第1話 言い訳は砂に埋めて
砂漠の街に朝が来る。
地平線の向こうから這い上がってくる太陽が、煉瓦造りの建物群を赤く染め上げていく。この中継都市は、過去を捨てた者たちの最後の砦だった。商人、元兵士、元盗賊、そして──元冒険者。誰もが何かから逃げ、何かを忘れようとしながら、今日という日を生きている。
俺はフードを目深に被り、宿の窓から街を見下ろしていた。
七年前のあの日から数えて、二千五百五十五日目。母の死を刻んだ日々が、俺の心に深い溝を刻み続けている。
「今日で終わる」
呟いた声は、かつて母が愛した優しい少年のものではなかった。復讐という業火に焼かれ、人間らしさの大半を灰にした、何かの残骸の声だった。
この憎しみの連鎖を、俺が引き受ける。母から受け継いだ呪いも、それによって生まれる業も、全て俺の代で終わらせる。そのためなら、俺は人間であることを捨てても構わない。
診療所の前に立つ看板には、『リナ薬草店』と手書きの文字で書かれている。文字は丁寧で、どこか少女らしい丸みを帯びていた。
俺は昨日から、この街で彼女を観察し続けていた。
朝七時。薬草店のリナは必ず診療所の扉を開け、店先に薬草を並べる。その手つきは慣れたもので、七年という歳月が彼女をここに根付かせたことが窺える。八時頃になると、近所の子供たちが怪我の手当てを求めてやってくる。砂漠の街では、転んだ膝の擦り傷一つでも感染症を引き起こしかねない。
「おはよう、リナ姉ちゃん!」
茶髪の少年が飛び込んできた。右手の親指に深い切り傷を負っている。工房で父の手伝いをしていて、ナイフで誤って切ってしまったのだろう。
「あら、エドワード。また怪我して」
リナの声は優しく、慣れ親しんだ温もりに満ちている。彼女は少年の手を取り、傷口を清めながら薬草を選んでいく。その横顔には、深い集中と、何より──慈愛があった。
俺の胸に、母の面影が重なる。
エウリュアレも、こんな風に俺の傷を癒してくれた。森で転んだ時、山菜を取りに行って蜂に刺された時、いつも彼女の手は魔法のように痛みを取り去ってくれた。
『痛いの痛いの、飛んでいけ』
母の声が蘇る。それは、今の俺には届かない遠い記憶の彼方の響きだった。
「大丈夫よ、エドワード。明日には良くなってるから」
リナが包帯を巻き終えると、少年は嬉しそうに笑った。その笑顔は、かつて俺が母に見せていた笑顔と同じだった。
九時を回ると、今度は老婆がやってきた。腰の痛みを訴える彼女に、リナは温湿布を作って渡す。料金を払おうとする老婆に、「今日は試作品だから」と言って代金を受け取らない。
十時、十一時、正午。
一日を通して、リナの元には途切れることなく人が訪れた。皆、彼女を慕い、信頼し、愛していた。この街にとって彼女は、なくてはならない存在だった。
俺は建物の陰から、その光景を眺め続けた。
七年前、あの森で母を殺した十二人の中に、彼女もいた。当時の名前はミーナ。『暁の剣』というパーティの最年少メンバーだった。
だが、今の彼女を見ていると、それが同じ人間だとは思えない。
七年前のミーナは、輝く鎧を身に纏い、憧れの眼差しで先輩冒険者たちを見上げていた。「伝説級モンスター討伐」というイベントに、まるで祭りにでも参加するような軽やかさで同行していた。
今のリナは、過去の罪を背負うように生きている。彼女の表情には、常に微かな影が差している。笑顔の奥に、消えない痛みが隠れている。
人は変わることができるのか。
罪は、償うことができるのか。
そんな疑問が、一瞬だけ俺の心に浮かんだ。しかし、すぐにそれを振り払う。
関係ない。
俺の復讐に、そんな哲学的な疑問は必要ない。必要なのは、ただ一つの事実だけだった。
彼女は、そこにいた。
母が殺される瞬間を、その目で見ていた。
それだけで十分だった。
午後三時。俺は診療所の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
リナが振り返る。その瞬間、俺は彼女の表情の微かな変化を見逃さなかった。警戒──というほど強いものではないが、初めて見る客に対する本能的な注意深さがあった。
