#07 指切り
種火にまで堕ちた小さな灯りが揺らさざめく。
亀裂を作る、腰に下げたひびの提灯がさる一幕を描きだす。
それは悪魔の絵。
刃握る、とも知れぬ小さく赤い悪魔の絵。
赤錆で張り付く髪から覗くその瞳は地を巡り、そのままに横たわる、凄惨などこか誰かの腕へとたどり着く。
血の棒というに他ならない、肉も削がれた骨組み。
目新しさのないそれをなぞりきり、行き着く果てに落ちていたのは、撒き餌のように散らした肉の残骸。
真っ赤な湖の上に漂う、その肉肉しい根幹へ歩み寄るのは、笑みを上げる悪魔の稚児。
自らが肘鉄で砕いた、丹精のこめた自前の挽き肉が崩れ伏す。
そんな肉の頭部にへばる、浸された毛の先一本一本を丁寧に掬い集め、手のうちで固く握ると、その悪魔子、その“彼女”は、うってかわる勢いで持ち上げる。
まき上げた毛髪を彼女の目線高くにまで掲げ、膨大な血潮が掃けるのを待つ。
滝のような流血が爆ぜ、晴れた濁流の中から見出したのは、ひしゃげた面相を曝す真っ赤な自分のそら似。
肉と皮が混濁し、全面一色の相貌。
背にくってきた面影などない、自身を見繕ったその醜怪。
収めるものはとうに無くし、空虚な洞穴を開けた眼窩が、暗闇でその身を埋める地獄絵図。
眼の穴に吸い寄せられていくそよ風を慈しみ、舞い込むその風穴に手をかざすと、そっと、彼女は人差し指をねじり込む。
唐突に行われる奇行。
刺した指先を弄び、粘液入り乱れる空洞へ再三渡って掻き乱した後、今度は関心深げに指を引き抜く。
線状のアーチを作る血糊が垂れさがり、糸を引く血涙が指を洗う。
五指のすべてが赤錆にまみれる中、唯一血涙で塗り直した真新しいネイルを振り、舞台まばらにばら撒くと、次なる行き先へと、文字通りの指針を立てる。
その先へと。
伸びた指の針が暗き眼窩を通り過ぎ、液滴る大口へと迫る。
開いたままに唾を垂れ流す、塞がらない掃け口。
閉口なき門戸に爪先を向け、着々と近づける。
凪ぐ心音と裏腹に、抑えきれない好奇は、一歩、また一歩ととまらない。
吐息一つこの指ならばかかる距離。
犬歯のふちまでうかがえる、そんな近しい所にまで漕ぎ着けた彼女は、その限界まで詰めた距離を、なぜだか一息で引き戻す。
引いた爪先は返ってくる。
そう思えた。
だが返らない。
見れば彼女の爪のふちは、真っ赤な前歯がかけられていた。
返るはずなどなかった。
それはもう、喰らわれた後なのだから。
爪をしゃぶる、赤らかな歯の根が震えだす。
千切った爪先を咥え、漏れ出た血液を飲み下し、なおもこの醜怪は彼女にねだる。
根こそぎよこせと。
開く。
閉ざされていた両歯が液を滴らせ、指の付け根目掛けて喰らいゆく。
飛び掛かる屍が視野を埋め、目いっぱいに突き出された頭蓋に目を奪われると、瞬く内に歯牙は下ろされた。
甲高い確かな閉口音が鳴り響き、その次の間には鮮血が伝う。
流血を渇望した怪物。
それがいまや溢れ出すほど血を余し、なし得た報奨の血を飲み干すことなく口内へと溜め込む。
あぶれたものが地中で爆ぜ、血で血が交ざる水面がうみだされるも、降る球は矢次に沈みこんでは同所を揺らす。
湖面にさす雨のよう
やがて四散していく血と、それをさらう醜悪なたまり場。
注がれ、ただ足元で這い寄る血だまりを見つめながら、何処か遠くで馳せるよう、漠然とそう思うのだった。
彼女は。
そうして。
そうして彼女に縋りつく怪物は、彼女の手の内から投げ出された。
#
仰ぎ見上げ血に沈む。
何物も見ることすら出来ないその洞穴で、ただ黒雲を、その雨雲を観ていた。
暗雲はいまだ皮紙を濡らしたかのように鈍色で、なにをするでもなく、ただの中空を彷徨い続けた。
そこへ、針に穿たれたかかのような小さな裂け目。
淀む雨雲の千切れから僅かな隙間が生みだされ、そこへ佇むものたちに光明の光と、一粒の雫を振り落とす。
長き渡る夜を共に過ごした少女達にも告げるよう垣間見せた日の出の光。
ただうつろう鈍の虚から漏れた安らぎ。
そうして僅かに魅せた希望をまた、暗雲でひた隠す。
命運重くのしかかる彼女を残し、日の出は還らない。
もう姿を現すことはのぞめない。
ここに暗雲が大粒の涙を流しはじめたのだから。
#
日夜漂う雨雲は、しかし数舜で斜光を遮り、いままさに粒を落とし込む。
紅血を拭い去る大雨で、全てを洗い晒すために浴びせ掛けた。
降り積もった雨が押し寄せ、乾いた血を流していく。
したたる大雨は下り、血と水で満ちた怪物の口腔はすでに底見えぬ水中へと転じた。
何をするでもなくそれを覗き見る彼女は、自身の生き血が混じり合い、その口の中で色あせていく様を、ずっと眺めていた。
血と涙。
雨粒が入り混じる怪奇な水玉がまた一つ落ちていく。
すると彼女は、その水玉に導かれるよう、先のない口腔へと手を伸ばす。
指先が泳ぐ先。漂う水溜めに引っかかりがある。
潜むそれを抜くためだけに死に絶えた怪物を踏みつけ、力みやすいよう足で押さえつける。
すると淀の中で手を握り、その次の瞬間には傷口が滲みだすも、残る余力で引き抜く。
濁りが最高潮に満ちた水中からごぽりとこもった水音が鳴ると、彼女の手に収まる、尖った刃が引き上げられた。
彼女の怨嗟と哀情が織り交ぜられた、赤い、醜悪な刃だった。
彼女そのものを喰らおうとした人の怪。
それに被せるように差し込められたその石刃。
指の肉で釣り、襲い狂う怪物の勢いを合わせ乗せたその一刺しは、怪物の頭部を穿ち、貫いた。
深く突き刺さる凶刃が外れ、怪物の後頭骨から混じり合う雨水と血液が引いていく。
後頭部の栓も抜け、口腔へ積もるみな底も消え失せ、もう見るものはないと背を向けて歩き出す彼女は、最後にこの人の怪を見捨てると、もう溺れることはないよねと、そうひとりでに呟くのであった。