(十)診察
恥の多い生涯を送って来ました。
そうオマージュするには、かの有名な彼よりも、男は、幾分も慢心していたかもしれません。学校では何においても負け知らずで、何にも苦戦をしたことがない。「井の中の蛙大海を知らず」とはこのことで、彼は、敗北を知りませんでした。
その日彼は、初めて力で敗北したのです。
柔らかい布団で、目が覚める。
勢いよく起き上がると視界が揺らぎ、強い目眩を覚えた。思えば、生きていることすら奇跡である。ぼんやりした視界と脳で、目立った外傷がないことを確認してからはっとした。颯凜だ。
鼬凛と共に仰向けで眠っている颯凜を、横に倒す。
夢ではなかった。無論、今も夢ではない。
うなじに罰印の傷がある。金色の糸で縫い付けられた傷が、そこにあった。
動揺で呼吸が乱れるのを感じた。白くて細い指先が、震えるのが見えた。
「俺と、同じ」
弱く呟いて、恐ろしくなった。
軽率に天使に挑んだせいだ。仲間が増えたから、陽茉の力を知ったから、仲間への信頼が増したから、結束できたから―――そんな軽率な行動に出てしまった。
颯凜に布団を被せ、自分も布団に戻ろうとする。しかし、鋭い視線を瞬時に感じ、息が止まった。
「そんな、罪悪感に苛まれたような顔をしないで」
彼は一転して微笑んで見せてから、颯凜の頭を撫で、額にキスをした。再び瞳から、光を消す。寂しそうに目を伏せた。
「俺も、動けなかった。俺が守れなかったから。だからさ、そんな顔しないで」
ごめん、と漏れそうになった。急いで口を閉じて、拳を握り締める。
「もう一回、行ってくる」
「…どこに」
「ジーザイルの、ところ。ジーザイルなら、どうにかできるかも」
途中で首が絞まった。目で追えなかった。
素早く起き上がった彼が、庵の細い細い喉を、片手で握り絞めていた。
「最悪、お前を殺す。俺は、俺はそれでしか、自分を許すことができない」
庵は強くまっすぐ、鼬凛を見つめた。咳を飲み込んで、涙が頬を伝うのを感じる。
そっと離されて、鼬凛は倒れ込むように庵を抱き締めた。
「ごめん、ごめんなさい」
抱き締め返してやれなかった腕が、行き場もなく脱力して、床についた。
もうすぐ、日が昇る。
今日ばかりは、少人数で行動しようと思った。
当事者である颯凜と、何かと融通の利くキルディの二人。彼らしか連れてこなかった。
昨日の一件で皆消耗していたし、またジーザイルの元を訪れるリスクを考えたら、少人数の方が都合はよかった。わざわざ全員に颯凜の傷を知らせて、心配をかける必要もない。
「昨日のこと、本当に何にも覚えてないのか」
「そんなこと言われたって、そんな…覚えてねえよ。そもそも別に、何もなかった、だろ」
颯凜は怪訝そうに答え、「なんだよ、その顔…」と不安を唱えた。
どうやら、種を植え付けられて記憶に障害が起きているようだった。颯懍に言わせれば、昨日はいつも通りの平和な一日で、拠点でゆっくりしていたのだとか。無論、そんなはずはないのに。
そのせいかお陰か、颯凜はなぜ聖ヶ谷に訪れているのか、さっぱりわからないようだった。
植え付けられた傷もうなじにあるから、一切の自覚がない。それが残酷で、しかし幸い、不要に恐怖心を煽ることもなかった。
教会は静かだった。薄く開いた扉から柔らかい光が漏れていて、物音もしなかった。
「いないのか?ジーザイルは」
扉をゆっくり押すも、不在のように見えた。
「教会にいなければ…」
昨日の、山上の石碑。
庵はそこまで言わずとも、キルディと目を見合せた。
しかし、また天使と会うかもしれない場所になんて、行けない。行けるはずもなかった。
待つ方がずっと賢明だと彼らは思った。教会の並んでいる長椅子に、静かに腰かける。誰もいのになんだか緊張して、姿勢を正した。
