#05 切願
浮き上がった人面は彼女の顔だった。
木彫りで形作ったその顔は実に精緻で、ともすれば自分そのもののよう。
いつのまにか出来上がった木の彫像。
それだけでも不気味極まりないというのに、それすらも凌駕する世界がそこにはあった。
彫刻が泣いているのだ。鼻声をあげて、真っ赤な涙を流して。
流す赤水は像を濡らし、まだらに垂れた雫が像の唇を塗る。
頬を伝うその涙。
それはどこまでも赤く、食い入る彼女までも赤く染め上げていくようだった。
こぼれ落ちた雫が痛いほど耳を打つ。
おののく彼女をよそに、像を伝い落ちる水滴は、いつまでも鼓膜を蝕み続ける。
大粒の涙がまたひとつと伸びていく。
それは深紅の塊となり、顎先からぼとりと大きく地へ投げうった。
それが合図だった。
四肢を地べたに這わせ、悪夢から背けるよう体裁なく逃げ出す。
しげる草木を無造作に握り、ただ距離を稼ぐためだけに何本もの緑を千切りながら逃げ惑う。
やだやだやだやだ。目に涙を滲ませ、うわ言のように呟くその姿にもはや理性は残されてはいなかった。
恐怖で指が食い込み、爪で裂けた手の平を真っ赤に塗り潰しながら、枯れた落枝をつがえてからがら立ち上がる。
次に起こりゆく光景など一縷たりとも見たくはなかった。
気力すらも畏怖が捻じ曲げ、萎縮しきった肉体をも騙くらかし、固くなった両足が、一目散に駆けようとしたところでつんのめる。
ゴトリと重い音を鳴らし、もつれるようにあおい草木の上へと倒れ込む。
しかしそれもつかの間、そんなことすらお構いなしに後方へと顔を向ける。
人ひとり倒れた音ではなかった。
それに直前、足元でなにか引っかけたのだ。
草木を押し潰し、本草の上にくっきりとした一人分の子供の跡を残した。
だがどうしてだかもう一つ、自分とは別の、とても大きなくぼみがあることに気が付いた。
草むらをかき分ける音がする。
なんとか仰向けに体勢を傾けるも、体が震えてそれ以上のことが続かない。
なにかが、引きずる音を立てて迫っている。
焦燥で判断が狂い、血と汗が入り混じった手の平を幾度とついてはからまわる。
枯草を自らの手で赤黒く掻き濡らす間、目には明々と輝く、小さな灯りが憎らしくみえていた。
都度助けられてきたその灯り、だが放つその光に今、吸い寄せられてきている。
取捨を迫るよう煌めく篝火が牙をむく。
利害を天秤に掛け、火を消すか、どうするべきかの問いを繰り返すうちに、肉体が咄嗟に突き動かされた。
光が漏れ出ぬよう身体をよじり、口に溢れた嗚咽を嚙み殺す。
身を隠すともいえない些細な行い。
それが為しえた回答ともいえた。
彼女の選択。
だがその解はなんであれ、どれでいたってよかったのだといまに悟る。
『それ』はなにをしても、迷いも、澱みもなく、ただまっすぐにこちらへ向かって来たのだから。
足先にかかる茂みがたゆたむ。
隔てていた植物が水気に蒸れ、濡れた錆の気を漂わせながら、むせ返る濃厚な死臭を運び込む。
鼻につく強烈な匂いに気を取られ、目を泳がせた瞬間、傍らの草むらが避けたかと思うと、臙脂色ともいえない、赤銅色の塊が這い出して来る。
体液で体表すら見えない体躯に、か細く伸びた取手のような前足。
たどたどしく向けられた高枝のような腕が、悲鳴すら上げられない彼女の胴体を伝い上がると、四肢を絡めとるように濡れ動く。
べったりと拭うことのできない赤銅を塗り付けながら、くみし抱くよう覆いかぶさってくる。
