ、あなたの仇は必ず討つ。たとえ俺の魂が地獄に堕ちようとも。
「明日の朝、詳しい作戦を説明する。今夜はゆっくり休め」
バルガスに促されて執務室を出た俺は、ギルドが手配した宿に向かった。質素だが清潔な部屋で、俺は一人静かに復讐の計画を練り始めた。
狩猟大会。それは、バルガスを始末する絶好の機会になるだろう。大勢の観客がいる中で、『アクシデント』に見せかけて彼を殺すのだ。
俺は窓の外に見える王都の夜景を眺めながら、母の最期を思い出していた。あの時の絶望と苦痛を、俺は絶対に忘れない。
そして、それを与えた者たちへの復讐も。
左目の奥で、母から受け継いだ力が静かに脈動している。次にこの力を解放する時は、バルガスの最期を看取る時だ。
二人目の獲物よ。お前の最期の時は、もうすぐそこまで来ている。