この街の住人は皆、互いを知っている。見知らぬ旅人の訪問は、それだけで小さな事件なのだ。
「怪我をしているんです」
俺は右腕を差し出した。実際に、浅い切り傷がある。昨夜、宿でナイフを研いでいる時につけた、演出のための傷だった。
「まあ、血が出てますね。こちらへどうぞ」
リナは俺を奥の治療台に案内した。彼女の手つきは慣れたもので、すぐに必要な薬草と包帯を揃える。
「旅の方ですか?」
「ええ、王都に向かう途中です」
俺は素っ気なく答えた。リナの手が、俺の腕の傷を清めている。その手つきは丁寧で、優しく、母を思い出させた。
皮肉なことに、母を殺した女の手が、母の手と同じ温かさを持っていた。
「王都でしたら、ここから東に向かって三日ほどかかります。砂漠の途中に盗賊が出ることもあるので、気をつけてくださいね」
「盗賊、ですか」
俺の声に、微かな感情が滲んだ。それは憎しみだった。俺の家族を殺したのも、盗賊だった。そして、その盗賊の凶刃で光を失った俺を救ってくれたのが、母だった。
リナの手が一瞬止まる。俺の声に込められた何かを、彼女は感じ取ったのかもしれない。
「……何か、辛い思い出でもお有りですか?」
彼女の問いかけは優しく、どこか自分自身の痛みを重ね合わせるような響きを持っていた。
「昔の話です」
俺はそれ以上答えなかった。リナも、それ以上は聞かなかった。過去を持つ者同士の、暗黙の理解があった。
包帯を巻き終えた彼女は、小さな薬瓶を俺に差し出した。
「これを一日二回、傷口に塗ってください。三日もあれば治ります」
「ありがとうございます」
俺は代金を払おうとしたが、リナは首を振った。
「旅の方からはお代はいただきません。お気をつけて」
その瞬間、俺は彼女の中に、かつて母が持っていた優しさの欠片を見た。それは、俺の心に深い混乱をもたらした。
この女は、母を殺した元冒険者だ。
だが同時に、今は多くの人を癒している。
その矛盾に、俺の復讐心が一瞬だけ揺らいだ。
しかし、すぐに母の最期の光景が蘇る。
エウリュアレが、十二人の冒険者たちに囲まれ、惨殺されていく光景が。その中に、確実にこの女もいたという事実が。
「そういえば」
俺は立ち上がりながら、何気なく呟いた。
「昔、『暁の剣』というパーティの方から、この街のことを聞いたことがあります」
その瞬間、リナの顔から血の気が引いた。
薬瓶を持つ彼女の手が、微かに震える。
「暁の……剣?」
「ええ。パーティのリーダーをしていたヨルゲンという方から。確か、昔そのパーティにいた女性が、この街で薬草師をしているとか」
俺の声は平静だったが、言葉の一つ一つが彼女の心を突き刺していく。
「もしかして、あなたが……」
「違います」
リナは慌てたように首を振った。しかし、その否定は明らかに嘘だった。
「そうですか。人違いでしたね」
俺は微笑んだ。それは、獲物を前にした捕食者の笑みだった。
「それでは、失礼します」
診療所を出る際、俺は振り返った。
「そうそう、ヨルゲンが伝言を預かっていると言っていました」
「伝言?」
「『昔話をしたい』と。今夜、街外れの涸れ井戸で待っているそうです」
リナの唇が震える。彼女は何かを言おうとしたが、結局声にならなかった。
「それでは」
俺は診療所を後にした。
夕暮れまで、街を歩き回った。住人たちが俺を見る目は、好奇心に満ちていた。見知らぬ旅人への関心は、小さな街では当然のことだった。
宿の食堂で夕食を取りながら、俺は他の客たちの会話に耳を傾けた。
「リナちゃん、今日は元気がなかったな」
「そうか?」
「午後から、何だか青い顔してたよ」
「疲れてるんじゃないか。最近、患者が多いからな」
リナの異変は、既に街の人々に気づかれていた。この小さなコミュニティでは、住人の微細な変化も見逃されることはない。
彼女は今頃、七年間築き上げてきた平穏な日常が崩れ去る音を聞いているだろう。
俺は食事を終え、部屋に戻った。
月が砂漠を照らし始めた頃、俺は街外れの涸れ井戸に向かった。
涸れ井戸は、街から徒歩で十分ほどの距離にある。かつては街の重要な水源だったが、三十年前に水脈が変わり、今は使われていない。深さは十数メートル。底には砂が堆積し、月明かりが届かない暗闇が口を開けている。