「誰だ!」
颯懍が突如、大きな声を上げる。
「颯懍…?」
「人が、人がいる」
幻覚でも見えたのか、なんて疑ってしまう。ジーザイルの金色の手のように、琳の変態のように、庵の秀才さのように…颯懍には、霊か何かが見えるのか。そう思うほど、何のきっかけもない警戒だった。
そう見えた。
「ふふ」
教会の奥側。柱の裏に、確かに、人がいた。
否、ヒトではない。
羊の角。羊の耳。それを持つ、人型の生物。
「あなたやっぱり、やっぱり人間じゃない。人間じゃないね」
羊は微笑みながら近付いてくる。
教会に似つかわしいシスターの装いをしているその女性は、恐らくジーザイルの仲間だろう。女性はジーザイルによく似た等間隔の歩幅で、ゆっくりと我々に近付いてくる。
「いらっしゃい。神父様なら、今はいらっしゃらないよ」
体を斜めに傾けて、上目遣いで庵の瞳を覗く。
「綺麗、綺麗ね。鮮やかな瞳。素敵だわ」
「お前は…」
「私はメーメよ、アン。それに、ソンリエと…キルディ?」
たどたどしい発音で名前をそれぞれ呼び、メーメと名乗った女は、満足げに笑った。
「わかっていると思うけれど、私はここのシスターのひとり。神父様がいらっしゃらないから、教会のお留守番をしているの」
自分だけが、何も知らない。頼りの兄も、今日はいない。
颯凜は不安に駆られ、淡い敵意をメーメに向けた。
「お前は、お前は一体…」
話に置いていかれているのは可哀想であったが、庵たちにはそれに構う時間がない。
「ご丁寧に助かるが、俺達はジーザイルに用があるんだ」
傷の進行を考えると、早く用を済ませる必要がある。
そう判断した庵とキルディは、急かすようにメーメに聞く。
「神父様なら、山の上に、いるけれど」
口元に指を当て、メーメは薄く笑う。
「行けないよね」
「呼べないか」
すかさずキルディが言うと、メーメはつまらなさそうに服のほこりを払った。
「ここを留守にするわけにはいかないの。お留守番、していなくちゃ」
教会内を歩き回る。ヒールの音が響き、緊張で耳が冷たく感じた。
思考を巡らせる。
ジーザイルを、すぐに呼ぶ方法。
或いは、颯凜の病状を素早く知る方法。
メーメに聞くことも考えた。しかし、何か知っていたとしても、教えてくれそうにはない。ジーザイルの指示なしに、何か行うような人には見えなかった。
「手っ取り早く行こう」
「は、え」
庵が驚くころには、風を切る音がした。
瞬間的に、蛾の翅を視認する。
醜く、美しい。背の毛が逆立つような、奇妙な柄。
目に焼き付いて、しかし、瞬きしたころにはなくなっていた。
「手荒なことはしたくない、だから、ただ言うことを聞いてくれないか」
メーメは大人しく拘束される。音よりも早く制圧され、彼女は何か、呆れたような様子だった。
「これなら、従っても神父様に小言は言われないわね」
教会内を荒らさないように。とだけ告げられ、彼女はまっすぐ山へ向かっていった。
掠れた声がさらに掠れ、ただ空に喉の細い音が鳴った。
絶句。
気の毒そうに目を伏せたジーザイルの表情は、いつにも増して人間味があった。そのために、庵とキルディは激しい焦燥感に見舞われた。
「どうなんだ」
質問に対して、慎重に言葉を選ぼうとする。
悩んだ末に、ジーザイルは言った。
「別室で話そう」
「貴方は、私と」
メーメがすかさず颯懍を誘導し、三人は遠く、離れた部屋へ移動した。
歩く間、緊張が絶えなかった。
♰
薄暗い部屋で、適当に向き合うように座る。
静かにジーザイルの言葉を待ち、仕草ひとつひとつを観察する。こちらを見てくれる様子はない。癌を患者に伝える際には、こんな雰囲気になるのだろうか。そんなことを思った。
「見たことがない」
ジーザイルは呼吸いっぱいに其れを言い、深く息を吸った。
