(六)また、今度こそは
生い茂った草に、足を取られる。虫が肌に纏わりつき、触感を刺激され続け、多大な不快感を得る。
獣道かのように踏み荒らされた道だけが人間の使っている道で、街灯もない田舎は暗いものの、無数の星が綺麗に輝いていた。普段都会に暮らし人工的な光だけを浴びている一同は、恐怖よりもそんな夜空の美しさに心を奪われる。満月は道を充分な光で満たし、足場を見失うこともない。
手入れのされていない田畑は、ただ静かに月光を反射している。
「こんなところに、本当にいるのかな」
鼬凛は村を見渡して、住所を改めて確認する。
無数の家が建ってはいるが、いずれも人の気配はない。夜とは言え、どこかの家で明かりがついていてもいいものが、どこもついていないのだ。一見すると誰も住んでいないように見える、廃墟のような村は、風景が連続的で、段々迷っているような感覚に陥っていく。
「…住所的には、この辺りじゃないか」
キルディは首を傾げ、建物を眺める。木造建築のその家から一切人の気配も感じず、ここに妹がいるという確信が持てない。少々悩んだ末に、庵は二回だけ、ノックをした。音が響く。誰の生活音もせず、ただ自然だけが呼吸していて、一気に不安を誘われた。
「本当にここで合ってるの」
「…おそらくは、そうだと思うわ」
口々に疑問を抱くが、住所を何度確認しても、その一軒家だけが該当した。
しばらくして、庵は扉に手をかける。
「…琳」
呟いて、扉を開く。
白い。
「なっ…!」
颯凜が声を上げた頃にはもう遅い。庵は瞬時に横へ避けたが、遅れて靡いた髪の一部が、切り落とされ空に散った。
目の前には、庵によく似た少女がいる。一切の気配もしなかったのにだ。庵に似た、シルクのような肩までの白髪が揺らぎ、ニヒルに笑っている。整った顔が歪んでいる。そこに浮かべられるのは確かな憎悪、嫌悪、そして嫉妬だった。
「おにいちゃん、また、友達できたんだ。すごいねえ」
手元のナイフを布で磨き、素振りする。よく磨かれた刃は月を反射して眩しい。確かな殺意を感じた。
「待ってたよ、おにいちゃん。それにひま。久しぶり」
「大きく、なったな。琳」
「ああ、本当に久しぶり。何年ぶりかしら」
成人したばかりかする手前か、それくらいに見える少女は、多少なり化粧をしているようだった。八年ぶりに会った妹は、記憶の何倍も大きくなっていて、妙な感覚だった。記憶の中では、ずっと子供だ。彼女は再会するまでの間何をして、何を感じて、何を食べて生きてきたのだろうか。
「おにいちゃんは変わらないね、何も。本当になんにも。友達が多いのも、見た目が綺麗なのも、運動神経が良いのも…私は随分、変わったのよ」
琳の声はしきりに荒くなる。それだけで、つらい生活を送ってきたことが容易に伺えた。
誰も口を開けない重圧が、そこにある。しかし、庵には、陽茉には、救わなければいけない者がいた。
「丞を攫ったんだろ。俺をどうしたっていい。丞だけは解放しろ。無事なんだろうな」
「ああ、もう、そういう高圧的で、傲慢なところも全然変わってない。ねえ、そうでしょう」
苛立ちと呆れを帯びた琳は、陽茉を一瞥する。普段なら怯えて隠れてしまう陽茉も、今回ばかりは堂々と立っていた。庵への否定を、陽茉は決して同意しない。彼女はいつにもなく険しい顔で、しかし複雑そうな表情で、琳を眺めていた。
「貴方のお願いは叶えられないわ。彼にも会わせてあげられない」
そう言ってナイフを懐にしまうと、彼女は哀しげに笑った。
「私達、いい加減片を付けるべきでしょう」
嫌になるほど、『哀』の似合う少女だ。
少女はまた、吐き捨てるように笑う。自棄を感じた。庵の心が酷く痛み、フラッシュバックする。十年も前の両親の態度が、昨日のことのように思い出される。自分に甘く、妹に極端に厳しい彼ら。何度も助けようと思ったけれど、助けられなかった。天使に細工された以外の、数少ない汚点。
嫌なことばかり思い出す。しかし琳にとっては、自分よりも遥かに苦しい体験だ。
布が落ちる。琳が、突如として脱衣する。成熟した、艶のある女体が露わになっていく。庵以外の皆が、驚いて目を逸らし、合わせない。次第に、琳は全て脱ぎ切った。失うものがないと考えていることが解る。庵は一瞬たりとも目を逸らさない。否、逸らせなかった。
「感心だわ、案外、向き合おうという気があるのね」