俺がそこに着いたのは、午後十一時頃だった。
井戸の周りには、風化した石が積まれている。俺はその一つに腰を下ろし、待った。
彼女が来るかどうかは、五分五分だった。
七年間の平穏な生活の中で、彼女の中の冒険者としての警戒心は鈍っているかもしれない。あるいは、罪悪感が彼女を駆り立てているかもしれない。
午後十一時三十分。
砂を踏む足音が聞こえてきた。
月明かりの中に、リナの姿が現れる。彼女は診療所で着ていた作業着を脱ぎ、黒いフードを被っていた。その姿は、七年前の冒険者時代を思い起こさせた。
「ヨルゲンは?」
彼女は井戸の周りを見回しながら尋ねた。声に緊張が滲んでいる。
俺は立ち上がり、フードを取った。
月明かりが俺の顔を照らす。そして、俺の左目に埋め込まれた、蛇の瞳が禍々しい光を放った。
「……あ」
リナの口から、小さな吐息が漏れた。
それは理解の音だった。全てを悟った音だった。
「ああ、あの時の……」
彼女の声は震えていた。七年前の記憶が、鮮明に蘇っているのだろう。
森の奥で出会った、盲目の少年。メドゥーサに育てられていた、哀れな子供。
そして今、その少年は彼女の前に立っている。母の瞳を宿し、復讐の炎を燃やして。
リナの膝が崩れ、彼女はその場に座り込んだ。
「あなた、生きていたのね……」
彼女の声には、安堵と恐怖が混在していた。俺が生きていることに安堵し、同時に復讐される恐怖を感じている。
「母の名は、エウリュアレだった」
俺の声は、夜の静寂に響いた。
「覚えているか?お前たちが殺した、最後のメドゥーサの名前を」
「覚えてる……覚えてるわ」
リナは涙を流し始めた。それは後悔の涙だったのか、恐怖の涙だったのか。
「私たち、間違っていた。あの人は……エウリュアレは、何も悪いことをしていなかった。ただ、森で静かに暮らしていただけだった」
「そうだ」
「あなたを、息子のように大切に育てていた」
「その通りだ」
「なのに、私たちは……」
リナの嗚咽が夜風に運ばれていく。彼女の後悔は本物だった。七年間、罪悪感と共に生きてきた証拠だった。
だが、それでも変わらない事実がある。
「お前は、そこにいた」
俺の言葉が、彼女の嗚咽を止めた。
「待って!お願い、話を聞いて!」
リナは必死に手を差し出した。
「あの時の私はまだ十六歳だった!冒険者になったばかりで、『伝説級モンスター討伐』なんて、まるでお祭りみたいに聞こえてた!」
「関係ない」
「先輩たちに誘われて、断れなくて……見学するだけって言われて!」
「関係ない」
「実際に戦ったのは他の人たちよ!私は後ろにいて、怖くて震えてた!」
「関係ない」
俺の返答は、機械的だった。彼女の弁明は、俺の心に何の波紋も起こさなかった。
「お前の事情など、どうでもいい。お前が何歳だったかも、どんな理由で参加したかも、戦闘に加わったかどうかも」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「重要なのは、たった一つだ」
月明かりが俺の蛇眼を照らし、異様な光が辺りに反射する。
「お前は、そこにいた。母が殺されるのを、その目で見ていた。仲間たちが歓声を上げるのを、その耳で聞いていた」
リナの顔が絶望に歪む。
「見ていただけなの……」
「そうだ。見ていただけだった」
俺の声に、氷のような冷たさが込められた。
「何もしないで見ていること。それがお前の罪だ」
「違う……私は、あの後すぐに冒険者をやめたの!罪悪感で夜も眠れなくて……」
「だから何だ?」
「七年間、贖罪のつもりで人を助けてきた!子供たちを治療して、老人の世話をして……」
「それは、お前の自己満足だ」
俺の言葉が、彼女の最後の希望を粉砕した。
「お前がどれだけ良い人間になろうと、母は生き返らない。お前がどれだけ人を助けようと、母の苦痛は癒されない」
リナは泣きながら首を振った。
「そんな……そんなことない。人は変われる。罪を償える……」
「償い?」
俺は笑った。それは、人間らしい感情の欠片もない、空虚な笑い声だった。
「お前は七年間、快適に生きてきた。街の人々に愛され、感謝され、必要とされて。それが償いか?」