顔を突きつけ合うように肉薄させ、顔色を窺いながら彼女の表面を覗く怪物。
おそらく顔であろう部位。
そこから絶え間なく垂れ下がった体液がなだれ込み、汁を降り注ぐと、下敷きにした真っ新なもう一つの顔を赤く洗った。
瞼をつむり、落ちてくる流水をただ受けいれる。
こぼれた液が自身の唇を塗り、口内へと落ちた雫が感じたくもない味覚を揺れうごかす。
血、血。
赤錆のなりと同じ、寸分違わなぬ結論に何故だかいやに心が落ちると、絶念によりここから逃げ出す気などどこかに失せていった。
目を閉じ、諦観に浸る間も、跨る怪物は何かを求めるように頭を巡らす。
くぐもったうめきをあげ、左右に小刻みに揺れるその血塊は、やがて堪えかねたよう、動かぬ彼女を見据えこう尋ねた。
もう、いい、よね
がん、ばったからもういいでしょ
拙い問いを繰り返す。
問いをなげかける度に自らの手首を絞め上げてくるそれに、成すがままにもて遊ばれる。
問答すら成立しない人形遊び。
声音をあてがいながら質問を重ねる怪物と、ただ成行きに身をゆだね時を重ねる彼女。
いたずらに時が刻まれ、無為な投げ掛けが積み重なっていくも、その終わりは唐突に、予兆なく訪れた。
がんばった、よ
がんばった、から、
もういいでしょ?
もう、いいでしょ?
死んで
おかあさん
芯が凍るようだった。
その最後のつぶやきは、いままでのどの独白とも違う、押し迫った強い何かを感じさせた。
しかしその事実に、彼女は気づくことさえできなかった。
その瞬間、畏怖を祓う程の激情が、彼女を蝕んだのだから。
赤銅色を浴びせ続けられた彼女自身。
その彼女の手の先指の先。
感覚を手繰るように揺れ動く彼女の手の平は、やがて荒ぶる血流をせき止めながら、確かに握り締められていく。
壊死するのではないかと思われるほどの握りしめられた拳は、ほんの少し宙へと浮き上がると、その勢いのまま、くみし抱いてくる怪物の顔へとぶち当てる。
掴まれた腕ごと振りぬいた殴打は、速度こそふるわなかったものの、怪物の頭を打ち抜き、揺さぶるには十分なものだった。
僅かに宙にのけぞった怪物は、予想に反して身体は軽く、濡れた頭が空を見上げて血しぶきをまき散らす。
死に物狂いで攻勢にでた彼女は、半ば不意を討つ形で拘束を逃れると、いまだ空を仰いだまま反応を示さない、おぞましい化け物を置いて走り去る。
今度は迷いなく駆け出すことができた。
下げる灯りから遠のき、おぼろ気になっていく怪物の後ろ姿を見つめながら、足はかつてないほど体を送り出す。
暗がりが、赤錆の『それ』をおぼろでかすめて呑みこむ間際。
その形象は去る者を追うでもなく、何故だか彼女が怯え苦しんだ、暗い草むらの中にあった。
草木に全身を擦り付け、一心不乱に枯葉を集めては頭を埋ずめていた。
快楽に溺れたように液をまき散らすその無残な姿は、知恵ある者としての、生物としての誇りなど微塵もなかった。
その光景から目を背けた瞬間、闇がそのすべてを覆い隠すと、狂騒全てをうやむやにし、素知らぬ顔を決め込む、いつもの木々群が彼女を迎えいれた。
道化と呼ぶにふさわしい面持ちならない木々の群れ。
しかし立ち並ぶ彼らがいくら賑わいを見せようと、彼女の心に付け入る隙などありはしなかった。
今彼女を占めるものはなんびとも代えがたい怒り。
飽くなきことのない、許さざる怨嗟のみであったのだから。
置いてきた暗闇から独りでに嘆きが漏れる。
どうして?
どうして
おいていくの