#10 青火
気づくことすらできなかった。
その目路で彼等の来歴辿るにはとうに度量をこえていた。
範疇を超えた心に細心の意などありはしない。
弱りきる情緒はただ押し寄せる死地の闇へと目をやるのみ。
だからこそ気づかなかった。
この体に身に付いてきた心臓が、心室を突き破られ、白色の手に握り締められていたことに。
肉を貫かれ抜かれ、冥府へ突き出された自らの心臓はなんとも映えた。
暗色などもろともしない紅の臓物。
いつの日も拝むことはないと自分に言い聞かせ、幾ばくかの戦いへ赴いた。
今回もそのつもりだった。
だが、それを言い聞かせてきたこの肉体から、まさかその身姿を拝むことになろうとは。
背後を許し、またたく内に心臓をくり抜かれた彼女は、打ち捨てられたかのように吹きだまりに堕ちていく。
最期、振るうことを許されなかった刃を眺め、ただ硬く閉じられていく手の平で御守りように扱われる石ころを看取りながら、張り詰められた心もまた錆び堕ちていった。
その間にも心臓を抜き取った子供は天に召し使われるように中空へ上り、まだ熱を帯びた彼女の心臓を世界へ結び付けると、視界の彼方より掻き消えていく。
心身は凍り、おぞましい血の海へ沈み込む中、倒れた体が下敷きにした大小豊かな草木群像が空洞の空席に座すようにこの身に蠢き潜り込む。
そうして彼女の穴を濡れた草の集合で埋め、仄かな手を招き入れるかのように這い出す草木が天を目指す。
人形の綿を詰めたかのような一連の流れに、自嘲めいた笑みが漏れると、彼女の視界は一層落ちていく。
おぼろに霞む視界の中、仄かな白色が目の前を泳ぐと、召し上げられたかのように自身が空高く目指すように浮かんでいく。
僅かな浮遊感が最期の絶望に彩られ、自らの澄ました頬がこわばっていく様がよく感じられた。
世界から掻き消される段取りの間、四方ふしぶしから人々のうめきが幾重もの怨言へと変ずるも、夢見心地の彼女には歓待のお呼び立てにしか聞こえなかった。
そして合唱に等しい悪口雑言がフロアで蔓延していくも、彼等の頭上高くへ召し上げられた彼女にその言霊が胸を打つことはなかった。
彼等をとうに越え、天井へと召し使わされた彼女。
そうして、夢を抱いた夢見がちな彼女は世界のすべてより掻き消えた。
天の先に手繰られた彼女は、この短い時を共にした仄かな手と別れ、一対の両腕へと移譲される。
それは子供の手よりも僅かに大きく遥かに温かい、大人の手の平。
彼女の意思とは裏腹に、白色の冷手より委ねられたこの肉体が、新たな所有者の手にゆだねられると、温かなぬくもりでからめとられた。
こびりつく零度のような死がもうじきだというのに、この包み込むぬくもりは慈悲深く、苛まれる彼女をいたわるように手繰り寄せていく。
そうして主の胸の内に納まると、同性の身体、柔らかい肉質に何故だかいやに安心感が満ちていく。
異性どころか、そう、母親意外に抱きしめられた経験などなかったというのに妙に心地いい。
まるでここが安息の場だと信じてやまない程に体が錯覚し、とても、とても居心地がよかった。
最期にその姿を見てみたくなった。
灰色の視界で、今にも落ちようとする瞳孔の中にとどめてやろうと。
そして、彼女の瞳の中に、自らの心を砕いたあの母と対面した。
覚悟はできていた、だがやはりこうして対面すればこそ腑に落ちない。
にじり寄る死の感触を彼女の形容し難い負の感情が堰き止めていた。
初めから、殺すと決めていたのなら、すべてを諦めたあの時に始末してくれていたなら、何一つとして感情など持ち合わすこともなかったものを。
だがまたもこうして踏みにじり、死の瀬戸際まで人を急き立て食い物にするのは合理に反するのではないのか。
自然の摂理ではなく、人を弄び殺すことに対するその執着は自然の生き物の所業などではないのではないか。
善事を害し、人を惑わし喰らい尽くすのであればそれは魔の所業。
だが初めから魔と対峙する覚悟はあった、それ以上に彼女の胸につかえるのは。
そう自らの中で乱雑整理していく間、自分自身の口元が硬く閉ざされていく。
そうした死と負がせめぎ合う、死のふちに立つものへの形相を向けられる仮初の母親は、抱いた腕の片側を解き、彼女の相貌へと手を伸ばす。
触れられたくはない。そう想いが募る程に身体はひりつき負の念が蓄積されていく。
伸ばされたそのほがらかな指先が、自らの目に定められる。
もう何物も見る必要ようはないと迫りくる魔の手に瞼を閉じ、最後の生で抗い示す。
ひりつく死よりも、このおぞましい安堵のぬくもりに心身を預けているというその事実に、青ざめる肉体とは裏腹に脳は追いきれぬほどの情緒の渦で煮えたぎる。
そうしている間にも、辿り着いた指先が彼女の瞼に手を掛け、強引にこじ開けていく。
目が笑う、心底嬉しそうな顔が視野のすべてを覆いつくしていた。
人の心情を推し量りながら、すべてを巧妙に踏み壊し、人の顔色を窺うその悪意。
人の情調をくみ取りながら行われるその所業は、それは魔のものより遥かに人の生態を知り尽くした同族の手管。
まるで人そのもの。