彼女の体には、無数の傷があった。火傷の痕が濃く残り、痣、自傷の痕。真っ白い肌に、赤茶の傷が無数にあり、それは当時虐待されていたものもあれば、最近作られたものもあるようだった。首から太もも、足の先まであるその傷は、女体の厭らしさを取り払うに足る、グロテスクなものだった。
庵には、自傷経験がある。経験があるからこそに、その体の傷が、いかに苦渋があったのか知らされる。脚の傷は赤く、光を反射していた。深く、深く刃を入れられたそれは、おそらく昨日か、或いは今日に作られた傷だと庵には理解できた。
「…琳、俺にどうしてほしいんだ」
何も言えなかった。過去の傷を癒すことはできない。懺悔など自己満足に過ぎず、被害者の為になるわけでもない。庵には、何もできなかった。救えなかった以上、今更、何も、何もできない。
「そうね。褒めてほしかったと言えばいいかしら」
琳は顎に手を当てて答える。
「見ててね」
それから、ふっと心の底から嬉しそうに笑った。見たことがなかった。こんなにも嬉しそうな、哀しさを感じない笑みを帯びているのは、初めてだった。
彼女は月光を纏う。
肌が、髪が、淡い桃色に変色していくように見えた。一方で、治りかけた傷が開き、血が吹き出て、止まらない。なんともグロテスクで奇妙で、美しいのだろう。傷はじきに固まり、黄に白に、マゼンタにシアンに光り輝く。淡い金色の服が体を包み、彼女は、ヒトを辞めた。
「どうかしら。美しいでしょう、素晴らしいでしょう。これが、救済なの。そう、救済、救済なのよ」
常に笑みを消さない彼女の瞳は、キルディの様に、白目の部分が黄色かった。表情の変動が少なく、貼り付けられた笑顔はまるで仮面だ。救済といった彼女は確かに、救われたのだと信じているようだった。それは確かな信仰である。
「…お前、天使に会ったのか」
「ええ、ええ。そうよ」
琳はまた笑い、唱える。
「救済なのよ、救済。私は、救済を賜ったの」
自分の身体を愛おしそうに眺め、傷を撫でる。艶めかしく妖しい容姿は人外そのもので、神々しさすらも感じられ、確かに、天に手を加えられたものなのだとわかった。
庵にとってコンプレックスであるそれは、琳にとっては、幼い頃から憧れて止まなかった能力だった。見せつけるようにして庵に手を伸ばすと、歪な笑顔を見せる。自慢げに、満足げに、待ち望んでいたものを手に入れた少女は、賞賛だけを求めていた。
「さいあくだよ、琳ちゃん。ぼく…最悪だと思う」
苦虫を嚙み潰したような表情で陽茉が言うと、琳はすかさずナイフを向ける。刃を振った音が鋭く響いた。
「本当に貴女って、いつも期待外れね」
睨みつけあう少女二人の空気は、殺伐としていた。誰も介入できないその空間に、庵だけが割って入る。
「琳、悪いけど、期待には応えられない。俺はその力を、認められない」
「これまでこの力に頼りきって生きてきたくせに」
琳はぐっと拳を握って言う。
一緒に暮らしていたころ、庵は天使の力によって両親に褒められ続けた。琳はずっと嫉妬してきた。それなのに、能力を否定されることなど認められるだろうか。庵が無意識だとしても、能力を濫用していたのは事実だ。琳はただ同じように、褒めてほしいだけなのである。
「私だって、ずっと褒められたかった。だから、やっと手に入れられたのに…それすら否定するの」
段々空が歪んでいく。
快晴に浮かんでいた満月の形が、奇妙に変形していく。琳が力むのと同様に、呼応して蠢いているようだった。
「やっぱり、おにいちゃんなんかいらないわ」
酸素が消える。空気が凍てついた。
琳が行動を始めると同時に、各自戦闘態勢に入る。和解の道はない。戦って、理解させるしかないようだった。
行動は至って単純であった。庵と陽茉だけを狙い続ける。彼女の憎悪と嫌悪は容易に読み取れた。二人以外を視野に入れることすらなく、素早く飛び掛かってくる。
彼らが避けるよりも先に、鼬凛と颯凜は鎌を掲げ、それぞれ攻撃を弾いた。防御は颯凜と鼬凛、攻撃はキルディやヴァレエラ。庵と陽茉は回避に集中して、たまに拳を振るう。しかし、我々が全て完璧に防御するのと同様に、琳もまた、全て回避してみせた。
拮抗状態が続く。互いにただ、体力だけが摩耗されていく。
「姑息…!いつだってお前は、他人に守られてばっかりだ」
琳は歯軋りする。傷が煮立つようにふつふつと音が鳴って膨れ上がり、怒りで眉間に皺が寄った。庵に対して初めて、口を荒くする。
「わかった」
それを見て庵は一歩、前に出た。
「俺一人なら、文句ないだろ」
仲間にさがるように指示して、一人、距離を置いた。陽茉だけがそれに反抗して身を乗り出すが、キルディに肩を掴まれて阻止される。