「私は……私は……」
「母は、毎日苦痛を味わいながら死んでいった。お前たちに八つ裂きにされながら、俺の名前を呼び続けて死んだ」
俺の蛇眼が強く光り始めた。
「比較してみろ。お前の七年間の『償い』と、母の死の苦痛を」
リナは言葉を失った。
「どちらが重い?どちらが辛い?」
沈黙が降りた。砂漠の夜風だけが、二人の間を吹き抜けていく。
やがて、リナは小さく呟いた。
「私を殺しても……あの人は帰ってこない」
「知っている」
「じゃあ、なぜ……」
「復讐に理由は要らない」
俺は彼女を見下ろした。
「お前たちは、母を殺した。俺は、お前たちを殺す。それだけだ」
蛇眼の光が最大になる。リナは悲鳴を上げて立ち上がろうとしたが、既に遅かった。
その瞬間、俺の脳裏に母の声が響いた。
『ソレン。復讐は、あなた自身を殺してしまうのよ』
優しい警告だった。母がいつも俺に説いていた、慈悲の教えだった。
俺の手が、一瞬だけ震えた。
石化の呪いが彼女の体を蝕み始める。
「いや……いやあああああ!」
彼女の悲鳴が夜空に響いた。しかし、その声は徐々に変質していく。喉が、声帯が、肺が、内側から石に変わっていく。
リナは自分の体に起こっている異変を理解し、絶望に支配された。彼女は俺に向かって手を伸ばしたが、その指先も既に石になり始めていた。
『許すことを覚えなさい、ソレン』
母の声が、再び俺の心に響く。
俺は、瞬きもせずにその光景を見つめ続けた。だが、その表情には微かな苦痛が浮かんでいた。まるで、石化させているのが彼女ではなく、俺自身であるかのように。
彼女が完全に動かなくなるまで、約三分間。
石化が完了した瞬間、俺の頭に激しい痛みが走った。蛇眼から血の涙が一筋、頬を伝って流れ落ちる。
母の瞳を使うたびに、母の絶望と憎しみが俺の魂に流れ込んでくる。この力を使い続ければ、いずれ俺は俺でなくなるだろう。
それでも構わない。
月明かりの下に、恐怖に歪んだ表情のまま石化した女性の像が残された。頬には涙の跡が残り、手は助けを求めるように空に向かって伸ばされていた。
俺は石像に背を向けた。
「一人目」
呟いた瞬間、俺の右手首に痛みが走った。見ると、蛇の鱗のような痣が浮かび上がっている。それは一本の線を形成し、東の方角──王都の方向を指し示していた。
痣から伝わってくる感覚によって、俺は次の標的のおおよその位置を知ることができた。王都、冒険者ギルド本部の近く。距離は約三日の行程。
二人目は、そこにいる。
俺の脳裏に、母の声が蘇った。
『ソレン。誰かを許せない時、それはね、自分を許せない時なのよ』
優しい声だった。母はいつも、俺の怒りを鎮めようとしてくれた。復讐という感情の虚しさを説いてくれた。
だが、今の俺にはその声も届かない。
許すことも、許されることも、俺には必要ない。
この呪われた輪廻を断ち切るために、俺は全ての憎しみを背負う。母の憎しみも、俺自身の憎しみも、これから生まれるであろう全ての憎しみも。
俺が最後の復讐者となり、この連鎖を俺の代で終わらせる。
俺は砂漠の夜道を歩き始めた。石化したリナを背後に残し、次の標的に向かって。
足音だけが、静寂を破っていた。血の涙の跡は既に乾いているが、頭痛はまだ続いている。
翌朝、街の人々がリナの失踪に気づくだろう。彼らは心配し、捜索するだろう。しかし、涸れ井戸の石像を見つけた時、果たして彼らはそれがリナだと気づくだろうか。
関係ない。
俺には関係のない話だった。
東の地平線が白み始めた頃、俺は隊商宿に戻り、王都への旅支度を整えた。
復讐は、まだ始まったばかりだった。
十二人の冒険者のうち、十一人がまだ生きている。
俺の手首に刻まれた呪いの羅針盤が、その全てを俺に教えてくれる。
一人ずつ、確実に。
母の仇を取るまで、俺の旅は終わらない。
部屋の窓から、砂漠の向こうに王都の方角を見つめながら、俺は静かに誓った。
次は誰だ?
俺の左目の蛇瞳が、期待に満ちて光っていた。しかし、その光の奥には、消えない痛みが宿っている。
復讐を続ける限り、この痛みも俺と共にある。
それでも俺は歩き続ける。
この呪われた血の輪廻を、俺の手で終わらせるために。