魔と人の悪意が入り混じり、悪意の範疇を超えた魔と人間の悪意。
魔人と呼ばれたもの、それそのものではないのか。
伝承にうたわれる人類の害。
そんなものに安息を覚えた自分が酷く憎くてたまらない。
弄び、想いを砕いた相手が目の前で嗤っているのに、動くことすらままならない。
やるせない思いと自分自身に募る憤りが消化しきれず表情の筋が痙攣する。
もう見たくないと願う彼女にリンクしたかのように、動き出した魔の手は、最後に彼女の眼球に手をかざす。
そうしてゆっくりと、丁寧に、彼女の目を剥がす仕草で指先が手を掛けた。
これ以上、私に触るな。
その緩慢たる動作で、その静かな憤りと、猛る最後の意志を錆びれる刃を通して突き立てた。
行き場のない負の感情が、青き火と化し、魔人の胸で花開く。
人ならざる叫喚が大樹すべてへ鳴り響き、木霊するように地響きが落ちる。
相手の胸を刺した刃からは青い血流が流れては、そのたびに胎動し、敵と見定めたものに血濡れた全てを注ぎ込む。
刃を握る手の先指の先は、握りしめた手の平で刃が裂き続け、滴る血が絶え間なく流れ込んでは矛に心血をつぎ込み続ける。
負の全てを代弁するように燃え盛った火はうねりをまし、彼女の願う、視界から消し去ること成就させるべく爆ぜていく。
狂い火に力を注ぎこむべく、刃を少しずつ、だが確実に押しこめていく。
刃が魔人へと沈むこむたび、叫声、笑声、涙声、この世すべての絶叫が鼓膜すべてに集約し、弾ける音響と共にどこか彼方へと音を置き去りにする。
雑音はとうに消え失せ何も聞こえない。焦がす灼熱に血生臭い臭気は焼き切れ、熱波の瘴気で鼻も利かない。もはやもう自らに掛かるすべての雑は取り除かれた。
後はただ、この魔が苦しみ果てるのをこの目で拝むのみ。
死と隣り合わせのこの状況こそが理想とばかりに興が乗り、命燃え尽きるまでこの姿を拝んでやろうとする気概すら沸いてくる。
この身を朽ちることを望むかのように、彼女の負と狂気に後押しされる肉体は、穿たれた胸の内からも燃え盛り、全身纏いてただひたすらに火にまみれる。
狂い火でもがき苦しむ姿が業火越しにもよく映る。
この形象が救い求めるように、彼女の身体に縋りつく。
両腕を固く組み、慈悲願うその姿に何かを残してやる気にも起こらない。
そのまま私と共に地獄へと堕ちて行け。
この哀れな姿を前に強く刃を押し込み注ぎ火で燃やし尽くすと、その前に、自分たちが吊り上げられていた天蓋が焼き切れた。
縋りつく魔の手に抱かれながら、風切りながら墜ちていく。
落ちていく最中。様々な最期を見届けることができた。
怨唱奏でた人々は焼き切れ、皆何かを呟いては束縛から解かれ、掻き消えていく。
仄かな白光を放つ魑魅たちは、この広大な酒造庫が蒸発するごとに、悶え苦しみ搔き消えていく。
見れば吊り下げられた我が心臓が火を纏い、伝う貰い火が根を逐一焼いては、張り巡らされ呪縛の巣を解き放っている。
息吹く心臓の光炎が辺り一面を焼き払った。
彼女の意思と肉体がすべてを無へ誘った。
目に映る全てを呑み。
そうして取り残された二人は煮え立つ血の海に落ちる。
火で湯だつ、あぶく海の上に漂う二人。
かばうように下敷きになった魔人は、溶けていく本体をものともせず、ただひたすらに彼女を抱いていた。
火は弱まりこそすれ、痛みこそあるだろう。
それを乗り越えたこの魔人は何をするでもなくただ焼き切れそうな両腕で彼女を撫いでいた。
歌うように、静かに口ずさむ口の動きは敵意もなく、二人しかいなくなった世界を憂うようにまだ歌う。
二人だけの世界。
あと一歩踏み出せば、この世界が彼女だけのものになる。
何も迷うことなどない。
そう急き立てる本能の声に従えば今すぐ心が晴れるというのに、あと一歩踏ん切りがつかない。
一人になることが怖いのか。それとも無抵抗の生命に対してとどめを刺すことに胸躍らせる本能が怖いのか。
幼いながらにもうわかっていた。超越した肉体そのものよりも、自身の開花した本性こそが世界の外では異端なのだと。
弱弱しくからめとられていた腕を払い、今にもこと切れそうな生命と対峙する。
口ずさむ歌を止め、何かを伝えようと文言を絞りだす最期のさざめき。
もはや鼓膜は爆ぜ、聞き取ることなどできようもない彼女に紡がれるその声に、傾ける選択はとうに持ち合わせてはいなかった。
最期に焼き崩れる腕を伸ばし、自らの頬にまた優しく撫でようとする姿は彼女の心を揺り動かすには十分だった。
伸びてくる腕より高く、自らの頭上より振り下ろし、一息に裂いていた。
薪を叩き切るように荒々しく、鋭く穿たれた切っ先は熱の海を貫き大地の肌へと突き刺していた。
そうして間を置かずして、穿たれた刃が熱を纏い、海を払い、地表全てを焼き払う。
消し炭へと至る生命にとってこの火は救いとなるのか、それとも。
そうして自らの手により掻き消えそうな生命の耳元で、弔いともいえぬ言葉を紡ぐ。
安心して、私が地獄へ行くまで待っていて。
そう言い残すと彼女は歩み出す。
絶え絶えの足で、これから返り咲く、異端を拒み人が育む世界へと対峙するために。