「本当、自信満々なのね」
少々落ち着いて息をふっと吐いた琳は、ハンカチを投げる。地に落ちたその時、彼らは激しくぶつかりあった。
金属の音が騒がしい。よく似たナイフを構えた二人は、度々体から血を吹き出しながらも、何度も素早く攻撃を続けた。肌に無数の傷ができる。しかし、琳の傷は何度ついても、全て塞がっているように見えた。一切疲弊していない。むしろ、回復しているようにすら見える。
「…おい、あれ。戦っても無駄なんじゃないか」
対して庵は、当然に赤い血を垂れ流している。赤黒く抉られた傷が増えるたびに、庵は消耗されている。庵には、傷を治癒するような能力はない。
庵の全身に傷ができたころ、琳は一度距離を置き、休戦する。
「ねえ、すごいでしょう。私、傷が力になるのよ」
そう言って出来立ての傷を庵に見せた。皮膚がツルのように蠢いて、傷を埋める。今度こそ褒めてもらえるなんて確信をもって笑う。傷が、力になる。つまり、戦っていたのは無駄どころか、状況を悪化させていたのである。勝ち目があるはずがない。庵は肩で息をして、琳の手を弱く握った。
「…なるほどな」
庵は苦笑した。息を切らして笑う。
握った手を自らの首に持っていき、琳の刃先を縫い目にあてる。
「充分わかった。殺せよ、憎いなら。この金の糸を、切ればいい」
「え、嫌…嫌よ、私は、褒めてほしいだけなのよ」
琳が離れようとするのに反して、庵は刃をより首に近づけさせる。あと数ミリで、首が切れる。
天への復讐より先に、庵は、愛おしい家族を、幸せにしたかった。琳は動揺して、ただ離れようと藻掻く。嫌、嫌と弱く呟いて、目を瞑った。小娘は、首を振るう。
そんな状況を彼らが見過ごすはずがない。
「だめよ」
複数のリボンが飛んできて、庵の腕を拘束した。これで自害することはできない。ふっと脱力した琳を、キルディが受け止めて、支えた。
そこに陽茉が走ってくる。
「おい、何を」
琳の顎を掴み、口に指先を向けた。
一滴。
「ィ、痛…痛い…痛い、痛い!痛いよ、痛い、おにいちゃん、助けて、痛い、痛い…おにいちゃん、おにいちゃん…!」
庵に放された琳が、苦痛に暴れだす。体の内部から、グロテスクな音がした。悲鳴に庵ははっとして、琳の身体を抱き上げる。
しばらくして、琳は脱力した。すぐに鼓動を確認するが、異常はないようだった。いつの間にか姿は人間に戻っている。庵が駆けつけて、キルディから琳を受け取る。
「陽茉、おい陽茉。お前、何やった」
妹を抱きしめている庵に代わって、颯凜が問い詰めた。陽茉はただ気まずそうに、笑えないでいる。
「すぐ、すぐ起きるはずだから。大丈夫、だから」
「何をしたかって聞いてんだよ」
拳を上げようとするのを、鼬凛が止める。
「陽茉、教えてくれないかな」
「…嫌、だめ。だめなの…だめだよ」
鼬凛の優しい声に、ぽろぽろと涙が溢れる。陽茉の感情がぐちゃぐちゃになる。庵の危機に焦った陽茉は、琳に、なんらかの雫を飲ませた。
庵は暫くすると、琳を抱き締めているまま、陽茉をも抱き締めた。大切な家族だ。一番感情が混濁しているのは、庵だった。脳が沸騰して意識が飛んでしまいそうなのを必死に繋ぎ止め、二人を強く抱き締める。
「おい、いたぞ」
「この人よね」
そう騒いでいる間に、キルディとヴァレエラが丞を発見する。
縄で簡単に縛られた彼は意識がなかったが、傷も見当たらず、無事でいたようだった。
「とりあえず帰ろう。細かいことは後でいいだろ」
キルディがそう言うと、彼らは同意した。
死神の笛を吹く。すると魂を大量に連れたゴーメットがすぐに現れた。
「お、おお…誰も死なないとは」
少々動揺している様子だったが、彼女は構わずバイクに乗せてくれた。意識のない者、意識がなくなりそうな者を軽くリボンで固定して、今回はゆっくりと走行する。走っているうちに朝が近付いてきて、朝日が眩しかった。その間誰も口を開けず、ただ運転に揺られ、体が上下する。
聞きたいこと、聞かなければならないことがたくさんあった。庵は考え込みながら、煙草を咥える。甘い銘柄の煙草が、いつもよりも、なんとなく苦いような気がした。重たくて、苦い。
ぼんやり考えていると、庵もふらっと意識がなくなる。脱力して飛んでしまいそうな彼を、キルディがすかさず支えてやった。
拠点に到着してからは、ゴーメットやキルディが皆を運んでやった。中々起きないことを確認して、一緒に仮眠をとることとする。
朝日の元、不穏な空気で眠った庵は、どんな夢を見たのだろう。