「見たことがない病状だ、庵や私より、ずっと酷い。酷い施しをされている」
ようやく目を合わせてくるが、その目の意は、あまり読めなかった。
庵には、戸惑い。困惑、或いは、恐怖。そんなものが、感じ取られた。
「具体的には、どういうことなんだ」
「…前提から話すことになる。想像、してほしい」
ジーザイルはゆっくりと話し始める。
天使は、相当する人間に種を埋め込む。
その際、傷が生まれる。
後に、金色の糸で縫い付けられる、例の傷だ。
庵の場合、首。
私の場合、顔。
颯懍の場合は、うなじだった。
そんな傷よりも大事なのは、種だ。
相当する人間の、傷の断面に
植え込まれる 天使の種。
庵もジーザイルも、種を植えられた。
しかし、颯懍は別だった。
颯懍に植えられたのは、恐らく、
蕾だ。
「蕾?」
キルディが顎に手を当て、興味深そうに聞く。
「それって具体的に、こう、何が変わるんだ?」
静かな部屋だ。ジーザイルが肩の力を抜き、服の摩擦音だけが耳に残る。フードを脱いで、一つ伸びをし、深呼吸する。
「開花する寸前の蕾だ。君たち風に言えば…病状が進行している状態で、植え付けられている。といった感じか」
「種ってやつもいずれは蕾になるのか?」
「なる」
二人の会話を聞き、庵は息を吞む。
「比喩ではなく、全て言葉通りだ。種なんだ。種は根を張って蕾となり、花開く」
図解するように片手を扱い、ジーザイルは想像させる。
体内に植えられた種が、侵食していく。
花開くとどうなるのか。それはどうにも庵には恐ろしくて、聞くことができなかった。
自分の行く末を聞くことと同義だと、わかってしまった。
「でも、俺達は種のまま…なんだよな」
「そうだ。敢えて言うならば…私や君ですら、まだ蕾になっていないのだ」
癌の申告。やはり、まさにそれだった。
♰
今、君たちにできることはない。
強いて言えば、その彼を安静にさせておくことくらいだ。
そう告げられ、我々は颯凜のところに戻された。
「ァ、庵。キルディ」
捨てられた犬のように、怯えた表情をしている。
「おかえり、おかえり、俺…」
庵は咄嗟に抱きしめる。
大丈夫、大丈夫だと声をかけながら、優しく両腕を回した。
「用事は済んだ。帰ろう」
敢えて淡白に話すキルディは、こちらには既に背を向けていた。
彼の瞳は、震えていた。動揺していた。
キルディなりに、颯凜のことが心配で仕方がなかったのだ。
「お帰りになるのね。また、何かあったらおいでなさいな」
穏やかな口調で言い、メーメは扉を開く。
「…あら?」
声より早く、その人影はいなくなっていた。
それは、颯凜のそばに居る。
「颯、颯…怪我はしなかったか」
「に、にいや」
鼬凛だった。鼬凛は庵が離した颯凜をすかさず両腕で強く抱き締め、手を震わせた。
心配だったのだろう。その心配は、可哀想に思えるほど強い感情だったようだ。
彼らはしばらく黙って抱擁を交わした後、庵に視線を向けた。
「颯は俺が連れて帰るから。面倒見させちゃったね」
「わかった」
了承し、キルディがそっと鼬凛の服に手紙を忍ばせる。
『詳しくは後に話すが、今は安静にさせろ』と、手際よく簡潔に記した手紙だ。
二人をひとしきり見送り、メーメにも別れを告げる。
静かになった。廃れた村はいつだって静かで、古い建造物が風で軋む音、くらいしかしない。
庵は無意識に煙草を手に取る。横から、キルディが「もらい」と一本盗んだ。二人で火をつける。
同時に一つ、吸って、吐く。
キルディは案外、煙草も吸い慣れてるんだな。ただ、そう思った。
「なあ、庵」
こちらを見た彼は、なにか、いたずらな表情をしていた。
「今すぐできることって、検討つかないだろ。だからさ」
「ちょっと、二人で出かけないか」