#08 手に余る夢
歩みだす彼女に、雨脚は伴うように早めていく。
感概に浸ひたれるのものだと、彼女は思っていた。
旅路の果てを渡り抜いたのだから、何か、込み上げる何かが。
身体中泣き出したかのように雨粒を落し込んでいくのに、なぜだかいまや涙すらも流れない。
行く先々に絡む草木は重く、草結びの枷が纏わるたび、先へ向かうその一歩が、酷く気を滅入らせる。
咎められたかのような妙な疎外感、閉塞感。
視界を溶かす雨、鬱とした帰路。
阻むすべてが意識を遠のかせ、つらく瞼が落ちる。
心馳せた母の姿。
その顔を思だしたいと、切に願った。
これが最期になるのだから、別れを今ここで。
瞼に浮かぶ母の相貌は、どこかそっぽを向いたまま自身を見ようとはせず、憂いをおびた横顔を、立ち尽くす彼女に晒すのみであった。
あぐね果て、傷つけ、限りの残忍を尽くした。
だから許してはくれないのだろうか。
それがあなたの為だったと言えたのに。
あなたが許さなくとも、それこそが貴女の為になると胸を張って言えたのに。
お願いだから見せて欲しい。最期なのだから。
笑みを見せて欲しい。心に落ちるから。
乞いながら幻想へ伸ばす。
佇む母を迎え入れるため。
はやくこちらへきてほしいと。
はやく歩み寄ってほしいと。
幻想を自身に振り向かせるため。
すべてを報いてもらうため。
そうしてその胸に抱かれるため。
そして、これからも救われることのないあなたに許してもらうために。
引き寄せた。
抱き寄せた母。
それは知らない母だった。
嘆なげく横顔に隠されたすべて。
幻影の片側は、崩れ果てる。
母の保つ相貌は、彼女がまみえた片割れだけ。
それこそが母のすべてであるかのように、その先に残されていたものは、潰れひしゃげる誰かの頭。
母の片側に知れない顔。
それこそが一つの形であるかのように、その痛ましい姿は歪そのもの。
怪奇の面が織りなす嘆きの正体。
報われることのない苛烈な幻。
それはひとえに、縋る彼女の心を砕いた。
否応がなしに瞼が開く。
それはまわり廻まわった応報。
望まぬ情景を吐き出すため瞳が見開き、刷り込まれた幻想が消え去ることだけ願って目を掻き乱す。
滲む瞳は赤く染まり、視野の世界は催しを変えながらより濃い色彩へと様変わる。
悲鳴、恐慌。
物狂いに堕ちた彼女の喚わめきは留まらず、頭まで溶けていくようなその酷い鈍痛と共に、狂気のるつぼへと拍車をかける。
目からこぼれ落ちた血流が垂れ下がり、有り余る涙が口腔へと呑ませると、途端気管に詰まりを起こした彼女が膝を折る。
嗚咽まじりのかっ血を噴き出す彼女も、地面に並々ならぬ吐血を注ぎ込み、自らの苦しみを分かつ、怪物と同じ立派な湖面を作り上げた。
今度はなされる側に回った彼女を煽るよう、撒いたしぶきが豪奢に跳ね飛び、胸を叩いた瞬間何かがそこでこぼれ落ちた。
それは優雅に空を泳ぎ、着水を期に、浅ましくのたうち回る。
彼女のものだった。
それは白く、なによりきれいで。
ほのかにあたたかい、ただひたすらに求めたものだった。
それが目の前で血を吸い悦こんでいた。
そのものの正体がわかったとたんに夢中で腕を突き出したが、力強く跳ねてははらりと湖面に落ちていく。
もう何ものも考えられない頭で盲目もうもくに腕を振るうも、湖面がうれしがるよう跳ねるだけ。
噛み合わない歯の根で何度誰かに助けを求めても、もう微かに触れることさえ叶わなかった。
だが、助力を乞う声こそ無駄にはならない。
脚を縛る草木がたわわみ外れ、枷が駆けながら去るのだから。
そうして吐血に居ついた白草へと草木が寄り添い、そのぬくもりをうらやむよう、ひきちぎる。
頭が惨劇に追いつかず、叫喚を幾度連ねようともやまず止まらず、僅わずかな熱を求める手すらも木々の間へかすめとられていく。
群像の渦中で裂かれた薬草は、こまねく間も草木の間に群がられ、静かに溺れ落ちていく。
有象無象がたかる中心
それは想いが食い入る程に絡みつき、戻らぬものだと遠ざかる。
現実と徐々に乖離していく意識のなか、彼女の瞳はただそのぬくもりに追いすがる。
遥か彼方へ逃避していく頭中とは裏腹に、なおも瞳は映る光景を離さない。
それは沈みゆく白草が、過ぎ去りし日々と重なるようで、瞳を逸らすこともできず、重苦な想いであっても求めずにはいられない。
ついぞ叶わぬ夢が、脳を焼きはじめていた。
願う情景は皆が望んだ幸福があったから。
身を砕き、想いをくべてなお、手繰り寄せたいと願うほどの幸福が。
だからどれだけ惨い末路を辿ろうと、遂げ得た夢に抱かれていれば不安ない。
されど夢に消えたままでは眠ることさえままならない。
だからだろうか、この瞳は最期までも見とどけた。
ぬくもりを忘れぬため。
焦がれた夢想で瞼を焼きながら、この先ない幸福を求め、永劫に追求できるように。